Mariko Takagi-Kitayama

愛知学院大学文学部教授。専門はアメリカ研究、特にアジア系アメリカ人の歴史と社会。早稲田大学第一文学部西洋史専攻卒業。東京外国語大学大学院にて国際学修士取得。ハワイ大学大学院にてM.A. in sociology とPh.D. in sociologyを取得。主要論文「俳句・短歌から見る日系移民の姿(1930年〜1960年)——ハワイ島を中心に」(2007)、「俳句・短歌・川柳を通して見る一世女性の心情——ハワイ社会史の一ページとして」(2008)、「芙蓉会——ワシントン大学における日系女子学生会と日米戦争」(2013)など。

(2013年 9月更新) 

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働いて、働いて、働いて、そして立ち上がったハワイの人びと: 歌句に詠まれた日系一世の声 - その2/2

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4.第二次大戦後 反共の中、労働者の平等をめざして

組合の組織化や労働争議も、アメリカが世界大戦に参戦するにいたって、一旦足踏み状態になる。だが、終戦後間もなく、ハワイの労働者は、正当な権利を手に入れるべく立ち上がるのである。労働者の組織化をすすめた港湾労働者の組合ILWU(International Longshoremen’s and Warehousemen’s Union)のトップにはアメリカ本土からの白人アメリカ人、そしてそのもとに、ハワイ生まれのアジア系やハワイ系の比較的若い労働者が集まった。特に砂糖プランテーション労働者が、このILWUのもとに組織化されたのは画期的であり、その組織化に尽力したのは、若い日系二世であった。

1946年、戦前ハワイの最大の産業であった砂糖産業の中心であるプランテーションで、民族や文化背景の違いを越えた労働者によるストライキがついに成功を収めた。そしてその3年後1949年、今度は波止場や倉庫の労働者がILWUのもと団結してストを決行し、6ヶ月間と長引いたものの、結果的に成功を収めた。これは、ハワイの民衆の歴史という視点からは画期的なできごとであるが、この出来事を、一世の歌詠みたちはどのように表したのであろうか。

ILWUが46年にプランテーションでのストを成功させると、その後、ハワイでは、労働組合員を中心とした人びとは、実は共産化しているのではないかという疑いをかけられた。一世は、日系が共産の疑いをかけられていることに衝撃を受けた。

日の恩か 赤化か オヘア 熟れそめぬ

(横山松青1947年作品『アイカネ』所収)

赤化恐れつ 怒れる草木 紅葉しぬ

(横山松青1947年作品『アイカネ』所収)

上の句に表れているのは、ハワイの同胞が共産主義になってしまうことへの恐れではないか。米ソ対立の中で、反共ヒステリーが高揚していたため、1947年に発表されたハワイ社会に共産主義者が存在するのではないかという報道は、ハワイ中を震撼させた。そして何よりも日系コミュニティにとってショックだったのは、自ら「元共産党員」として、47人の共産主義者のリストを世に出したのが、日系二世の男(Ichiro Izuka)だったことだった。そして、そのリストの中に、日系の名前がいくつも含まれていたのは、一世にとってはさらにショックだった。

第二次世界大戦でアメリカ兵として大いなる働きを遂げながら、戦死した多くの二世のことを考えると、日系一世は、同じ二世が共産化の疑いをかけられたことに対して、複雑な思いであった。戦場で勇敢に闘った二世を誇りに思い、二世の流した血のおかげで日系は平等な立場に近づいていると思っていた。そこで、アメリカ社会に眉をひそめられるような共産化した二世の登場は、受け入れがたかったのであろう。

その後1950年代にかけて、ハワイは「赤の恐怖(Red Scare)」の時代となり、共産嫌疑者の査問裁判が行われた。港湾労働組合のILWUの中心人物ブリッジスの名前さえ、俳句に詠われた。

ハレー・ブリッジスは汝の仲間 巣なし蜘蛛

(横山松青 『アイカネ』所収)

また、共産嫌疑者が当局に召喚され査問されたいわゆる「赤の査問」について触れた句もある。査問が不当として、労働組合がストを起こしていたことがわかる。

赤の査問に挑む罷業や 村時雨

(横山松青 『アイカネ』所収)

また、実際に自分たちの生活に大いに影響を及ぼした1949年の港湾労働者のストライキについては、一世によるいくつもの歌、句がある。ストライカーたちに同情的というよりは、ストのせいで生活必需品が品薄になったり、バスのストでは、移動手段がなくなったり、ということで、どうしても、不自由な生活についての歌句、さらにストに批判的な歌句が見受けられる。

<船舶スト>

米足らぬ時に逢へれば白玉の 炊きたて飯(いひ)は勿体なく食すも

(中林無有 『心影集』1964年出版 所収)

<島民を餓死せしめんとす桟橋ストに題す>

餓死か赤化か炎天に振るストのメス

(横山松青 『アイカネ』所収)

<罷業に題す>

朝顔 雨にくづれ島民 ストに痩す

(横山松青 『アイカネ』所収)

<バス罷業に題す>

バス消えし 町の蟻ども 踏んでゆく

(横山松青 『アイカネ』所収)

バス罷業 桟橋罷業 何罷業 命罷業もやがて来らむ

(中林無有 『心影集』1964年出版 所収)

最後の短歌はシニカルに、自分の命まで罷業するときがくる、と述べる。

この1949年のストが、ハワイの住民の生活に大いなる影響を与えながらも、1946年の砂糖プランテーションのストと同様、労働組合側の勝利となったことは画期的であった。これまで辣腕を振るってきた砂糖産業の5大企業Big Fiveも労働者の権利を認めたのである。戦前の一世労働者ができなかったエスニックを越えた労働者の連帯の勝利であった。それは、ハワイの土地で生まれ育った二世世代になって実現したわけである。

こうして、ハワイの日系、特に一世にとって戦前からの望みのひとつ、労働者として公正な賃金と待遇を受けることは、戦後すぐの労働運動とストの成功によって実現した。そして一世が法的に平等な扱いを受けることという日系コミュニティのもう1つの望みは、1952年のマッカラン・ウォルター帰化移民法によって実現された。一世に帰化の道が開かれ、日本からの移民にも割当が与えられた。さらに、ハワイに住む日系一世にとって、もうひとつの「平等」とは、ハワイ準州がアメリカを形成する他の州と同等の地位、つまり州になることでもあった。戦前からハワイの州昇格は、日系の日本語では「立州」と呼ばれ、悲願であった。それは1959年に実現した。このように、ハワイの日系コミュニティは、アメリカ本土の日系とは異なる点で感じてきた「不平等」を克服して行ったのである。

ハワイの一般の日系人は、アメリカ本土の日系のような大挙しての強制収容をされなかったため、アメリカ本土の日系ほどの差別を受けなかったように誤解されやすい。しかし、ハワイだからこその不平等な扱いを長い間受けてきて、それがついに平等に近づいて行ったのが、日系を始めとするハワイのマイノリティ集団の戦後の歩みであったといえるだろう。そのきっかけのひとつは、やはりここでとりあげた「労働の現場」での権利のための闘いだった。それを見つめてきた一世の声は、彼らの作った和歌の中に表れているのである。

 

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*2013年7月4日から7日にかけて行われた全米日系人博物館による全米カンフェレンス『Speaking Up! Democracy, Justice, Dignity』での日本語セッション「一世の詩、一世の声 (Issei Poetry, Issei Voices)」のセッションでの発表原稿です。

このセッションの発表を聞く(音声のみ)>>

 

 

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働いて、働いて、働いて、そして立ち上がったハワイの人びと: 歌句に詠まれた日系一世の声 - その1/2

1.はじめに

19世紀末から20世紀始めにかけて、アメリカ西海岸と同様、ハワイにも多くの日本人移民が渡った。そして1900年にはすでにハワイ全人口の40パーセント近くを日系が占めるまでになっていた。

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1910年代までは、砂糖プランテーションの労働者の多くが日本人移民であった。19世紀末から20世紀初頭は労働条件が特に悪く、砂糖プランテーションでは、日本人移民が中心となった特に大規模なストが1909年と1920年の2回にわたって行なわれた上、他のエスニック・グループのストも行なわれた。しかし、砂糖産業を握る5大企業Big Fiveの力は大きく、労働者側の勝利になることはほぼなかった。労働争議を起こすことは、労働者にとってはかなりのダメージになったのである。1920年のスト以降、オアフ島ではストに参加した日本人労働者が元のプランテーションに戻らず、ホノルルの街に出て仕事を始めたり、借地をしてキビ作りをしたり、別の仕事につくものもいた。

この報告では、1930年代の短歌、俳句、川柳の中から、まずサトウキビ畑の労働の様子や情景を詠ったものをざっと見る。次に、当時の世相や労働状況を一世の歌人がどう見ていたのか、それがわかる歌を紹介する。

そして、1930年代から40年代にかけて、ハワイの労働状況はどうだったのか、その概略を述べ、第二次世界大戦後、平等をめざして立ち上がった労働運動家やその中での二世の活躍を一世がどう見ていたのかが窺われる歌や句を紹介したい。二世の行動に対する一世の晴れやかな気持ち、誇り、さらに複雑な心情に思いをはせてみたい。

2.サトウキビ・プランテーションでの労働

蔗伸びて 町遂に見えず なりにけり

(横山松青1939年作品『アイカネ』所収)

人語らず カチケンの音 聞こえけり

(横山松青1930年作品『アイカネ』所収)

黍畑の様々な労働を詠った歌句はたくさんある。サトウキビは育つととても背が高くなる。黍に穂がでてくると、サトウキビは甘さをましていく。穂蔗も季節をあらわしていた。そしてそれを刈り入れる。カチケンとはcut caneのことである。

蔗(きび)流す 高樋視張る 日永かな

(玉兎  ヒロ蕉雨会 互選句 1935年3月)

蔗切って 長蛇の樋や五月晴れ

(横山松青1930年作品『アイカネ』所収)

春立つや 樋を流るる 蔗の音

(紫洞 ヒロ蕉雨会 互選句 1933年1月)

黍切りし山畑にゆるうフルームのうねりがみえて夏の朝ばれ

(増田玉穂 『銀雨』1925年出版に所収)

刈り取られたサトウキビは黍畑に張り巡らされた樋(これを「とい」とか「かけひ」と呼んだが、英語のflumeを使ってフルムやフルームといったこともあった)にサトウキビを流して、砂糖工場へ運ぶための集積所に集めたという。「長蛇の樋」と詠われているように、長い蛇のように、黍畑を樋がくねくねと曲がって通っていた。樋には、非常に高いところを通っているものもあった。

また黍を運び積み上げる仕事はハパイコーと呼ばれ、大変力のいる仕事であった。そうした姿も歌に詠まれている。

蔗積みや 声頑丈に 陽は強く

(紅流 ヒロ蕉雨会 互選句 1933年5月)

砂糖を積んで本土へ船出した砂糖船を詠った歌も多い。

砂糖船 島の夜を出る汽笛かな

(横山松青  『アイカネ』所収)

砂糖船は、『布哇歳時記』によると春の季語となっている。カチケンが終わり、ハワイの製糖工場へ運び込まれたサトウキビは、煮詰められ糖分が抽出されて粗糖ができる。それが砂糖船に積まれて、アメリカ本土の砂糖精製工場へと送られて行った。この句は、砂糖船が何隻も本土に向かって行く収穫の季節を詠っている。一方刈り取られた畑は焼き畑にされた。

蔗焼(きびやき)や 夜目(よるめ)にはラバの 流れとも

(夕鳥  ヒロ蕉雨会 1934年2月例会句集)

甘蔗を這ふ  野火(のび)の煙や 春暑し

(静雅  ヒロ蕉雨会 1934年3月例会句集)

これらの句は、焼き畑の様子をうたっている。枯れた黍畑に火を放ち、焼く風景は、やはり俳句のよき題材だった。ラバとは、火山の溶岩のことである。この句はハワイ島の黍焼きの様子をうたっており、黍焼きの火が、夜になると、火口から熱いラバが流れている様子にも見えるということである。

秋、製糖場の煙突から立ち上る甘い香り。これも歌詠みの心をくすぐっている。

製糖場(せいとうば)の甘きほめきや 秋暑し

(豊村 ヒロ蕉雨会 互選句 1933年11月)


3. 1930年代の日系コミュニティと30年代の労働争議

こうした歌を見ると、ハワイの砂糖プランテーションでの労働はのどかで豊かなイメージを持たれるかもしれない。もちろん、家族や写真花嫁の呼び寄せによって、移民一世の生活も潤いのあるものになっていったことは事実である。1930年代のハワイ日系コミュニティは、実は「ハワイ日系文化」を謳歌した時代でもあったのだ。だが実は仕事は厳しく、砂糖プランテーションキャンプでの生活は楽なものではなかった。もちろん、ハワイでも1930年代になると、世界恐慌の影響を受けた。そしてこの時代、労働者は待遇を改善するためにともに立ち上がらんとした者たちもいた。だが、1930年代に、他のエスニック背景を持つ労働者たちとコミュニケーションの壁なく、一緒に活動できた日系といえば、二世世代になるのだが、この時期成年に達していた二世の数はまだまだ少なかった。

また、俳句、短歌を楽しむ日系は、日本語話者である一世であったため、自ら労働者として立ち上がらんとする声を表す歌や句は、まだあまり見つけられていない。しかし、スト(罷業)を客観的に見たり、罷業の影響を受けて読まれた句や歌は見受けられる。

ハワイの砂糖産業は、プランテーションを持つ大会社が、砂糖生産、つまり土地を耕して甘蔗を植え付け、世話をし、収穫し、アメリカ本土の製糖会社へ積み出すところまでの、その生産行程全てを取り仕切っていた。運搬手段となる砂糖列車や先ほどの樋の設置と見張り、灌漑、砂糖船の整備から操縦、労働者の食料調達、住居の整備と、何から何までである。

ハワイでは主に5つの企業がこの産業を支配していたことから、Big Fiveと呼ばれていた。これまで見てきた歌や句は、サトウキビを育てるプランテーションを見ての句であったが、実は日系が従事した砂糖の仕事は、多様であり、どれもがBig Fiveの傘下にあったといっても過言ではない。農場労働者だけでなく、波止場の労働者もまた、多くのエスニック背景を持つ移民一世、二世であり、その労働条件は厳しいものだった。

また、ハワイの商品作物は砂糖とパイナップル、コーヒーが中心で、一般的な食料(野菜、果物)、生活必需品はアメリカ本土から船で取り寄せていた。そこで、もし、港湾労働者がストにはいるとハワイの日常生活はダメージを受けることになった。

実は、1930年代、ハワイ社会は変化の中にあった。本土西海岸で盛んになってきた労働運動の洗礼を受けた白人の労働運動家が次々にハワイをおとずれ、ハワイの労働者の状況をつぶさに見て、エスニックを越えた労働者の組織化に着手したからである。そして不況の中の1930年代、実はハワイのあちこちで小規模なストがおこっていた。1936年には、港湾ストも行なわれた。それまではストが行なわれても単一のエスニック背景をもつ労働者のスト(つまり日系だけとかフィリピン系だけというスト)であったし、地域的にも限定された上、5大企業Big Fiveの力が官憲側に及んでいたこともあって、なかなか成功しなかった。それが少しずつ変化を見せ始めたのが1930年代だったのである。

ハワイ島に住む一世歌人らが詠んだストの様子をあらわす歌や句を紹介しよう。

<罷業断行>

ただならぬ海の匂ひや 秋曇り

(夕鳥 ヒロ蕉雨会 互選句 1936年11月)

秋霖に 警吏護衛の 荷揚(にあげ)かな

(芙蓉 ヒロ蕉雨会 互選句 1936年11月)

罷業船の …

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