Hideko Wada

出版社、コンテンツ制作会社勤務を経て、2004年にフリーランスに。著名人や起業家インタビューなど幅広く手がけるほか、ライフワークとして日本に住む外国人や、世界で活躍する日系人らの取材・執筆を手がけている。「日刊ベリタ」、多文化情報誌「イミグランツ」などでルポを執筆。

2010年7月 更新

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定住外国人支援策を検証する -教育の成果は長い目で見ることが大事- その2

>>その1

定住者としての外国人のために「日本語教育事業」を実施
リーダーとなる人材を養成

「日本語を覚えようとしない日系人は、すぐに母国に帰るべき」と、強い口調で語るのは、神奈川県鶴見市で日系人らの支援活動を行うNPO法人ABCジャパンの理事長、橋本秀吉さんだ。自身も日系ブラジル人3世で、今から20年前に日本文化に憧れて来日。当初は工場労働や新聞配達員などを掛け持ちしながら、苦労して日本語を習得していったという。

「私たち日系人は日本の製造業を支えてきた。使い捨ては許されないが、ブラジル人も日本社会に溶け込む努力すべき」と、同胞に向ける目もまた厳しい。

そんな橋本さんが、「日系人のリーダーとなる人材を育てたい」と、文化庁からの委託を受けて昨年6月から半年間実施したのが、「生活者としての外国人のための日本語教育事業」だ。

平成19年度から文化庁が実施しているこの事業は、日本語の理解が不十分な定住外国人に対して日本語教育を充実させることで、日本社会の一員として不自由のない生活が送れるよう支援しようというものだ。日系人らの失業問題が深刻化した平成21年度からは、「外国人支援策」の一環として対策が強化され、前年度より大幅に委託先を増やし、総額176,921千円の予算をかけて日本語教育の普及に努めている。

ABCジャパンでは、上級者のための「日本語指導者養成講座」と、初心者のための「日本語教室」の2クラスを開講。毎週土曜日の午前9時半から16時まで日系ブラジル人やペルー人ら約43人の受講生を対象に日本語の指導を行ってきた。

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日系社会の役に立ちたい

私は、昨年の8月から10月にかけて3回ほどABCジャパンを訪れ、受講生たちの様子を取材した。

ABCジャパンのわずか12畳ほどの狭い事務所を3つに区切り、レベル別の日本語授業が行われていた。ざっと見渡したところ、6対4の割合で女性が多め。年齢は10代から40代と幅広い。

上級者のための「日本語指導者養成講座」の受講生は、さすがにネイティブなみに流暢な日本語を話す方も多く、ほとんどの方が仕事を持ち、なかには解体業や電気事業を営む会社の社長も数人見受けられた。

一方で、初心者のための「日本語教室」の受講生は、日本語の聞き取り力はあるが、自分の思いをスムーズに伝えることは難しいというレベル。「日本で生まれ育った子どもと、日本語で会話できるようになりたい」との思いで学ぶママさん受講生もいた。

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なかでも印象的だったのが、上級者のための「日本語指導者養成講座」を受講していた日系ブラジル人3世のジェファーソン君(18歳)だ。

彼は、両親に連れられて3歳のときに来日。両親とはポルトガル語で話すが、小・中・高と公立学校に通っているため日本語はネイティブだ。「英語の教師になる」ことが目標で、そのため現在は、都内の大学を目指して受験勉強に励んでいる。そんな多忙ななかでも本講座を受講したわけを、彼は次のように語ってくれた。

「テレビや新聞のニュースからは、日系ブラジル人に関するネガティブな話題しか聞こえてこない。それがとっても残念なんです。だから僕も、何か日系社会の役に立てたらと思って受講しました」

また、初心者のための「日本語教室」を受講していた日系ブラジル人3世のコマツ・アメリコ・サトルさん(44歳)は、「講座に通い始めてから自信を持って日本語を話せるようになった」と顔をほころばせる。彼は来日13年目になるが、正しい日本語が話せず長年コンプレックスを感じていたという。現在は、ポルトガル語の文書をファイリングする仕事に従事しているが、「今後は日本語能力検定2級に合格して仕事の幅を広げたい」という。

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まずは一歩踏み出すことが大事

彼らに日本語を教える金子糸子先生は、「最初はうつむきかげんだった生徒が、回を重ねるごとに積極的になっていくんです」とうれしそうに話す。受講生たちの多くは、正式に日本語を習ったことはなく、職場で覚えた日本語をそのまま使用している。そのため、文法的な間違いはもちろん、敬語や尊敬語を使えない受講生も多い。工事現場や製造ラインで働く受講生たちのなかには、汚い言葉でののしる上司の日本語をそのまま真似て使っているケースもあり、自分の日本語に自信が持てず「知らず知らずのうちに日本人と話すことを避けていた」と言う受講生もいるのだという。

「受講生のなかには、仕事が忙しくて講座を休みがちになっている人もいます。しかし、何十ページもある教科書のすべては無理でも、その中のひとつでもふたつでも覚えてくれたらいいんです。ひとつマスターすれば、それが自信となって次のステップを踏み出せるはずだから」と金子先生は、まず一歩を踏み出すことの大切さを訴える。

たしかに、教育の結果が出るまでには長い年月がかかる。1990年に入国管理法を改正し、多くの日系人を招き入れたのは、他でもない日本政府だ。日本の将来のためにも、結果を急ぐのではなく、長い目で見守る必要があるだろう。日本における日系人の歴史は、ここから始まるといっても過言ではないのだから。(了)

*本稿は『多文化情報誌イミグランツ』 Vol 3より許可を持って転載しています。

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定住外国人支援策を検証する -教育の成果は長い目で見ることが大事- その1

日本政府による「定住外国人支援策」の一環として、日系人らに対する日本語教室や就労支援講座が各地で開催されている。果たしてこれらの取り組みは、日系人たちの雇用安定や地位向上に役立つのか。その取り組みの様子や、参加する日系人たちの心の変化を追った。

政府が重い腰を上げるまで

2008年9月に起きたリーマン・ショック以降、日本の製造業で働く派遣社員や期間労働者たちの多くが職を失った。なかでも深刻だったのが南米からの日系人労働者たちだ。長年、日本人とのコミュニケーションを必要としない工場労働に従事してきた彼らは、転職しようにも日本語すら十分に話せず、職務スキルもない。母国に帰国するにも費用がない、あるいは日本で生まれ育った子どもがいるため帰国できない、といった諸事情から、生活に困窮する日系人が続出したのだ。こうした深刻な事態を受け、これまで「見て見ぬふり」をしてきた日本政府がようやく重い腰を上げた。

2009年1月30日に「定住外国人支援策」を打ち出し、定住外国人のための日本語教育や就労準備研修などを実施すると発表したのだ。実はこの「定住外国人支援策」のなかには、本誌前号(『多文化情報誌イミグランツ』 第2号)で徹底検証を行った悪名高き「帰国支援金制度」も含まれているのだが、今回は評価すべき施策に焦点を絞ってレポートしていきたい。

失業した日系人5,000人を対象として「就労準備研修」を実施
380人の受講枠に750人の応募者が殺到

「最初はびっくりしました。日本に17~18年住んでいても、漢字はもちろん、ひらがなやカタカナの読み書きすらできない日系人が多かったですから」と話すのは、神奈川県内で「日系人就労準備研修」を企画・運営している(財)海外日系人協会の土方(ひじかた)陽美さんだ。

「工場労働に従事していた日系人たちは、ある程度の日常会話は理解できても、読み書きができない」と土方さんは指摘する。こうした状況が日系人の再就職を困難にさせていることから、政府の「定住外国人支援策」受けて厚生労働省が打ち出したのが、「日系人就労準備研修」だ。全国で失業中の日系人約5,000人を対象に、日本語はもちろん、履歴書の書き方や面接シミュレーション、日本の労働法令に関する知識などを習得してもらい、安定雇用に結びつけようというのがこの研修のねらいである。5,000人という対象数で十分なのかどうかは疑問だが、予算総額は約10.8億円と大規模である。

外国人集住都市を中心に昨年4月から順次開講されており、神奈川県に本部を置く海外日系人協会では、同研修の受託団体である日本国際協会(JICE)から神奈川県内の研修のみ再委託するかたちで実施している。当初は、年間19コース、合計380人を研修の対象としていたが、申し込み者が750人を超えたことから、急きょ年間30コース、合計600人にまで規模を拡大して対応しているという。1コースの定員は20人、開催期間は3ヶ月間にわたり、授業は月曜~金曜の午前9時半から16時40分までみっちりと行われる。求職中の日系人なら誰でも受講可能で、申し込みは神奈川県内のハローワークで受け付けている。

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自らの道を選択する第一歩として

私は、川崎市立労働会館で開催されていた「日系人就労準備研修」を、昨年の11月12日に取材した。この日は、午前中の日本語講座が終了後、午後からは社会保険労務士を講師に向かえ、“面接シミュレーション”が行われた。

研修生は、男性2人、女性6人の合計8人。1コースの定員が20人ということから考えると、ずいぶん少ない印象だ。研修生の出身国はさまざまで、ブラジルやペルーのほか、エクアドルから来日したという日系人もいた。

講師が面接時の注意点をレクチャーしたあと、ひとりひとり模擬面接が始まった。

「あなたは、どこの国から来ましたか?」
「日本にどれくらい住んでいますか?」
「どんな仕事がしたいですか?」

面接官に扮した講師からそんな質問が投げかけられると、研修生たちは緊張した面持ちで、自らの意思を確認するように答えていく。

日系2世の夫を持つペルー人の志喜屋マリサさん(43歳)は来日10年目。中学生の子ども二人と、1歳半になったばかりの乳飲み子を抱える3児の母だ。以前は写真の現像所でパート勤務をしていたが、出産を機に退社。産後まもなく就職活動を始めたが、「幼い子どもがいる」ということがネックとなり就職先が見つからないという。日本語の日常会話は問題ないが、読み書きは苦手。「この講座で漢字を勉強し、修了後はヘルパーの資格を取得したい」と意気込みを語る。

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また、日系ブラジル人3世のイハ・アグネス・ユミ・オバタさん(36歳)は来日18年目。日系ブラジル人の夫とふたり暮らしだ。各地の工場を転々としながら派遣やアルバイトで製造業に従事していたが、勤めていた工場が一昨年の冬に閉鎖となり、解雇。直後に体調を崩して半年間休養していたが、昨年の夏に就職活動を再開するにあたって、「今後は工場労働以外の仕事に就きたい」と、この研修に参加して日本語を学びなおすことにした。「私の日本語は、職場で自然と覚えたものだから文法的に正しくない。きれいな日本語を覚えて、パソコンを使うオフィスワークに就きたい」と、将来の希望を述べた。

研修生のなかには、「どんな仕事でもかまいません」と答える方もおり、その度に講師が「これからは必要なスキルを身につけて、自らの道を選択できるようにならなければなりません。もう一度、どんな仕事がしたいのか考えて」と、これまで工場労働ばかりに従事してきた研修生に対して、キャリアプランの見直しを求める場面も見受けられた。

勉強に専念できる環境づくりが課題

在留年数にかかわらず、受講生の日本語能力には大きな開きがあり、すらすらと答えられる方もいれば質問の意味さえ分からない方もいる。底の見えない現在の経済情勢から考えると、就労研修で学んだからといって、彼らがすぐに安定した雇用を得られるようになるとは考えにくい状況だ。

「最近では、職探しに追われて研修に参加できなくなる研修生が増えている」と前出の土方さんはいう。研修開始直後の昨年5月ごろは、就職や帰国による辞退者をのぞけば、ほぼ100%の研修生が最後まで履修していた。しかし、失業保険の受給が切れ始めた夏以降からは修了率が低下し始め、最近では50%に満たないこともあるという。この日の出席者が、定員20人に対してわずか8人だったのも、そんな理由があったからかもしれない。

とはいえ、途中で勉強を断念せざるえない状況では、いつまでたっても日本社会における日系人の地位は向上せず、自らの手で人生を選択することもできない。「今後は、給付金を活用するなどして、彼らが継続的に勉強できる体制が整えたい」と土方さんはいう。せっかく勉強の場を与えられても、継続できなければ意味がない。失業中の研修生が勉強に専念できる環境を整えることが、今後の課題といえそうだ。

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*本稿は『多文化情報誌イミグランツ』 Vol 3より許可を持って転載しています。

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日本と母国の“架け橋”として、大きく羽ばたく日系ラティーナたち

90年代前半、“デカセギ”のため来日した日系南米人の子どもたちが、いま時を経て成長し、日本と母国を結ぶ“かけはし”として、活躍の幅を広げようとしている。

幼いころに来日し、戸惑いながらも自らの道を切り開いてきた高良カレンさんと柳瀬フラヴィア智恵美さん。頑張り屋の2人だが、彼女たちを励ましサポートしてくれた先生らに感謝の言葉を忘れない。彼女たちにこれまでの道のりと、今後の夢を聞いた。

――来日したのは何歳ですか?

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カレンさん:  ひと足先に、日本にデカセギに来ていた父母と姉を追って、10歳で来日しました。私の父母は、ペルーでレストランを経営していたのですが、政情不安のために経営が厳しくなり、それで仕方なく日本へデカセギに行くことにしたようです。

当時、姉は義務教育を終了していたのですが、私はまだ小学生だったので、「ペルーに残って勉強を続けたほうがいいだろう」という両親の判断で、祖母の元にひとりで預けられました。だから、毎日とっても淋しかった。それでどうしようもなくなって、父母に頼み込んで、一年後に呼び寄せてもらったんです。

フラヴィアさん:  うちは、私が3歳のときに父が単身で日本へデカセギに行きました。なぜ日本行きを決めたのか、その理由を父母に尋ねたことはありませんが、やはり経済的な理由だったと思います。母と私が来日したのは、父が日本へ渡ってから6年後のこと。やっと家族3人で暮らせるようになったのは嬉しかったけど、父親がいない生活に慣れていた私は、“父”という存在に慣れるまで少し時間がかかりましたね。

――日本の生活や日本語に慣れるまでは、大変だったのではないですか?

カレンさん:  来日当初、私は佐賀県の公立小学校に通っていたんです。田舎町だったせいか、学校には私ひとりしか外国人がいなかった。だから、先生もクラスメイトも珍しがって、すごく大切にしてくれました。(笑)先生は、国語や社会科の時間に日本語を教えてくれましたし、クラスメイトもいろいろ面倒を見てくれました。

ですから、いじめられたり、嫌な思いをしたりしたことは一度もなかったですね。本当に、周りの人に恵まれていたと思います。

フラヴィアさん:  私は9歳で来日してから、すぐに地域の日本語教室に通いました。そこには、たくさんの日系ブラジル人がいましたから、“リトル・ブラジル”みたいな雰囲気があって、楽しかったですね。父も母もほとんど日本語ができなかったので、私が早く日本語を覚えて、役所の手続きや病院を受診するときに、通訳をしなくてはならなかったんです。だから、必要に迫られて必死に日本語を覚えました。おかげで高校一年のときには、日本語能力検定1級を取得することができました。

カレンさん:  うちもそうです。学校から配布されるプリントを母に渡しても分かりませんから、私が訳して説明していました。自分の面倒は自分で見る、って感じでしたね。

フラヴィアさん:  やはり言葉のハンデは大きいですからね。高校生になるまでは、いくらがんばっても日本人のクラスメイトにはテストの点数で勝てなかった。だからずっと、「自分はダメなんだ」って、コンプレックスを抱いていました。でも唯一、英語の成績だけは人より良かったんです。すると担任の先生が、「フラヴィアさん、英語のスピーチコンテストに出てみない?」と勧めてくれて。思い切ってチャレンジしたら、県大会で優勝しちゃいました。それからは、周囲の反応が180度変わりました。今までは誰からも期待されていなかったのに、みんなが「フラヴィアすごいね!」って、声をかけてくれるようになったんです。自分を認めてもらえたことが嬉しくて、とても大きな自信になりました。

カレンさん:  私もフラヴィアさんと同じで、ずっとコンプレックスがありました。「外国人だから分からないんだ」って言われることが、とても嫌だったんです。だから、日本語は必死で学んでいましたが、やはり漢字をきちんと書けるようになるまでには時間がかかりました。そんなとき、親身になって教えてくれたのが、地域にある日本語教室の先生たちでした。当時17歳だった私は、大学の進学費用を稼ぐために工場のラインで働いていました。仕事が忙しくて日本語教室を休みがちになったとき、先生がわざわざ家まで訪ねてきてくれて、「あなたは日本とペルーの架け橋になる存在だから、勉強がんばって!」と、どんな状況でも勉強を続けるよう、励ましてくれたんです。そのおかげで、私も日本語能力検定1級を取得することができました。最後までサポートしてくれた先生たちには、いくら感謝してもしたりないくらいです。その恩返しとして、いまでは私もボランティアスタッフとして日本語を教えています。

――お父さんやお母さんが日本にデカセギに来たことについて、どう感じていましたか?

フラヴィアさん:  来日したときは9歳だったので、正直よく分かりませんでした。でも、ほとんど休みもとらず、朝から晩まで工場で働いている父母の姿を見ているのは、辛かったですね。とくに父は、仕事で大けがを負ったこともありますし、いつもストレスを溜めているように見えましたから……。ですから高校生になったとき、「私も工場で働かせて!」と、両親に頼んだんです。私が働けば、少しは家計が楽になるんじゃないか、と思ったんです。母は、「私たちのようになりたいの?!」と言って反対しましたが、しつこく頼み込んで、学校の合間をぬって働きました。でも、実際に仕事をしてみると、想像していた以上に辛かった。父母は、こんな仕事をずっと続けているのか、と思うと、なんとも言えない気持ちになりました。「もし、私が工場で働き続けることになったら、きっと父母は悲しむだろう」と、仕事をしながら思いました。ブラジルに住んでいる親戚たちは、みんな弁護士や会計士として活躍しているのに、「フラヴィアは日本に行ったせいでダメになった」と言われたくなかった。そのためには、私がしっかり勉強して、父母を安心させられる仕事に就かなくちゃ、と。大学進学を真剣に考え始めたのも、この出来事がキッカケのひとつだったと思います。

カレンさん:  フラヴィアさんの気持ちはよく分かります。私も17歳のころ、大学の学費を貯めるために工場のラインで働いていました。オーディオセットの組み立てをしていたのですが、朝8時から夜10時まで、ずっと立ちっぱなしで同じ作業の繰り返し。もう足はパンパンにむくんで、思考は停止してしまいました。来る日も来る日もそんな仕事を続けているうちに、体よりも心が先に折れてしまったんですね。「私はロボットじゃない!」という思いとともに涙があふれ出し、作業が続けられなくなったこともありました。でも考えてみれば、父母は来日してからずっと、もっと過酷な仕事を続けていたんですよね。そんなことを思うと、いまでもつい涙ぐんでしまいます……。すでに私の父母は60歳を過ぎているので、これらは楽をさせてあげたい。そのためには、姉と力を合わせて、今度は私たちががんばらなくっちゃ、と思っています。

――これからも、ずっと日本に住み続けようと思いますか?

フラヴィアさん:  いまのところは、まだ分かりません。ブラジルに戻るという可能性が完全になくなったわけではありませんが、母国を離れて何年も経っているので、実際にむこうで生活するとなると大変でしょうね。でも私のなかには、日本とブラジルだけじゃなく、その他の国に生活拠点を置くという選択肢もあります。たとえば、今年留学する予定のカナダは、2年間住むと永住権を取得できるんです。だから、そういう可能性もなくはないかな…と。

カレンさん:  私も決めているわけではありません。母や姉は、「いつかペルーに帰らなきゃ」と、よく話をしていますが、私は10歳から日本に住んでいるので、母や姉ほど「帰らなきゃ」という気持ちはないんです。でも、ペルーが母国であることに変わりはないので、“ペルー生まれの日本育ち”として、両国を行き来しながら生活できれば、と思いますね。

――将来の目標を教えてください。

フラヴィアさん:  私は、“日系ブラジル人”として日本で暮らしていますが、いつもピンチのときには、誰かが手を差し伸べてくれます。高校の先生や友人、そして奨学金を工面してくれたNPO団体の方々など、いろんな人たちに助けられてここまできました。ですから私も、将来は国際機関などに勤めて、移民やマイノリティでも住みやすい多様な社会をつくっていきたいですね。

カレンさん:  現在私は、静岡県内のハローワークで通訳をしています。こうした仕事をすることで、「架け橋になって」と応援してくれた先生たちの思いに、少しは報いることができたのかな、と嬉しく思っています。今後は、母国ペルーと日本を結んで、事業を起こすつもりです。ペルーには、貧困のために学校に通えない子どもたちが、まだまだたくさんいますから、雇用を生みだすことで、少しでも子どもたちの未来に灯りをともしてあげたいですね。

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≪プロフィール≫
高良カレンさん
日系ペルー人3世/27歳/リマ出身/ハローワーク勤務
1995年に10歳で来日。日本の公立学校に通いながら、日本語や一般教養を身につける。17歳でペルーに戻って大学進学。その後再び来日し、現在は静岡県内のハローワークで通訳を務めながら、日本とペルーを結ぶ起業の準備を始めている。

柳瀬フラヴィア智恵美さん
日系ブラジル3世/22歳/リオ・デ・ジャネイロ出身/国際基督教大学4年生
1997年に9歳で来日。公立学校に通いながら、日本語や一般教養を身につける。
現在は、国際基督教大学にて移民問題を研究しながら、カナダへの留学に向けて準備を進めている。

*本稿は『多文化情報誌イミグランツ』 Vol 3より許可を持って転載しています。

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