Iwao Yamamoto

立命館大学名誉教授。専門は日系アメリカ・カナダ文学。主な業績は共著『ヨーロッパ現代文学を読む』(有斐閣、1985)、共編著『日系アメリカ文学雑誌集成』全22巻、別冊1(不二出版、1997-1998)、共著『戦後日系カナダ人の社会と文化』(不二出版、2003)、共編著『南北アメリカの日系文化』(人文書院、2007)、共訳『ヒサエ・ヤマモト作品集―「十七文字」ほか十八編―』(南雲堂フェニックス、2008)。

(2011年1月 更新)

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日系アメリカ文学雑誌研究: 日本語雑誌を中心に

アメリカ東海岸唯一の文芸誌『NY文藝』―その4/9

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3.『NY文藝』の内容

(1)創作(その1)

あべよしおと秋谷一郎は『NY文藝』の編集と発行に中心的な役割を果たしたが、彼らはまた創作においても重要な存在であった。したがって、まずこの2人の作品について、次に他の同人の作品について、概観しておきたい。

あべよしお(1911-1981)はオレゴン州ポートランドで生まれ、10歳の時に家族と共に父の郷里の岡山へ来た。1936年、早稲田大学を中途退学してアメリカへ帰り、戦時中には連合軍の対日情報部員としてインドへ行った。戦後、ニューヨークへ出て北米新報社で働き、様々な政治運動、社会運動に積極的に関わった。桜庭と結婚したのもニューヨークである。安保闘争の激しかった1960年、桜庭と共に日本へ来て日本共産党に入党し、『民主文学』と『文学かまくら』に作品を発表した。1981年1月15日、あべと桜庭の心中遺体が発見され、当時の新聞や雑誌に大きく取り上げられた(例えば『週刊新潮』1981年1月24日号)。亡くなる10年程前から健康がすぐれなかったという(片岡巍「あべよしお氏の死を悼む」『民主文学』1981年4月号)。

あべは『NY文藝』に長編(長編としては短いが)を1編、短編を3編、詩を1編書いている。長編小説『ニューヨーク六十五丁目』は「プロフェッサーの恋」(第4号)、「ニューヨークのお稲荷さん」(第5号)、「道を求めて」(第6号)、「ルーミング・ハウス」(第7号)の4作品から成っている。作家としてのあべの関心の所在と文学的力量を最もよく示すのがこの長編である。

『ニューヨーク六十五丁目』は1950年代の「ニューヨーク市の貧民街」といわれる下町の65丁目に住む、アメリカの夢が破れた日本人の生活を、当時の政治の動きの中で描いている。現在の65丁目には市の再開発事業によって文化施設が立ち並んでいるが、戦後間もない頃は、貧しい日本人が貧しい日本人のために経営する周旋屋、安アパート、食堂、賭博場、隠れ飲み屋などがあった。主人公は「赤」といわれる一世の独身の学者・大野である。彼が防空演習のサイレンを聞くと原爆を連想して異常行動を示すこと、かつての妻(ユダヤ人)のナチ収容所体験と大野の親族の被爆体験に共通性を確認すること、FBIに尾行されるようになった大野の恐怖心を妻は同志愛の欠如と見なして立ち去っていくことなどは、読者にとって印象的なエピソードである。

この長編は文学的に質の高い作品となっている。確かな構成、個性ある登場人物、起伏に富むストーリーの展開、重い内容とは対照的な平易な表現の効果などが見られる。ただ社会主義の政治論が生のままでしばしば、場合によってはかなり長く、現れる点に違和感を覚えるが、ニューヨークの下町の貧しい日本人社会を描くこの作品は史料としても貴重である。

「日本人大好き」(第3号)は老年を迎えた一世の独身男性の否定的側面を描いた作品である。あからさまな人種的偏見と日本の女性に対する異常なまでの欲望が、アメリカで長年生活してきた一世の陥りやすい危険として指摘されている。

「よそものの風が吹く」(創刊号)は二世への違和感と言語上の引け目を持つ一世の男性の心理を描く。物語の最後で、主人公は妻の病気に対する不安と絶望感に苦しむ中で、二世である息子の嫁へ信頼感を寄せる。ここにあべのメッセージがあるといってもよいだろう。強い印象を残す優れた短編となっている。「異邦の客の子」(第10号)は『民主文学』(1966年5月号)からの転載作品で、偏見と差別がテーマである。

参考までに、あべが『NY文藝』以外の場所で発表した作品についても少し触れておきたい。

マルクス主義の社会批評雑誌Masses and Mainstream に「柿の種」(“Persimmon Seed“)(1948年6月号)、「息子の道」(“Son’s Way”)(1953年6月号)など3篇の短編が掲載されている。「柿の種」は渡米する理由となった親族間の争いを、「息子の道」は戦後の連合国軍支配に反対する「東大生16人」の事件を取り上げていて、いずれも日本の出来事であり、アメリカにおける日系人の歴史や彼らが直面する現実に触れるものではない。

日本へ帰ってから発表した3部作『二重国籍者』(1971-72)はあべのライフワークといえる自伝的長編小説である。開戦後、収容所に入れられ、その後、情報部員として抗日戦線に参加するなかで味わう、自己のアイデンティティの不確かさがテーマとなっている。このようなテーマにあべが初めて本格的に取り組んだところに、この作品の特徴がある。

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* 篠田左多江・山本岩夫共編著 『日系アメリカ文学雑誌研究ー日本語雑誌を中心にー』 (不二出版、1998年)からの転載。

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日系アメリカ文学雑誌研究: 日本語雑誌を中心に

アメリカ東海岸唯一の文芸誌『NY文藝』―その3/9

その2>>

創刊号に掲載された作品の中で創作の占める比率が圧倒的に高く、評論や随筆、詩、短歌は少ない。これが『NY文藝』の特徴で、この特徴は最後まで維持されることになる。

カール・ヨネダと三田穢土が作品を寄せている。カール・ヨネダは帰米二世で労働運動の活動家として日本でもよく知られている。三田穢土は上山平八のペンネームである。「ハリウッドの怪人」といわれた上山草人と女優・山川浦路の一人息子で、1930年代に労働者の生活を詠む詩を西海岸の日系新聞に多く発表し、当時の有力な文芸同人誌『收穫』の編集にも携わっていた。秋谷一郎はサンフランシスコにいた時、ロサンゼルスの三田とよく会っていたという。

第2号(1956年6月)において創刊号の合評会の記事が載っている。お互いに批判し励まし合うことによって文学的力量を高める、というのがあべの考えであった(「北米新報・春季文芸特別付録」の座談会)。それを実行に移したのがこの合評会である。西野鉄鎚(家具製作所経営)、崎村白津(川柳結社の主宰者)、それに櫛田句陽が新たに同人となっている。

第3号(1957年12月)に伊藤新子(ペンネームは池田まり子)(留学生)と橋本京詩(クリーニング業)、大村敦(演劇評論家、骨董修繕業)、桜庭ケイ(留学生、後に画家となる。あべよしおの妻)が新しく参加して作品を発表している。そして、これら4人の同人は、その後も積極的に作品を寄せた。

第4号(1958年10月)は創作の数が6編と多く、ページ数がかなり増えている。『NY文藝』の在り方について、あべが「編集後記」で、「長い目でみれば十年間には十回の発行、その中からアメリカに住む日本人の典型が生きた人間の暮しのいぶきを日本文学の本流にふきこむ作品が、たとえ一つでも生れでれば、文学史的には特異な意義を持つものとなろう。たとえ生れでなかったとしても、それにむかってそそがれる努力は、アメリカで日本語をバカにして英語をあやつって働いて食って死んでいくだけの処世術達者の成功では買えない貴いものとなるであろう」と書いている。また本号には『北米新報』に「日本通信」を送っている松本正雄が、後で大きな議論を巻き起こすことになる『NY文藝』論を寄せている。

第5号(1959年10月)でカール・ヨネダと林徹磨(留学生、後に大学講師)が同人となっている。あべが「編集後記」で、さらに文学について論じて、「[文学をやっていくためには]まず人間への愛情、人生への尊敬、これをはばむものへの反抗が基となるであろう。いわゆる生活派の文学論を遵奉はしないが、社会と切り離して人生も文学もなく、美への渇望なくして芸術はない、というところから出発し、これをゆがめるもの汚すものの醜さを叩きつける生活感情のたくましさがほしい」と述べている。
第6号(1960年10月)から秋谷が編集兼発行人となった。あべが妻の桜庭ケイと共に日本へ帰ったからである。秋谷はあべについて『NY文藝』を育てあげてきた人として高く評価している(「編集後記」)。相馬真知子(本名は山中真知子)(主婦)がカリフォルニアから投稿している。後に『南加文藝』の主要な同人の一人となる。

第7号(1961年12月)は創作、随筆のいずれにも多くの作品が集まり、236ページという大部の号になっている。相馬真知子が正式な同人となる。北見俊郎(経済学者、関東学院助教授)も同人に加わる。漢字を用いないで、ひらがなだけで書いた林徹磨の実験作品が掲載されている。後に話題となったものである。

第8号(1963年11月)は予定より1年ほど遅れて発行された。ページ数も第7号の半分以下になっている。いずれも財政上の理由からである。花江マリオが珍しく戯曲を書いている。創作中心の『NY文藝』で戯曲が掲載されるのはこれが初めてである。西野鉄鎚が短編「林檎の老木」を書いているが、これが遺作となった。

第9号(1965年11月)も財政的な理由で発行が遅れた。「西野鉄鎚追悼特集」が組まれている。故人と親交のあった石垣綾子が追悼文を寄せている。新たにルーク・ヤング(台湾出身、デュポン社勤務)と辻あきひこ(戦後渡米しロサンゼルス在住)が同人となる。

第10号(1968年7月)は「第十号・記念号」となっている。秋谷一郎の病気(脳卒中)のため、この「記念号」の発行が予定よりかなり遅れてしまった。有力メンバーの西茂樹、橋本京詩、桜庭ケイの作品が見られない。「十二年の足跡」として秋谷が『NY文藝』の歴史を振り返っている。史料として有益である。これまでも、日本へ帰った同人や日本にいる支持者を媒介として『NY文藝』と日本との結びつきは強かったが、本号の「対談=石垣綾子・松本正雄」(二人とも同人ではない)もその例である。河内芳夫(歯科技工士)の短編は創刊10周年の記念行事として実施した懸賞小説募集の応募作品である。同人以外の人を対象としたが、応募者が河内一人であったといって秋谷は嘆いている。ロサンゼルスの『南加文藝』とブラジルの『コロニア文学』が紹介されているが、秋谷によれば、これらの同人と直接交流があったわけではないという。

第11号(1975年2月)は前号から7年後に発行され、「大村敦・秋谷聡子追悼号」となっている。発行が遅れたのは秋谷一郎が病気で再三倒れたこと、妻・聡子(ニューヨーク総領事館勤務)の不幸があったことなどのためである。大村と秋谷聡子を追悼するために、大村の未発表の短編と秋谷聡子のやはり未発表の詩が集められている。同人による追悼文がないのは、秋田一郎にそのような依頼をする時間的余裕がなかったからであった。新しい同人の唐木康江(ニューヨークの法律事務所勤務)がエッセイを書いている。この第11号の「編集後記」で、秋谷は「これからは是非定期的発行を続けて行きたいと思います」と記しているが、それは実現せず、結局、本号が最終号となった。

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* 篠田左多江・山本岩夫共編著 『日系アメリカ文学雑誌研究ー日本語雑誌を中心にー』 (不二出版、1998年)からの転載。

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アメリカ東海岸唯一の文芸誌『NY文藝』―その2/9

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2.『NY文藝』の創刊とその後の経過

『NY文藝』は1955年に創刊され、1975年の第11号をもって終刊となった。創刊および発行の継続に中心的な役割を果たしたのが、編集兼発行人を務めたあべよしお(阿部芳雄)(第1-5号)と秋谷一郎(第6-11号)である。共に戦後、ニューヨークに再定住した帰米二世であり、『NY文藝』の創刊時、あべは44歳、秋谷は46歳であった。この同人誌の創刊とその後の経過を、秋谷一郎「十二年の足跡」(『NY文藝』第10号」)をも参考にしながら、簡単に辿っていきたい。

前章で『NY文藝』創刊への動きとして日系人文芸懇親会に触れたが、この同人誌が生まれる直接的な基盤となったのは『北米新報』の文芸欄である。芳賀武が創刊したこの日系新聞は最初から日系文学の振興に強い熱意を示していた。創刊号(1945年11月15日付け)に「在米小説大募集」という社告を載せ、「本紙は創刊と共に在米同胞の『文芸復興』を計るを以て一つの奉仕とし度いと思ひます」と述べて「短編小説」を募集している。その目的は「アメリカ移民五十年の生活には血のにじむ様な現実が余りにも多く含まれて居ます。我々は之れを文芸とし一先づパールハーバーに依って日系人第一期の歴史の幕を閉ぢたのを記念し、以て『より良き将来』へ出発せんとする同胞の参考に供したいと思ひます」であった。1951年に貴田愛作が『北米新報』を引き継いだが、この日系文学への支援の姿勢は変わらなかった。

1950年、芳賀があべよしおに『北米新報』の文芸欄の担当を依頼してから、この文芸欄が充実してきた。あべは読者の創作意欲を高めるために、作品の掲載だけではなく、日系文学に関する座談会の開催や新年号の賞品付き作品募集など様々な積極的方策を打ち出した。読者の反応も良好だった。「日本文学のルネッサンス時代」(秋谷一郎「十二年の足跡」)の様相を帯びてきたのである。「北米新報・春季文芸特別付録」(『北米新報』1950年4月13日号)に載った座談会には、アメリカにおける日系文学の歴史とその評価および課題について論じられており、それはまた文学に寄せる出席者たちの期待と意欲を伝えるものとなっている。

このように『北米新報』の文芸欄を中心に文学活動が盛り上がり、1953年頃からこの新聞に投稿する人たちの間で会合が持たれるようになった。そして1954年に『NY文藝』という同人組織が生まれ、1955年に『NY文藝』が創刊されたのである。

『NY文藝』が生まれるまでの動きを見ると、芳賀武、あべよしお、秋谷一郎、貴田愛作が重要な役割を果たしているが、これらの人々の間には共通する一つの特徴点がある。それは社会主義への確信あるいは期待であり、反ファシズム・反軍国主義の姿勢である。これらの人たちが戦時中、連合軍やアメリカ政府の情報機関で働いたのはこのような立場からであった。

『NY文藝』の創刊号は1955年5月に発行された。同人はあべよしお(『北米新報』勤務。以下、当時の職業などを示す)、秋谷一郎(家具工)、花江マリオ(麻利男)(本名は荒井碧)(領事)、前川柳平(白人家庭の家事労働)、西茂樹(時計商)、田中儀一(船員)、田実節(川本裕二の妻の父。職業は不明)の7名である。創刊に当たって、発行は年1回、発行部数は500部とし、あべを編集兼発行人とすること、費用の関係で雑誌の作製はすべて日本で行なうこと、会費は年間5ドルとすること、投稿作品も受け付けることなどが決められた。

通常、同人誌の創刊号に掲載される、いわゆる「創刊の辞」がこの創刊号では見られない。しかし、あべが「編集後記」の中で創刊の目的に触れている。少し長いが引用しておきたい。

「日本からの訪問者が在米日本人はオカシナ日本語をしやべっているという。こちらの生活を考えたら、オカシクはなく、むしろアワレを、それよりも尚、イキドオリを感じずにはいられないだろう。英語に押される、英語でなければ、片言であっても、渡ってゆけない社会なのだから。それでいて日本人が寄れば、日本語出なければどうしても通じないつながりをわれわれは持っている。その日本語は、環境に支配された、地方弁的な、アメリカ日本語であっても。こうした中へNY文芸を送り出すことに、われわれは民族的なホコリを感じる。国粋につながるものでなく、民族を背景とした人間としてのホコリを。移民文学といわれた昔の異郷と望郷趣味にひたるものでなく日本の血を享けた人間がアメリカで人生を開拓していっている、そして民族の言葉を守っていっている、という新しい意味での文学を」。

ここであべが目指す文学は新しい移民文学である。それは英語の世界で生きる日本人としてその民族性と言語を大切にする文学であり、アメリカにおける日本人の、疎外感に捕らわれながらも切り開いてきた人生を描く文学である。インターナショナリズムを強調せず、「国粋」を拒否しながらも「民族」を強く主張している点が興味深い。

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* 篠田左多江・山本岩夫共編著 『日系アメリカ文学雑誌研究ー日本語雑誌を中心にー』 (不二出版、1998年)からの転載。

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日系アメリカ文学雑誌研究: 日本語雑誌を中心に

アメリカ東海岸唯一の文芸誌『NY文藝』―その1/9

はじめに

1955 年、ニューヨークで『 NY文藝』が創刊された。ロサンゼルスで『南加文藝』が創刊される10年前のことである。その第3号に「ニューヨークで発行されるアメリカ唯一の文芸同人雑誌」と記されている。戦後のアメリカで初めて本格的な文芸誌が生まれたのである。

ニューヨークにおける日系日本語文学活動はほとんど知られていない。そもそもそのような活動があったのかどうかさえ不明であった。『在米日本人史』(1940)も『米国日系人百年史』(1961)もニューヨークを中心とする東海岸における文学については何も触れておらず、日系日本語文学はもっぱらカリフォルニアを中心とした西海岸の文学として捉えられてきたのである。この度、秋谷一郎氏のご厚意により『NY文藝』全号の復刻が可能になったことは、日系文学研究上、大変意義深いことである。今まで知られなかったニューヨークにおける文学活動の実態とその成果に、ようやく触れることができるようになったからである。今後のこの雑誌の研究に少しでも役立つことを願って、雑誌創刊の背景とその内容、意義などについて解説しておきたい。

1.『NY文藝』創刊以前のニューヨークにおける日系社会と日系文学

1860年代後半に日本から留学生がニューヨークへやってきた。しかし、1876年に森村豊、新井領一郎などの一団がやってきて商店を開いたことが、この地における日系アメリカ人社会の実質的な始まりといえる。日米貿易は日清戦争(1894-95)後、盛んになり、日露戦争(1904-05)後はさらに伸び、第一次世界大戦(1914-18)が始まると大きく拡大している。このような貿易の発展とともに定住者も次第に多くなっていく。ニューヨーク州における日系アメリカ人の人口の推移を見ると、1900年-354人、1910年-1,247人、1920年-2,686人、1930年-2,930人となっている(Paul R. Spickard, Japanese Americans , 1996)。貿易や金融に従事する人が多かったことが特徴である。

日本の中国大陸侵略による日米関係の緊張と、それに続く太平洋戦争はニューヨークの日系アメリカ人社会にも大きな影響を与えた。対日世論が悪化し、日米貿易の縮小と麻痺によって日本商社の社員は帰国しはじめたが、留まらざるをえない地元の日系居住者は厳しい状況に直面した。

日米開戦後、西海岸の場合とは異なり、ニューヨークの一般日系市民の立ち退きと収容所への隔離は行なわれなかったけれども、日系諸団体はその活動を自粛せざるをえなかった。このような状況の中で、民主主義擁護の立場から活発に活動したのが日米民主委員会である。日本軍国主義を批判し、アメリカに忠誠な日系人への差別反対運動、再定住者への援助などを行なった。『NY文藝』との関連でいえば、『北米新報』の経営を1952年に芳賀武から受け継いだ貴田愛作がこの委員会の会計を務めている。

戦後、世界情勢が大きく変わり、日米関係も大きく変化した。戦禍を受けなかったアメリカは軍事的経済的に世界の超大国となり、勢力を拡大するソ連と冷戦に入って、日本はアメリカの世界政策の中に組み込まれていく。1950年代に入ると対日講和条約、日米安全保障条約、日米友好通商航海条約が結ばれる。かつての「敵国」が「友好国」となったのである。新たな日本の政府機関と多くの商社がニューヨークへ進出する。

またアメリカ国内でも日系社会に大きな影響を与える動きが見られた。まずヨーロッパ戦線における日系部隊の活躍によって日系人への評価が好転し、再定住が容易になる。1952年、マッカラン・ウォルター移民法が成立して一世の帰化権がようやく認められる。他方、1954年に連邦最高裁が公立学校における人種分離教育に違憲判決を出し、黒人の差別撤廃運動が大きく盛り上がる。この運動はやがて1960年代以降の、日系を含む他の少数民族の民族意識の高揚を促すことにつながっていく。

ニューヨークにおける戦後間もない日系社会内部の特徴の一つは人口の増加である。再定住のためにニューヨークへやってきた多くの西海岸出身の日系人、戦争花嫁の渡米、そして前述した日米貿易の増大による商社員の急増などによるものである。国勢調査によれば、1940年-2,538人、1960年-8,702人となっている。

日本への救援活動と日系社会内の共済事業への積極的な取り組みも、戦後間もない日系社会の特徴である。日本救援紐育委員会が結成され、この委員会を改組拡大して紐育日系人会が生まれる。これらの二つの組織の役職に、後に『NY文藝』の同人となる田実節、西野鉄鎚、川本裕二、大村敦が就いている。1930年代に多くの詩やエッセイを発表した二世のチエ・モウリ、ジョウ・オオヤマも加わっている。また同人ではないが、『NY文藝』創刊の基盤を作った芳賀武が理事を務めている。

太平洋戦争以前のニューヨークの日系社会では文学活動はほとんど見られなかったといってよい。『紐育の日本』(1908)と『紐育日本人発展史』(1921)の中で当時のニューヨークにおける日系社会の各種の市民団体と主要な人物の名が記されているが、そこには文学関係の名前は見当たらない。ただ『紐育の日本』において、1907年にニューヨークで創刊された月刊誌『太西洋(ママセイヨウ)』の主筆が「小説家として知られたる中村春雨なり」と記録されている。しかし彼の執筆活動の様子については何も触れていない。

このような状況の中で唯一の例外は佐々木指月(1882-1945)の存在である。1930年にニューヨークで禅堂を開いた指月はシアトルの日系新聞『大北日報』などに自伝的エッセイをよく発表した。山崎一心編集の『アメリカ文芸集』(1930)と『アメリカ文学集』(1937)にもニューヨークからそれぞれ「序に代えて」と2編の短編、「序」と4 編の小品を寄せている。また日本で第一次世界大戦後、アメリカ物が好んで読まれるようになると、指月は『中央公論』にエッセイを連載し、『米国を放浪して』(1921)、『さらば日本よ』(1922)、『亜米利加夜話』(1922)を日本で出版している。ただ、指月はニューヨークの日本人と親しく交際することがなかったようなので(森美那子「小伝・佐々木指月」『南加文藝』第22号、1976)、彼の文学活動は孤立的なものであったといえる。

戦時中のニューヨークでは日系人の文学活動は見られない。西海岸では開戦後、約11 万の日系人が強制収容所に隔離され、皮肉なことではあるが、いくつかの収容所では文学の同人組織が生まれて、かなりの成果をあげたこととは対照的である。

戦後、ニューヨークへの再定住者が増える中で、二つの文学愛好者組織が生まれる。「趣味の友」と日系人文芸懇親会である。「趣味の友」は文学の愛好者だけでなく、美術や宗教などに関心をもつ人たちも含む組織で、1946年、上田雅孝を中心に設立された(『1948-49年度紐育便覧』)。1948年には同人が60名となり、毎月例会を開いていたという。その後、上田が国務省に勤務し多忙になったため、1950年代半ばには会の活動は低調になってしまっている(『1956年ニューヨーク便覧』)。

日系人文芸懇親会は1946年頃、画家の八島太郎・光子夫妻を中心として文学愛好者が集ってできた組織である。参加者はあべよしお、秋谷一郎・聡子夫妻、川本裕二(日本の民芸品販売)、南博(社会心理学者。日米開戦のため大学院課程終了後も帰国できなかった)、ジーン許斐(このみ)(許斐仁)(戦前、西海岸で新聞記者)、ジョージ谷本(谷本登)(コック、後に植字工)などで、会そのものは小さく、また会合も不定期にしか開かれなかった。内部の人間関係の悪化と八島夫妻のカリフォルニアへの移住などで、わずか1年ほどで自然消滅してしまうが、同人誌の出版が考えられていたこと、後に『NY文藝』の中心的存在となるあべよしおと秋谷一郎が積極的に活動していたことなどは、『NY文藝』の創刊へと繋がる動きである。

最後に、ニューヨークにおける英語で書かれた日系文学について触れておきたい。ドイツ人の父と日本人の母を持つサダキチ・ハートマン(Sadakichi Hartmann)(1867-1944)は日本生まれの一世で、日系英語文学のパイオニアの一人であるが、1880年代からニューヨークなどを活動の場として多数の著作を発表し、美術評論家、劇作家、詩人、随筆家としてアメリカの美術や文学の世界に影響を与えている。

戦後の動きとしては、マンザナ収容所からニューヨークへきたチエ・モウリ(1915-)が『バンドワゴン』(Bandwagon )にエッセイと詩を書いている。この雑誌は1949年に発足した二世唯一の政治組織「二世プログレッセブズ」の機関誌で、組織そのものはその後、マッカーシズムの影響を受けて間もなく解散したが、モウリは編集委員の一人であった。また、1989年に『スシとサワードウ』(Sushi and Sourdough: A Novel )を出版し、現在ニューヨーク在住のトオル・カナザワ(1906-)も『バンドワゴン』の編集委員であり、当時、政治色の強いエッセイを書いている。帰米二世の詩人・古田草一(1927-)は英語で詩を書くが、彼が最初の詩集を出版したのは1980年である。

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* 篠田左多江・山本岩夫共編著 『日系アメリカ文学雑誌研究ー日本語雑誌を中心にー』 (不二出版、1998年)からの転載。

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詩歌とエッセイの文芸誌『ハートマウンテン文藝』 -その5/5

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(5)その他

詩は全部で25編ありが、素朴なものが多く、完成度の高い作品は極めて少ない。良き指導者に恵まれなかったことがその原因かもしれない。良秋(岩室吉秋)が6編の作品を発表しているほかは、ほぼ一人一編である。季節の風景を歌う作品がもっとも多いが、収容所生活の憂いと悲しみ、収容所生活ゆえの南カリフォルニアへの郷愁、平和を願う心などを歌う作品も目立つ。恋の詩も数編見られる。

H・N生「アラバマの空」と常石芝青「大悲心山」は心を打つ作品である。「アラバマの空」では幽囚の身の悲哀と自由への憧れが、また「大悲心山」では慈母としてのハート山の姿が、いずれもやや古風な表現を通してであるけれども、読者の心に強く訴えてくる。山本幸枝「友隔離所に移される」は素朴な「詩日記」であるが、トゥーリレイクに向かう列車を見送る人の心境がよく描かれている。

創作はこの文芸誌の性格上、掲載されにくく、わずか2編で他に掌篇が「三題」あるにすぎない。吉川国雄の短編「残った者」は優れた作品である。メス(食堂)で働く兄(帰米二世)の所へ転住してデンバーにいる弟から手紙がくる。母を引き取りたい、しかし英語の下手な兄さんは仕事を探すのが大変だから駄目だ、という。弟はアメリカの文化を生きている人である。兄は死んだ父の代わりに家族を支えてきた生活を振り返る。彼は母に弟の所へ行きたいのかどうかを問う。迷う母に、兄の妻が留まるように説得し、母もそれを受け入れる。弟と妹が外へ出て困らないのはお前のおかげだ、といった母のことばを兄は思い出し、うれしく思う。この短い作品の中で収容所の日系人家族が当時抱えていた問題が浮かび上がってくる。一世の高齢化と世代交代、二つの文化の対立、転住を巡る葛藤などが具体的な家庭問題として、家族同士のこまやかな配慮と抑制された反発心の錯綜を通して描かれているのである。

前田静江「星への頼り」は志願兵として出征した夫への想いを綴る、素朴であるが印象的な作品である。最後の章は一見唐突にみえるが、ここで物語上の大きな時間の変化が示され、「現在」の夫の状況が明らかにされて、作品の締めくくりとして効果的である。「私」が「アメリカ兵としての日本人の貴方の力を信じます」と記す中に、作者のメッセージを読み取ることができるだろう。戦時における二つのアイデンティティの統一の物語となっているのである。これら2編の短編は身近な家族のことを書くということが、必然的に日系人全体が抱える問題について書くことになるということを主張しているように見える。

『ハートマウンテン文藝』で忘れられないのは画家エステル・イシゴ(Estelle Ishigo)(1899-1990)の存在である。白人である彼女は美術学校で二世のアーサー・シゲハル・イシゴと出会い、異人種結婚が禁じられていたカリフォルニアを一時的に出て結婚し、再びカリフォルニアに戻ってきて日系社会の中で暮らしていた。日米開戦後、夫と共にポモナ仮収容所に、次いでハートマウンテン収容所に入り、収容所が閉鎖されるまでそこで過ごした。その間、エステルは多くの画を描き、立ち退きから収容所を去るまでの日系人の生活を記録した。彼女の作品『ロウン・ハートマウンテン』(Lone Heart Mountain)(1972)はミネ・オークボの『市民13660号』(Citizen 13660)(1946)と共に、画と文章による収容所の記録としてよく知られている。『ハートマウンテン文藝』の表紙のすべての画と多くの挿絵は彼女の描いたものである。そこにはこの収容所における人々の日々の生活が共感を込めて生き生きと描かれている。これらの画によって、この雑誌は他の収容所のものとは異なった独自の趣と魅力をもつ文芸誌となっている。

5. 『ハートマウンテン文藝』の意義

今まで述べてきたことをまとめる意味で、この文芸誌の意義として二つの点を指摘したい。まず文学的観点からいえば、この雑誌が収容所における各種の文芸結社と文芸愛好者たちを結集する場としての役割を果たすとともに、戦前の日系日本語文学の到達点を特に短歌と俳句という短詩型文学の分野において強く引き継ぎ、戦時中の文学として展開したことであり、それを一世と帰米に生の協力によって成し遂げたということである。組織的にこれらの結社を統合して「ハートマウンテン文藝協会」を結成することはできなかったけれども、それだけにこの文芸誌が各結社の共通の作品発表機関として機能し、収容所内の文学愛好者たちの結束を図る役割を担っていたといえる。

既に述べたように、詩歌とエッセイを特徴とするこの雑誌は、全体としてその文学的水準は決して高いとはいえない。しかし短歌と俳句においては作品を発表する人が多く、優れた作品もかなり見られる。これはいうまでもなく、戦前から活躍していた高柳沙水、常石芝青という良き指導者がいて、彼らから直接、指導を受ける機会に恵まれていたからである。編集責任者であった帰米二世の岩室吉秋も高柳沙水が主宰する心嶺短歌会の会員だった。良き指導者の存在のよって戦時のこの収容所においても短歌・俳句の愛好者層が拡大し、その質的向上が図られたのである。

なお戦後、高柳沙水はロサンゼルスへ戻り、『羅府新報』の「歌壇」の選者を務めるなど、歌人として活躍した。常石芝青も『羅府新報』の「俳壇」を担当するとともに、『北米俳句集』(1974)を編集している。また岩室吉秋はシカゴへ転住し、保険業を営むかたわら「日系人社会の文化生活の向上」を目指して、文化文芸誌『日系文化』を1948年に創刊した。高柳沙水が短歌を、常石芝青が英詩の日本語訳を寄せている。大久保忠栄もシカゴへ転住し、『シカゴ新報』に随筆や評論などを寄稿した。

『ハートマウンテン文藝』のもう一つの意義は歴史の記録としてのそれである。文学はそれを創る人の思想や心情を表現する。たとえどのような文学的装いをこらそうとも、作者の思想や心情は自ら現れるものである。したがってこの雑誌に掲載された多数の作品は、収容所に隔離された日系人が当時の特殊な状況の中で、何をどのように考えていたかを示す資料である、記録である。そしてまた、人々が何を考えなかったか、何を書こうとしなかったかをも示す資料であり、記録でもある。この解題文では作品の簡単な分析を通して、人々の思想と心情を若干明らかにしたが、いっそう厳密で広範囲な作品の分析を行うならば、ハートマウンテン収容所の人々の心的状況がより鮮明になり、いくつ物新しい発見も可能となるであろう。

日系文学の関わりでいえば、この歴史の記録としての『ハートマウンテン文藝』は一つの重要な事実を明らかにしてくれる。松田露子(1904-1950)の消息である。松田は1930年代に活躍したロサンゼルス在住の一世の女性詩人であり、社会意識の強い作風で知られている。彼女は『羅府新報』『加州毎日新聞』『收穫』に積極的に作品を発表し、在米沖縄県人会機関誌『琉球』の編集とそこでの執筆を精力的に行っていた。その松田がこの収容所にいた。しかし、かつて同じ文芸連盟の会員としてお互いに知っていたはずの大久保忠栄が編集する『ハートマウンテン文藝』には一切関わらず、画を描いていたのである(岩室吉秋「絵画展覧会印象記」、2月号。前途を嘱望されていた女性詩人が詩作を放棄した理由は不明であるが、立ち退きとそれに続く収容所生活が深く関係していたことは十分想像できる。戦争が有望な一人の文学者の運命を変えたのである。松田は1950年、転住先のシカゴで絵筆を握りながら急逝し、46歳の生涯を閉じている(『北米沖縄人史』、1981)

* 篠田左多江・山本岩夫共編著 『日系アメリカ文学雑誌研究ー日本語雑誌を中心にー』 (不二出版、1998年)からの転載。

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