Harumichi Yamada

東京大学教養学部教養学科卒業。東京大学大学院理学系研究科博士課程退学。理学博士。1986年、松商学園短期大学商学科専任講師、1990年、助教授を経て、1995年、東京経済大学コミュニケーション学部助教授。2006年、教授。研究分野は、社会経済地理学、地域メディア論。 ウェブサイトはこちら>>

(2010年7月 更新)

 

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概説『ユタ日報』-その歴史と意義- その4

>>その3

戦後-使命の終わり

1945年(昭和20年)8月17日付(7394号)と、3日後の20日付(7395号)の間には、大きな断絶がある。17日付までの『ユタ日報』は、普通の日本語新聞と同じように右綴じの形をとっていた。ところが、20日付以降、終刊までは、縦書きの新聞には本来馴染まない左綴じの形が採用されることになったのである。その間の事情は、よくわからないのだが、何とも象徴的な変化であるように思われる。

太平洋戦争が日本の敗戦で終結すると、『ユタ日報』には、敗戦国となった祖国=日本の状況を報じる記事が、次々と掲載されることとなった。最初は通信社記事が主だったが、やがて日本に駐留した二世兵士がもたらす情報が紙面に載るようになった。程なくして、日本の窮状を知った日系人の間から「祖国救済運動」が起こると、『ユタ日報』はこれを支援する呼掛けを積極的に行った。

しかし、収容所が閉鎖され、西海岸への日系人の帰還が本格化し、日系新聞が復刊したり、新たに創刊されたりし始めた1946年(昭和21年)から翌年にかけて、『ユタ日報』は戦時下で獲得した読者を一挙に失い、各地の「支社・支局」も消え去ってしまった。残された部数は2,000部余り。これは『ユタ日報』が、元々の地域紙に若干の部数を上乗せした新聞となったことを意味している。これ以降、終刊まで、世代交替が進むとともに部数は徐々に減少した。戦後の新移民の中から『ユタ日報』の読者となる者は少なく、部数減に歯止めはかからなかった。『ユタ日報』の終刊直後に、東元が定期購読者に対して行ったアンケート調査によると、回答者の半数は『ユタ日報』を戦前ないし戦時中から読んでいる、という。これは驚くべき結果である。また、4人に一人は、戦時中に『ユタ日報』の読者となった人々であった。さらに、回答者のうち実に7人に6人は、年齢が60歳以上なのである。こうした古くからの読者が、高齢化し、死亡し、世代交替が進行するにつれて、部数は緩やかに減少を続けた。日本語を読めない二~三世にとって、一世が必要としていた日本語媒体は、もはや使命を終え、緩やかに、しかし確実に、存在意義を喪失していったのである。

読者の減少とともに、発行頻度も、週3回から徐々に減少して、週2回、週1回となり、最後は月刊(実際には毎月は出ない)となり、最後の2年間には、判型も小さくなった。この間、1966年(昭和41年)には、ソルトレーク市中心部の再開発に伴い、『ユタ日報』は創刊以来のテンプル街の社屋を離れ、「北52西9」へと移った。移転先は、足立光公の自宅敷地の半分を買い取ったものである。最盛期の社員が徐々にいなくなり、『ユタ日報』にとって「最後の社員」だった足立も、1977年(昭和52年)11月5日に他界し、以降の『ユタ日報』は、國子・和子の母娘二人だけで発行されることになった。

さて、國子の事績は、既に1965五年(昭和40年)に松本市名誉市民、1968年(昭和43年)に勲五等瑞宝章といった形で、社会的に顕彰されていた。しかし、『ユタ日報』と國子についての詳しい事情が一般的に知られるようになったのは、1980年代に至って、本稿の冒頭でも紹介した諸論考が公刊されてからであった。当時は、1983年(昭和58年)に「戦時下の強制収容が不当なものであった」とする米国議会の報告書が出されたことを契機に、米国でも日系人に関する議論が高まっていた。國子が、1987年(昭和62年)のエイボン大賞を受賞したことも、そうした流れの中でのエピソードであった。

『ユタ日報』は、1989年(平成元年)には、のべ7号しか発行されず、「平成元年5月」(11870号)からは、判型がそれまでの半分の大きさになった。1990年(平成2年)には、「1月」から「4月」までの4号のみが発行されたが、この「平成2年4月」(11876号)が、事実上の最終号となった。1991年(平成3年)に入り、「平成3年春」(11877号)の活字が組まれたが、実際には配布されなかったようである(この組み上げられた活字は、そのままの形で松本中央図書館に展示されている)。國子が死去したのは、同年8月2日、享年95歳であった。この時、長女・和子は64歳になっていた。戦後の『ユタ日報』は、國子の生命とともに、細く、永く、灯火を掲げながら、やがて静かに燃え尽きていったのである。 (了)

文献

上坂冬子(1985)『おばあちゃんのユタ日報』文藝春秋
小玉美意子・田村紀雄(1983)「コロラド日系新聞小史-戦時下『格州時報』の日文・英文ページを中心に-」東京経済大学人文自然科学論集、64、101~157頁
在米日本人会・編(1940)『在米日本人史』[復刻版(1984)PMC出版]
新保満・田村紀雄・白水繁彦(1991)『カナダの日本語新聞』PMC出版
田村紀雄(1991)『アメリカの日本語新聞』新潮社
田村紀雄・編(1992A)『復刻「ユタ日報」(1940~1945)』五月書房
田村紀雄(1992B)「解説「ユタ日報」」田村・編(1992A)所収、373~386頁
田村紀雄・白水繁彦・編(1986)『米国初期の日本語新聞』勁草書房
田村紀雄・東元春夫(1984)「移民新聞と同化-『ユタ日報』の 事例を中心に-」東京経大学会誌、138、183~218頁
東元春夫(1987)「移民新聞の盛衰と同化に関する一考察-『羅府新報』の場合-」新聞学評論、36、43~56頁
東元春夫(1990)「移民新聞購読と同化のレベルに関する一考察-在米日本人の調査から-」芦屋大学論叢、19、131~157頁
東元春夫(1992A)「「ユタ日報」最後の読者」新聞研究、495、90~96頁
東元春夫(1992B)「「ユタ日報」最後の読者たち」田村・編(1992A)所収、387~392頁
本郷文夫(1993)『松本市・ソルトレークシティ 姉妹提携35周年を迎えて-「ユタ日報」寺沢国子さんを偲んで』松本市ソルトレークシティ姉妹提携委員会
山田晴通(1994)「北米日系新聞関係日本語文献表(第1稿)」松商短大論叢、42、255~295頁
絡機時報社・編(1925)『山中部と日本人』絡機時報社

<<図表>>

『ユタ日報』の発行頻度と発行部数
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 年  発行頻度  発行回数     発行部数   年  発行頻度  発行回数 発行部数
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
1915  日刊      ?           837   1953  週3回     148       1550
1916  日刊      ?           610   1954  週3回     148       1535
1917  日刊      ?            ?    1955  週3回     148       1490
1918  日刊     207           ?    1956  週3回     148       1450
1919  日刊     281           ?    1957  週3回     147       1400
1920 …

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概説『ユタ日報』-その歴史と意義- その3

>>その2

戦時下における部数拡大と広域化

1941年(昭和16年)12月7日(日本時間8日)の真珠湾奇襲は、まず8日付(6852号)で伝えられた。この日、ユタ州知事は州内の日系人を外出禁止処分とし、銀行の預金も凍結された。こうした状況の下で、10日付(6853号)が発行され、一面の論説が一世二世の協力を説き、冷静な行動が呼びかけられたが、社員の出社もままならず、合衆国内の日本語新聞がすべて発行停止処分とされる状況の下、『ユタ日報』の刊行も、一旦は停止してしまった。國子が上坂に語ったところによると、11日の午後にFBIがやってきて、社屋の封鎖と「許可があるまでの発行停止」を命じたという(上坂・1985、137頁)。また、発行停止期間中には、軍の監視下で秘かに日本語文書の印刷を命じられることもあった。

日米開戦という危機的状況の下で、行動の自由を奪われた上、日本語新聞が停刊するという事態は、大方の一世にとっては情報がほぼ完全に遮断されてしまうことを意味していた。開戦後、米国政府当局(連邦政府、州政府、軍、等々)は、一世を含めた日系社会に対して多数の告知・命令を発したが、その内容を十分に伝える仕組みは失われていた。1942年(昭和17年)に入ると、指定された軍事地域の敵性外国人に退去を命じる権限を、陸軍に与える、とした大統領令9066号が、2月19日に発令された。これを受けて、西部防衛軍指令官デウィット中将は、3月3日に西海岸3州及びアリゾナ州南部からの日系人の退去を命じた。その結果、4月から10月にかけて、およそ12万人といわれる多数の日系人が自主移動、あるいは強制移動によって、山中部以東の諸都市や、再配置センター=戦時収容所へと移動することになった。

当時の緊迫した状況下では、必要な情報が伝わらなければ、無用の混乱が生じる危険が大きかった。そうした中で、米国政府当局は、日系社会に告知を徹底する媒体として日本語新聞の有用性に注目することになったようである。全ての日本語新聞を対象としていた開戦直後の発行停止処分は、大統領令9066号発令の頃から、部分的に改められるようになった。カリフォルニア州では、日系人の退去が進んだ短い期間ではあったが、いくつかの日本語新聞が再刊され、政府の告知などを伝える役割を果たした(田村・1992B、381頁)。また、山中部の「山東」に当たるコロラド州のデンバーで発行されていた『格州時報』(英語名・The Colorado Times)と『ロッキー日本』(1943年4月12日から『ロッキー新報』に改題)の二紙は、『ユタ日報』と同様に再刊された。結局、戦時下の米国で刊行され続けた日本語の一般紙は、このデンバーの二紙と『ユタ日報』の、併せて3紙だけであった(小玉・田村・1983)。

2月25日付(6855号[6854号は欠号])から再刊された『ユタ日報』は、紙面に「本誌再刊に際し讀者の皆様へお願ひ」を掲げ、慎重な行動と、『ユタ日報』への支援を訴えた。再刊後の紙面は、FBIによって事実上の事後検閲を受けていた。しかし、『ユタ日報』は、当時の日本の国策通信社=同盟のニュース放送を傍受して記事にするなど、日本寄りの論調も少なからず掲載しており、ある程度の言論の自由は容認されていた様子であった。國子が上坂に語ったところによると、当時は、FBIから「アメリカの新聞の翻訳以外は載せてはならんとくどいほど言われた」(上坂・1985、206頁)というが、FBIも「決して高圧的な態度じゃなく『あなたたちの気持ちもよく分かるが、ここはアメリカなのだということを忘れないようにしてくれ』」(182頁)といった姿勢だったようである。

さて、元々『ユタ日報』は、社の近隣地区以外は郵便によって配布されていたが、再刊後の郵送部数は、収容所をはじめ各地に散らばった一世たちが新たに購読し始めたことで、急速に伸びていった。開戦直前に2,500部程度だったと思われる『ユタ日報』の部数は、最盛期には郵送分だけでも8,000部を越え、1万部程度へと膨れ上がった。(上坂・1985、152頁は、開戦直前の発行部数を「僅か356」と述べているが、これは発行所所在地のある郡の外への郵送部数を発行部数と取り違えたものである。田村・東元・1984、206~207頁は、当時郡内には2,000部程度が配布されていたと推定している。)

読者層の拡大と広域化は、紙面内容にも反映され、5月頃からは各地の収容所からの通信が紙面に現れるようになった。さらに収容所からの再定住が進むにつれて、山中部以東の都市など、各地の日系コミュニティからの情報も、徐々に増えていった。やがて、通信を送ったり、配布や購読申し込みを取り次ぐ「支社・支局」が、各地に開設されるようになった。そうした「支社・支局」が、どこまで実体を伴ったのかは不明だが、読者とともに、紙面も確実に広域化を遂げていた。こうして、ソルトレーク市の小さな地域紙は、戦時下における数少ない「全国紙」として、日系社会の結節点の機能を果たすことになったのである。

戦時下の「全国紙」『ユタ日報』は、各地の収容所やコミュニティの情報を交流させ、日本の立場を少しづつ織り込みながら太平洋戦争の戦況を伝え、欧州戦線における日系人兵士の活躍や訃報を報じた(米国籍の日系人には、1943年(昭和18年)1月から志願制度、1944年(昭和19年)1月からは徴兵制度が適用されていた)。1944年12月には、日系人に対する西海岸からの退去命令が撤回されたが、大多数の日系人は、その後も各地に留まり、『ユタ日報』の報じる西海岸諸州の現況に注目しながら、帰還すべきか否かと思いを巡らせていた。

1945年(昭和20年)1月23日、20年以上も『ユタ日報』の制作を支えてきた足立博愛が、72歳で病没した。畔夫の時代から、経営の苦しい時期を通して、常に『ユタ日報』とともにあった博愛は、部数の絶頂期にこの世を去ったわけである。國子の下に結束していた社員たちの中で長老格だった博愛の死は、『ユタ日報』にとって、「終わりの始まり」を告げるものであった。

その4>>

* 本稿は、「ユタ日報」復刻松本市民委員会,編『「ユタ日報」復刻版 第1巻』 (1994年),pp431~435.に出典されたもので、執筆者のウェブサイトにも掲載されています。

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概説『ユタ日報』-その歴史と意義- その2

>>その1

畔夫から國子へ

寺澤畔夫は、事業家として様々な事業に手を伸ばしたが、同時にコミュニティの名望家としても熱心に活動していた。初期のユタ州日本人会や、山中部仏教会などの組織化に尽力するとともに、二世への日本語教育や日本軍への献金運動に関わるなど、寺澤の手腕は、日系社会のリーダーとしても相当のものであった。当時の日系社会の中には、キリスト教と仏教、定住志向と出稼ぎ、同化志向と日本志向といった様々な軸に沿っての対立関係が存在したが、その中で寺澤は、定住志向ではありながら、仏教徒として、日本人として生きることを選択し、自らの位置を定めていったのである。

1921年(大正10年)、日本に一時帰国し、飯田に帰省した寺澤は、村松國と結婚、二人は年末に日本を離れた(米国への入国は新年に入ってであった)。村松國(後に「國子」と名乗る)は、1896年(明治29年)7月8日、長野県下伊那郡飯田町(現・飯田市)に生まれ、飯田高等女学校から東京の共立女子職業専門学校(現在の共立女子大学の前身)被服科に学び、母校の高等女学校で裁縫の教師となっていた。畔夫と國子の間には、1926年(大正15年)に長女・和子、1932年(昭和7年)には次女・治子が生まれた。

ところで、当時、日本人移民の一世は、合衆国市民権を与えられず、州によっては土地所有が制限されるなど、定住化には多くの障壁が存在した。それでも20世紀初めには、相当数の日本人が労働者から身を起こして中小の事業を興し、米国社会に根を下ろすようになる。しかし、一方では、米国社会における排日の動きも厳しさを加え、やがて、1924年(大正13年)のいわゆる「排日」移民法によって、日本からの新規移民は事実上禁止となった。さらに、1930年代の大不況期に入ると、数多くの在米日本人が帰国の途につき、二世の間でも留学を名目に日本に航るものが増加した。多数の一世が帰国したことで、ユタ州の日系社会、とりわけ日本語新聞への依存度が高い一世層は、人口を減らし始めていた。日本語新聞の読者市場は、確実に縮小しつつあった。

こうした中で、13年にわたって『ユタ日報』と対抗していた『絡機時報』が、『ユタ日報』に買収される形で、1927年(昭和2年)10月11日号を最後に廃刊となった。『ユタ日報』は、『絡機時報』の営業権、設備、一部の従業員を引き継いで発行体制の強化を計ったのである。買収価格は、5,000ドルという「巨額」だったと伝えられるが、この買収劇が行われた頃、國子は結婚後初めての里帰りで日本に帰国していた。後に、國子は「一つだけかえすがえすも残念なことは、あたしの知らぬ間に主人がとんでもないことをしでかした・・・・あたしが日本に帰りさえしなければ、あんなことはさせなかったのに」と語っている(上坂・1985、59頁)。当時の発行部数ははっきりしていないが、合併によって、少なくとも一時的には、部数は一定の水準に支えられたはずである。しかし、1932年(昭和7年)に入ると、『ユタ日報』は発行頻度が減って週三回刊となる。ある程度信頼できる数字の残っているこの前後の数年間、発行部数は徐々に減少しつつあった。結局、合併という思い切った方策も、市場の縮小を克服することはできず、むしろ巨額の買収資金が徐々に経営を圧迫するという、皮肉な結果を生むことになったのである。

畔夫は、1939年(昭和14年)4月24日に急逝した。同日付の『ユタ日報』(6486号)の記事によれば、死因は急性肺炎で、風邪をこじらせてからわずか一日で落命している。この日の紙面には、当分の間、休刊する旨の社告も出された。さらに、5月5日付(6488号[6487号は欠号?])の紙面は、畔夫の葬儀が4月30日に塩湖仏教会で営まれ、500人以上が集まったと報じている。また、葬儀後、5月2日に自宅に戻った畔夫の遺灰の前で、『ユタ日報』の事業継続について関係者が懇談した席上、國子が「皆様が哀れと思召して御援助いただけるならば亡夫の遺志をついで新聞と死を共にする覚悟を持って居ります」と挨拶し、「涙の中に悲壮な覚悟」で『ユタ日報』の事業の継続を決意することになったことも伝えている。10日付(6489号)の紙面は、一面が「故社長略歴」と追悼句、追悼文で埋まったが、17日付(6490号)では、一面トップに「再刊に就いて」と社説があり、三面の雑報でユタ日報後援会の結成記事が載っているものの、概して落ち着いた形で通常の紙面構成がなされている。

当時、『ユタ日報』は「莫大な借財」を抱え、苦しい経営を強いられていた。「借財」の大半は、『絡機時報』買収の後、晩年の畔夫が金策に奔走し、結局は失敗に終わった油田開発事業への投機的投資に由来するものであったようだ。畔夫の死を契機に、このままでは『ユタ日報』が倒れるのではないかと心配した関係者たちは、債権者たちに様々な形で働きかけた。上坂(1985、71~73頁)は、フリーの記者だった西村閑太史(義雄)が白人出資者に掛け合って借金を帳消しにしたこと、國子が自分の和服をことごとく与えるなどして日本人出資者に詫びたこと、後援会のこと、少なからず集まったはずの香典がすべて社の運転資金となったこと、など当時の事情を伝え、「健全経営のミニ新聞として仕切り直すべく、人々の足並みは驚くほど揃った」と述べ、『ユタ日報』が「日本人社会の中でそれほど不可欠な存在になっていた」ことを指摘している。

こうして、國子の『ユタ日報』はスタートを切った。國子は、滞りがちな購読料金・広告料金を回収すべく集金旅行に奔走するなど、経営の立て直しに活躍する。当時、編集は主筆・足立光公らが、制作は光公の父・足立博愛らが支えており、後顧の憂いがなかったとはいえ、主婦の立場から一転して社主となった國子の奮闘ぶりには目を見張るものがある。しかし、新聞発行に縁の薄い生活から、事業に飛び込むことになったのは、國子ひとりではなかった。ハイスクールに在学していた長女・和子が印刷を手伝い始め、現場で技術を学ぶようになったのである。和子は、ユタ大学に進む頃には印刷を切盛りするようになり、後年は、印刷のみならず英文欄の編集、発送業務、経理など事務一切を引受け、國子とともに終刊まで『ユタ日報』を支えることになった。(ちなみに、次女・治子は長じて母校ユタ大学の教員となっている。)

さて、この年の9月1日からは、おおよそ週一回、『ユタ日報』に英文欄が登場した。それまで小説と英文四コマ漫画二本、そして広告で占められていた四面から、小説と漫画一本を二面に移し、二面の広告を減らすというやりくりをしたのである。広告は日本語のままだった。この英文欄を支えたスタッフは、マイク・マサオカ(正岡優[マサル、「勝」と記される場合もある])ら市民権をもつ若い日系人二世たちであり、その多くはユタ大学の学生であった。マサオカは、1915年(大正4年)にフレスノで生まれた二世で、1937年(昭和12年)にユタ大学を卒業後、1938年~1940年にはソルトレーク市の日系アメリカ市民連盟(JACL・Japanese-American Citizens' League)支部長を務めるなど、日系社会の若きリーダーであった。当時の彼は、『ユタ日報』に健筆をふるい、山中部最初の日系人公証人として活動し、生活のために保険の外交も営むという精力的な日々を送っていた。その後は、(全米の)JACLの本部がソルトレーク市に移った時期の前後には書記長を務め、さらに日系人志願兵の第一号となっている。

英文欄の設定によって、『ユタ日報』は二世を読者層に組み込めるようになった。しかし、邦字活字しか所有していなかった当時の『ユタ日報』にとって、外注によるコスト増が避けられない英文欄の制作は、大きな負担でもあった。このため、1940年(昭和15年)初めから翌1941年(昭和16年)9月まで、英文欄は休止され、四面には漫画二本と英文の広告が掲載されるようになった。しかし、二世からの英文欄復活の要請は強く、9月12日付(6816号)は、雑報として「本紙の英文欄復活」を伝えている。この記事は、「当時の英文欄記者正岡勝君」の復活運動によって、JACL会員から(年に)一律1ドルを集めるか、『ユタ日報』の年間購読料を1ドル値上げして7ドルとし、増収分で英文欄の経費を捻出することが検討されたが、結局は値上げに踏み切らざるを得ないこと、マサオカが「全米市民協会書記長に任命された」ため、後任に石尾直(スナオ)を置いて次週より英文欄を復活させると述べている。こうして、9月17日付(6818号)から英文欄が復活したが、今度は石尾が徴兵され、再度の中断の後、11月7日付(6840号)からはモーリー・ウシオ(牛尾マリエ)が担当者となり英文欄を支えることになった。この間、10月6日付(6826号)からは年間購読料の表示が7ドルとなったが、この購読料7ドルは、『ユタ日報』の終刊まで変わることがなかった。

英文欄は、編集者も、読者も、二世が中心であった。二世たちは合衆国市民であり、畔夫や國子ら一世とは、異なる考え方をもっていた。両者の食い違いは、日米開戦が近づくにつれて『ユタ日報』の紙面にもはっきりと反映された。同じ新聞でありながら、日本語の紙面と英文欄では、欧州戦線や中国戦線の報道などをはじめ、しばしば対照的な論調が見受けられるようになっていったのである。

畔夫の時代から國子の時代へ、『ユタ日報』は大きな転換を迎えた。しかし、本当の激変は、その先に待ちかまえていた。

その3>>

* 本稿は、「ユタ日報」復刻松本市民委員会,編『「ユタ日報」復刻版 第1巻』 (1994年),pp431~435.に出典されたもので、執筆者のウェブサイトにも掲載されています。

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概説『ユタ日報』-その歴史と意義- その1

北米における日系新聞は、1886年(明治19年)にサンフランシスコで刊行された『東雲雑誌』に遡る歴史があり、また、邦字紙ではないものまで含めれば、現在でも10紙ほどが発行されている(ハワイを加えるとさらに5紙ほど増える)。

こうした歴史的な広がりの中で、米国ユタ州ソルトレーク市で刊行されていた『ユタ日報』は、(1)戦前や戦時中も含め、近年に至るまで長期間にわたり発行が継続され、資料の散逸が防がれたこと、(2)元来はソルトレーク市などユタ州の地域紙であったものの、太平洋戦争の期間には、各地の収容所を含め全米の日系人社会に読者を持ち、実質的な「全国紙」であった時期があったこと、などから、北米日系新聞の研究上、重要な事例として注目されてきた。

このため、『ユタ日報』については、既に様々な文献の蓄積がある。『ユタ日報』が広く一般的に知られる契機となったのは、上坂冬子(1985)『おばあちゃんのユタ日報』であった。これは、当初『信濃毎日新聞』に連載された「信州女のユタ日報」を加筆・改題したもので、寺澤國子へのインタビューの成果を軸に、戦時中までの歴史と紙面内容に重点を置いて『ユタ日報』を紹介したものである。同書は後に文庫化されるなど、良質のルポルタージュとして広く影響力をもった。

学術的研究文献としては、1981年から日系新聞研究会を組織し、北米日系紙の研究に精力的に取り組んできた田村紀雄と、ソルトレーク市のブリガム・ヤング大学に留学し、1984年に『ユタ日報』などの研究で社会学の学位を得た東元春夫の業績が特に重要である。田村は、北米日系紙の総合的研究を展開しているが(田村・白水・1986、田村・1991、新保・田村・白水・1991)、『ユタ日報』についてもいち早く注目しており、『ユタ日報』に関する包括的な論文を東元と共著で発表(田村・東元・1984)したほか、戦時中の重要紙面を抜粋して復刻した『復刻「ユタ日報」(1940~1945)』(1992A)を編集し、巻末に詳しい解説(1992B)を綴っている。東元は、「移民新聞と同化」をテーマにした学位論文や、その後に実施した『ユタ日報』読者への調査の分析など、関連する論文を数篇発表している(東元・1987、1990、1992A、1992B)。

『ユタ日報』と松本市の関係については、松本市とソルトレーク市の姉妹都市交流に永く携わった本郷文夫による記録・資料集『松本市・ソルトレークシティ 姉妹提携35周年を迎えて-「ユタ日報」寺沢国子さんを偲んで』(1993)がある。その第6章には、『ユタ日報』関係資料が松本市へ寄贈された経緯がまとめられており、末期の『ユタ日報』を紹介する現地紙の記事なども収録されている。『ユタ日報』に関する記事・文献は、この他にもいくつかあるが、詳しくは「北米日系新聞関係日本語文献表」(山田・1994)を参照されたい。

本稿は、以上のような既存の業績と、『ユタ日報』の紙面にもとづいて、創刊前後から終刊まで、『ユタ日報』の歴史的展開を概説するものである。なお、本稿は、諸論稿の中でも、特に田村・東元(1984)と田村(1992B)に多くを依存しており、両文献については、特に必要な箇所を除いて、本文中でいちいち典拠として示すことを省略していることを、ご了解いただきたい。

創刊前後-『絡機時報』と『ユタ日報』

ソルトレーク市を州都とするユタ州には、1900年頃から日本人が本格的に流入し始めた。彼らは当初、鉄道や鉱山の労働に従事したが、徐々に農業や商業に転じる者が現れ出し、日本人コミュニティの骨格が形成されていった。当時の状況は、絡機時報社(1925)『山中部と日本人』によって伝えられている。「山中部」とは、ユタ州を中心にアイダホ、ワイオミングなど、ロッキー山脈中の地域の総称である。

この書物を出した絡機時報社は、ユタ州最初の日系新聞といってよい『絡機時報』(英語名・The Rocky Mountain Times)を発行していた。『山中部と日本人』によると、1907年(明治40年)に、オグデン(ソルトレーク市より60キロ程北方にある鉄道網の要衝で、日本人は「奥殿」と表記した)で桑港日米銀行オグデン支店長・飯田三郎が発行した謄写版の『絡機時報』をきっかけに、同年9月16日に飯田の実弟・飯田四郎が活版印刷で創刊した新聞が『絡機時報』であり、同紙はユタ州最初の日系新聞であった。創刊当時の『絡機時報』は、編集室をオグデン、発行所をソルトレーク市に置き、実際の印刷はロサンゼルスの羅府毎日新聞社という変則的な体制で、週一回刊行されていたが、翌1908八年(明治41年)3月には印刷機と活字を調達して自社印刷で週二回刊となった(在米日本人会・1940)。この『絡機時報』は、残念ながら謄写版、活版とも現物はいっさい残っていない。なお、飯田兄弟が長野県南安曇郡温村(現・三郷村)の出身であったことは、日系新聞関係者に長野県出身者が多いことの一例として注意しておきたい。

『ユタ日報』(英語名・The Utah Nippo)の創刊は1914年(大正3年)11月3日で、『絡機時報』より7年遅い。その後、13年にわたって両紙は競争関係を続けることになるが、元々『ユタ日報』は、キリスト教的な色彩をもっていた『絡機時報』に対抗するため、仏教会系の人脈によって創刊されたものであった。ソルトレーク市の日本人街の一角、テンプル街に社屋を置いた『ユタ日報』は、創刊号の「謹告」に名を連ねた、寺澤畔夫、菅回天、山崎東夢の同人3名と社員4名という体制でスタートした。同人3名のうち、実質的に主導権を握っていたのは寺澤であった。菅は創刊号に「発刊の辞」を綴るなど健筆をふるい、山崎はデンバー在住のまま共同経営に名を連ねたが、いずれも程なく社を去った。「日報」と名乗ってはいたが、創刊直後の11月は週一回程度、その後は週4回程度の刊行で、年内には27号までが発行された。ブランケット判より一回り大型の判型(610×445ミリメートル)、4頁建て、という形式は、終刊直前まで変わらなかった。

寺澤畔夫(うねお)は、『ユタ日報』の創刊後は、活字の都合から「畔夫」と名乗るようになったが、戸籍上の本名は「畊夫」である。彼は、1881年(明治14年)3月11日、長野県下伊那郡山吹村(現・高森町)に生まれた。父・興太郎は永く村長を務めるなど地域の有力者だったが、1903年(明治36年)に破産、長男だった畔夫は家産を整理した後、郷里を離れ、1905年(明治38年)に渡米するに至った。渡米後の彼は、ロサンゼルスやフレスノで働き、農業労働から身を起こして「人夫供給業」を始め、事業の道を歩んだ。1909年(明治42年)にソルトレーク市に移った当時の寺澤は、郊外で野菜農園を経営し(彼は「ユタ・セロリ」の開発者とされている)、「人夫供給業」を営む傍ら、サンフランシスコの邦字紙『新世界新聞』の通信員を務めていた。仕事柄、情報収集の重要性を理解し、労働者を集める手段として新聞広告を活用していた事業家・寺澤にとって、新聞に手を出すことは、いわば当然の成行きであった。

ちなみに、『ユタ日報』の創刊当時、ユタ州にはおよそ2,500名ほどの日本人がいたと推定されている。これに対して『ユタ日報』の部数は、創刊の翌年である1915年(大正4年)で837部という数字がある。『絡機時報』の部数は判然としないが、『ユタ日報』に拮抗するか、上回る部数があったものと思われる。小さなコミュニティの中で、キリスト教系と仏教系の二紙がしのぎを削っていたのである。

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* 本稿は、「ユタ日報」復刻松本市民委員会,編『「ユタ日報」復刻版 第1巻』 (1994年),pp431~435.に出典されたもので、執筆者のウェブサイトにも掲載されています。

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