Seiji Kawasaki

1965年愛媛県松山市生まれ。筑波大学第一学群社会学類法学主専攻卒業。筑波大学大学院修士課程教育研究科修了。筑波大学大学院博士課程教育学研究科単位取得退学。東京学芸大学教育学部専任講師、助教授、准教授、ハワイ大学教育学部客員研究員(2001-2002年、2008年)などを経て、現在、東京学芸大学教育学部教授、博士(教育学・筑波大学)。専門分野は社会科教育・多文化教育,ハワイ研究,授業研究方法論。著作は『多文化教育とハワイの異文化理解学習―「公正さ」はどう認識されるか(単著、ナカニシヤ出版、2011年)ほか。

(2014年7月 更新) 

education ja

ホノルルの向こう側 ~ハワイの日系社会に迎えられて~

第8回(前編) 日系人に教わった、学校で教わらなかった基礎英語

第2回の「オシャレをしてもお洒落ではない?」で言葉の変化について触れた。継承されている日本語が本来の意味を失って変化していることを取り上げて、一世の生活を想像しながら考えた。海を渡ってきた彼らが日々懸命に働き、祖国に送金した残りの中から少しでも蓄えに回していたであろうことを。そこに「オシャレ」の意味の変容の理由がある、という仮説を立ててみた。

そうした気づきは、今のハワイの日系社会で日系人の友人たちに親しく付き合ってもらう中で得られたものである。家族同様のMさんとLさん夫妻、とくに奥さんのLさんは小学校の教師だった経験もあり、私が英語の表現に強く興味を持っていることをすぐに見抜いていたのだった。

今回はフィールドワーカーとしての自己開示も兼ねて、私自身の経験を紹介してみようと思う。

1996年に職を得て、私はハワイの小学校に毎年通うようになった。アメリカ本土で仕事があれば、どんなに短期間でも帰りにハワイに寄るようにしていた。そうすることを5年ほど繰り返し、2001年には1年近く住み込んで、Mさんの小学校を集中的に観察することになる。

今と較べるとその頃の英会話力は惨憺たるもので、よくあれほどたくさんの観察記録を残すことができたと不思議に思うほどである。中学校時代から英語は一番の得意教科で、英語にまつわるあらゆることを身につけていくのが楽しくて仕方なかった。「暗唱文」と呼ばれるモデル・センテンスを500だったか700だったか暗記させられて、日英・英日両方の翻訳が自由自在になるよう鍛え上げられた。大学院に進学してからは、英語は勉強と仕事の道具になり、アカデミックな読み書き会話はそこそこできているつもりでいた。

だが長く住んでみると、日常生活のカジュアルなトークがからっきしダメだったのである。発言する人たちの顔を追って、いつもキョロキョロしてしまうことになった。「日常会話程度はできますけど・・・」と言う人がいるが、仕事の英語よりも日常会話のほうがよほど難しい。

2001年にMさんLさん夫妻に出会って、ほどなくLさんは丁寧に私の英語表現を直してくれるようになった。Lさんは8年生まで日本語学校に通っており、わりと頻繁に来日していることもあって、かなり日本語を理解し日本文化にも精通している。そのため何をどう間違えているのか、わかった上で直してくれるので大変納得しやすい。私とLさんとの会話は99%英語だが、単語がどうしても出てこない時には日本語を口に出してみる。たとえば「伝書鳩」と言いたいのに “carrier pigeon” ではなく “dove” しか思い浮かばない時に、「ハト」で通じることなどはありがたい。

その頃よく指摘されたのは私の早口である。私は日本語と同じスピードで話そうとしていた。そしてよく吃っていた。いわゆる「ボトルネック」(言いたいことに見合う英文がすぐに出てこないこと)になっているので、それを直せば良くなると言われたのである。

でも現地人との会話に混ざろうとすると乗り遅れ、乗れたと思っても私が口を開くと全体のスピードが落ちる。そうしたことが繰り返された。そして自己嫌悪に陥ることもよくあった。

そんな時、いつも不思議にタイミングよくMさんLさんの自宅でのガレージパーティが開かれた。車が2台並んで入るだけの小さな可愛いガレージで開かれるこのパーティは、少ないときで親戚ふた家族が集まって10名前後、MさんとLさんの誕生会や感謝祭などだと50名くらいになる。

親戚の集まる小さなパーティに呼んでもらって話の輪に加わった時のことである。全員が日系人で三世と四世だった。いつものようにMさんの料理に舌鼓を打ち、夕方の涼風を感じながらフルーツやデザートでお茶を飲みながら楽しい会話が続く。日本のこともたくさん話題に上る。頑張って話に加わりながらも、丁寧に彼らの会話を聴いてみた。すると新鮮な気づきがあったのである。現地人の会話のテンポは早くても、話すスピードはそうでもないのである。日本語が頭に浮かぶスピードと同じ速度で話す必要はないのだ。英語はむしろゆっくり喋るのがいい。これに気づいてからは、私は吃ることが少なくなり、少しだけ冷静に会話に臨めるようになった。私が口を挟んでも、全体のスピードは落ちなくなった。

後編 >>

 

Read more

community ja

ホノルルの向こう側 ~ハワイの日系社会に迎えられて~

第7回(後編) ハワイの日系人は個人主義的か

第7回(前編)を読む >>

日系人のメンタリティ

ハワイに通い始めて20年が過ぎ、その間何度か住んでみたりしていると、計らずも現地社会の儀式に参加することにもなる。英語での日常会話能力が十分でなかったころ(日常会話のほうが自分の専門分野の議論よりもずっと難しいと思う)は、それが億劫で仕方なかった。だが、自分の研究フィールドのより深い理解のためと考え、誘われれば断らずに出かけることにしていた。

儀式にもいろいろあるが、ここで取り上げるのは「ハレ」の儀式ではなく「ケ」のほうである。

Mさんはワイキキの有名ホテルの総料理長を経て小学校のカフェテリアのマネージャーを務めた人である。頻繁に食事のケータリングの依頼があり、実費だけで快くそれを引き受けていた。ハワイ州知事からも依頼があるほどで、その時手伝ったのが私のケータリングの最初の経験である。

ある時、Mさんはハワイ系の友人から、身内の葬儀の際のケータリングの依頼を受けた。私はハワイに長期滞在していたので、MさんLさんの手伝いとして早朝から加わることになった。10時頃にホノルルのヌウアヌ通りにある葬儀場の廊下に料理を搬入して準備を整え、私は式の様子を外から見ていた。次から次へと車が到着して、大柄なハワイ系の人たちが続々と式場に入ってくる。亡くなったのはごく普通のお婆さんである。身内だけでなく縁のある人たちが大勢やってきて、それは賑やかな葬儀になった。

葬儀がつつがなく終了するとランチタイムである。もちろん我々のサービスする料理には長蛇の列ができ、Mさんのビーフシチューに二度三度お代わりに並び直す人もいて、「店のメニューは持ってきてないのか?」「店はどこだ?」と真顔で尋ねる人までいた。

このハワイ系の葬儀は、遠い遠い親戚までわざわざ来ている風であった。

3年ほど前には、早朝のホノルルに到着した直後にフィリピン系の葬儀に行くことになった。有名なボクサーの葬儀だったからか、カリヒにあるカトリック教会で大々的に行われていた。Mさんに何時から何時までが葬儀なのか尋ねてみたところ、「ずっとやってるから食事を済ませてから行こう」というのである。朝食を食べてから行ってみると、教会の外にまで人があふれている。大きな教会の中にはそれでも空席があり、3人で座ってスピーチを聞いたり、時折賛美歌を歌ったりした。午前中に始まり、午後2時頃まで葬儀は続いたのである。

こうした大規模に執り行われるハワイ系やフィリピン系の葬儀に対して、日系のそれは可愛いものである。そして極めて手続き的に正式で、かつ雰囲気は儀式的である。

C先生の父親で、A先生の叔父にあたる日系人の葬儀に参列したことがあった。MさんLさんの親友の義父の葬儀にも出かけていった。いずれも仏式で、ワヒアワの霊園内やホノルルのダウンタウンの葬儀所でしめやかに執り行われた。最後に精進落としも出て、少しだけおなかを満たして帰る。このあたりは日本の葬儀と全く同じである。

Lさんのご先祖様の納骨式にも招かれて行ったことがある。ワヒアワのお寺の納骨堂にまず集まって、長く預けてあった骨壷を受け取る。集まったのは3軒の親族以外では私だけである。日本から移住されて既に長い住職に挨拶をする時、私は名乗った後に ”I’m a buddhist.” と笑顔で付け加えたところ、住職もニコッと ”I’m a buddhist, too!” と返してきて、あたりは爆笑の渦に包まれた。そのように実に家庭的な雰囲気の中、ホノルルのパンチボウルの霊園に移動して納骨となった。車3台での移動で済んだが、寂しさなどはこれっぽっちもなく、実に温かなひとときであった。

このように、大家族的なハワイ系やフィリピン系の葬儀と、日系のそれとは規模や時間、雰囲気において大きく異なっていることがわかる。


ハワイ系の大家族主義

上で「葬儀」を取り上げたので、終わりに今度は「ハレ」、めでたいほうの事例を取り上げておこう。

8年前の夏から秋にかけて長期に滞在した時、ハワイ系の人の還暦祝いのキャンプを訪ねることになった。MさんLさんに還暦祝いの「キャンプ」って?と聞いても、キャンプはキャンプだよとしか答えてくれない。還暦とキャンプがどうしても結びつかない。昼ごはんを食べに行くのだという。そして車2台で連れ立ってライエにあるビーチバークに出かけて行った。

そこには小学校の教室ほどもあるテントが5、6張も設置してあり、100人ほどの老若男女が集まっているのであった。ウクレレを弾く者あり、フラを踊る者あり、バーベキューで肉を焼く者あり、ビーチで泳ぐ者あり、飲み食いする者あり。

山のように用意された料理を我々もいただいて、Mさんとその友人たちとのウクレレのジャム・セッションに耳を傾けながら、夕方までの時を過ごすことができた。

驚いたことに、何とこのキャンプは一週間も続けられるということである。そして人数もそう変化がないのだそうだ。ハワイ系の還暦パーティがどれもこのようであるのかは知らないが、親戚全員が集まり、遠い親戚も含めてあらゆる年代の男女が一箇所に集まり、それも屋外でのキャンプを続けるのだ。

これを大家族主義と言わずして何と表現すればいいだろう。


まとめと仮説

ここからは「まとめ」代わりの仮説である。確かめる途中の予想でもある。

Mさんは、次の世代の日系四世の男性たちが穏やかで大人しいことについて、「ものをはっきり言わないので、何を考えているのか分からず推測するしかなくて疲れるんだ」と、ことあるごとに言っている。三世と四世の間には、かなりはっきりした溝のようなものがありそうだ。ハワイ日系人の「個人主義化」の要因の一つとみることができるかもしれない。ではなぜそうなるのか。推測の域を出ないが、日本的なものとアメリカ的なものとが日系社会に共存していて、とりわけ若い世代(たとえば四世)のほうに日本的なものが強くなっていて、そのことが世代のずれを生み、日系人は「個人主義化」しているのではないだろうか。文化的な「世代の逆行」をそこに見ることには無理があるだろうか。

別の見方をしてみよう。日系人の「個人主義化」は、ある意味アイデンティティのハイブリッド化の一段階ではないのか。民族性を強く意識するよりも、別のアイデンティティに重きを置いているように感じられることが時折ある。「第5回 失われつつあるのかもしれない日本的価値観―変わりゆくハワイの文化―」において、ハワイを「シチュー」に例えた話を紹介した。具もスープも自分自身ではあるが、アイデンティティの拠り所が、具(民族性)よりもスープ(ハワイ的なもの)のほうに移りつつあるのではないか。民族、日系人という風に意識するのではなく、「ハワイ人」というカテゴリに自らを位置づけたうえで、もっと細かなことにアイデンティティの拠り所を持っているのではないだろうか。上に述べたが、こうなると人間の集団は細分化される。

日系人は小さな家族単位で日常生活をする形をとっているが、親戚間のつながりは必ずしも薄いわけではなく、わりと頻繁に集まっている。他民族に較べて規模が小さいだけである。このことは「第4回 ガレージパーティ」に詳しく書いた。両親や祖父母の誰かが沖縄系だと、集まる頻度はいっそう増える。こうした場にこれからもできるだけ参加して、上に述べた仮説を丁寧に確認していきたいと思う。

今回は仮説を生成したところで稿を閉じることにしたい。

 

Read more

community ja

ホノルルの向こう側 ~ハワイの日系社会に迎えられて~

第7回(前編) ハワイの日系人は個人主義的か

このエッセイは今回から全12回の後半に入る。これまでの6回の内容はハワイの日系人の文化的側面に焦点を当て、日本文化と日系文化を対比させながら考えてきた。とりわけ私の現地の保護者のような存在であるMさんの忠告に従って、ハワイの日系人の多様化に注意を払いながら、一般化し過ぎることのないように心がけてきた。迷った時には、毎年の定期的な滞在に加えてぶらりとハワイに行ってみたりもしている。

後半に入る今回は、「第2回 オシャレをしてもお洒落ではない?」の冒頭に書いた「日系人の多様化」について今一度考えてみようと思う。さらに、それが理由となってハワイの日系人は個人主義的になっているのかどうか確かめてみることにしたい。

海外に出ると日本人はよく集まって一緒に行動すると言われてきた。パック旅行はその典型的なもので、多くの日本人は海外では一人で何もできない、などと言われたものだった。集まるか単独行動をするかは、旅慣れているか、現地に適応できているか、などのバロメータとして判断されることも多かった。

しかし、日本人に限らず人間は他人に自分と似たところを見つけて、互いによく集まるものである。日本でも、たとえば私が働いている大学でも、同じ国や近い国同士の留学生たちで集団をつくっている光景は普段からよく目にしている。


日系人が個人主義的といわれる理由は何か

MさんLさん宅のガレージ前でゴルフのスイングを教わっていた時に、Mさんがボソッと呟いた。「日系人は一緒に生活できないんだよな」と。「一緒に生活する」という意味がよくつかめなかったので、具体的にどういうことなのか訊ねてみた。

べつにMさんは無理に親族と一緒に同居したり、互いに近所に暮らしたりしたいと考えているわけではない。個人的な願いがあるわけではないようだ。かつてハワイの日系人は、今のハワイ系やフィリピン系、中国系や韓国系の人たちのように、一定の地域に集住していることが多かった。もちろん後者らにも家族規模や家屋の形状や大きさに違いはあるし、集住の程度もまちまちである。しかし日系人と較べて家族親族の人間関係が濃く、毎日のように顔を合わせる生活をしているというのである。このことを「一緒に生活」しているとMさんは言ったのだった。

ハワイ系の人たちが多く住んでいる地区としては、東のワイマナロ、西のナナクリやワイアナエがよく知られている。さらにナナクリの隣のカポレイは最近大規模な都市開発が進んでいて、この地区にもハワイ系の人口が増えている。これらの各地区はハワイ系に優先的に分譲されたハワイアン・ホームステッドを擁しており、そうした積極的優遇措置政策(アファーマティブ・アクション)も集住の要因になっている。

カリヒやワイパフといえば、その赤茶色の土地の色とフィリピン系の人たちが多く住む地区としてのイメージが自然に重なる。ワイパフは製糖業の衰退とともに日系人が街を出て島のあちこちに散り、フィリピン系の人口がさらに増えていった。選挙期間に街を訪れると、フィリピン系候補の垂れ幕が家の塀に所狭しと掲げられているのを見ることができる。カリヒでも同様に、同じ民族の候補者を懸命に応援している。

カリヒの東側の地区には立派なチャイナタウンがある。早朝から昼前まで、大変な賑わいを見せている。ハワイにいても夜更かし朝寝坊の私は、早朝のチャイナタウンに行くことはめったにないが、夕方や夜、出先から戻るときに車で通ることは毎日のようにある。中国系の商人たちが荷物を片付けたり、翌日の準備をしたりしている。

朝の卵かけご飯はハワイでも人気があるが、生卵のまま食べることのできる新鮮な鶏卵は、以前はオアフ島の裏側のカフクあたりの農園まで買いに行かないと手に入らなかった。今では韓国系の店が増えたアラモアナ・ショッピングセンターの北側の地区に行けば、採れたての生卵を買うことができる。

このように、「なに系」はどこの地区に多く住んでいる、と言える民族がいくつも存在する一方、日系人については、どの地区に集住しているかは簡単には言いにくい。かつては民族ごとの「棲み分け」を示した地図も売られていて、私が長期に観察をしている小学校の図書館や教室にも置かれていたが、あまりにも古くなって処分されてしまったようである。その後、新しい版が発売されたという話もない。異人種異民族間結婚がごく普通のこととなり混血が進んでいることと、人数的に依然多数派の日系人が集住しなくなってきたことなどから、地図の作成が難しくなったのではないかと思う。

それではなぜ日系人は「個人主義化」したのだろうか。このエッセイの第2回には、「日系社会で求心力を誇っていた大物二世、たとえばダニエル・イノウエやジョージ・アリヨシらが一線から退き、時代の中心は三世に徐々に受け継がれていった。(中略) 諸々の事情を理由として、三世以降の世代の日系人たちは多様化していった」と書いた。多様化すると人間の集団は細かくなる。緩やかな結びつきは残しつつも、その下位の次元の共通性にアイデンティティを感じて強く結ばれる。しかし要因はそれだけだろうか。


社会的地位が向上すると集住しなくなるのか

中国系は世界中にチャイナタウンを形成している。先にも書いたがホノルルのチャイナタウンも活気がよい。以前ほどの賑やかさではないとは聞いているが、それでもそこはまさに中国である。料理に精通するMさんLさんも、ここにしかないものがいろいろある、と言っている。

かつて中国人移民たちは、後からハワイにやってきた日本人移民たちよりも早くサトウキビプランテーションを出て、街に住み、商売をするようになった。農園労働者から自分の仕事を持つようになったということである。そしてその後、ハワイの経済界を支えるようになっていった。

この一つの事例だけからも、「社会的地位が向上すると集住しなくなる」とは言えないようである。

チャイナタウンに行けば様々な方言の中国語が、コリアンタウンに行けば韓国語が聞こえてくる。フィリピン系もタガログ語で話している。みな母語で生活し仕事をしている。

言語、ことに母語の問題は大変重要で、アイデンティティの形成に強い影響をもつとされている。「三世には日本語学校に通った者も多くいたが、戦中の強制収容や日系人に対する敵視政策などが原因で、アメリカへの忠誠を表す意味で日本語を学ばせない家庭も少なくなかった。」(「第2回 オシャレをしてもお洒落ではない?」)そのため日本語に不自由しない者から聞くことも喋ることもできない者まで、三世は言語的に多様化していった。そして四世の多くは日本語を日常生活では使っていない。私はこれまでに日本語を自在に操る四世には出会っていない。こうした「(英語への)言語的同化」がハワイ日系人の「多様化、細分化、分散」の大きな要因となっているのではないかと思えるのである。ジャパンタウンはハワイから既になくなってしまったし、北米大陸にも数えるほどしか見られない。

第7回(後編) >>

 

Read more

education ja

ホノルルの向こう側 ~ハワイの日系社会に迎えられて~

第6回 『精一杯やる』とはどういうことか ― 日本文化とハワイの日系文化

小学校の話を続けよう。前回(第5回「失われつつあるのかもしれない日本的価値観―変わりゆくハワイの文化―」)MさんLさんの優しさや思いやりの深さに触れた。二人によれば、日系人たちが受け継いできた日本文化の美徳は、「やってあげられることを精一杯やる」ということだった。これについて、第3回「Tシャツ」で話題にしたA先生の学校に注目してみることにする。

A先生の勤務する小学校はホノルルからフリーウェイを使って1時間以上かかる僻地校である。古くは日本人移民が最初に入植した地といわれ、オアフ島で最後までサトウキビ栽培が行われていた田舎の町にある。そこより先に小学校はない。映画「Picture Bride」の舞台になったと思われるエリアでもある。

A先生は長く副校長を務めたが、2009年度より自ら降格して、現在はカリキュラム・コーディネータ役の教諭である。Milken Awardという全米の優秀な教員に与えられる賞を授賞している。従妹のC先生も重要な役割を担うスタッフである。ともに学校から車で数分の集落に住んでいる。Lさんの同級生はみな引退し、現役でフルタイムで働いているのはA先生一人とのことである。

2001年の冬に初めて学校を訪問したときに、日本では考えられない学校の取り組みについて話を聞くことができた。それ以後毎年訪問しているが、2006年11月と2007年9月には3名ずつ学生を連れて見学に行き、話を伺うこともできた。その後もほぼ毎年学生を連れて行っている。校内を案内してもらいながら聞いた話、オフィスでディスカッションした時の話、これらをとりまぜてここに紹介してみたい。

この学校にはホームレスの子どもが何人もいます。ホームレスといっても必ずしも放浪している家族を指すのではなく、ビーチにテントを張って暮らしていたり、車で寝泊まりしていたりする家庭のことですね。そこからこの学校に通ってくるのです。

― 家庭の状況はどうですか。

ホームレスの家庭に限らず、家庭に問題を抱える子どもも多いです。親のドラッグ中毒の問題は深刻です。両親が親としての役目を果たさないために、祖父母が面倒をみるだけではなく、養子縁組をして孫を子どもとして登録し養っている家庭もあります。妊娠中のドラッグの使用が原因で、先天的な障害を背負っている子どももいます。

― そうなると金銭面など生活の水準はどうなっていますか。

これが頭の痛い問題です。朝食、昼食を学校で用意することになっています。家庭の収入に応じて全額免除になる子ども、半額免除になる子ども、免除なしの子どもと三段階に分かれています。温かい食事を摂れるのは学校だけという子どもも少なくないため、栄養面への十分な配慮も要求されています。

― 問題は食事だけでしょうか。

とくにホームレスの子どもは衣類など生活用品を買うお金がありませんから、学校で何とかしなければならなくなります。学校にスクール・ストアを設けて、Tシャツ、下着、サンダル、タオル、歯ブラシ、歯磨き粉、ノートや鉛筆などの文房具、缶詰など食料品など、いろいろな物をストックしてあります。ここでは現金の取り扱いはなく、スクール・マネーで購入することになります。スクール・マネーは、たとえば休み時間などに掃除を手伝わせたり、本棚や倉庫の整理をさせたりして、その報酬として与えることになっています。

― スクール・ストアにストックされている物はどうやって集めるのですか。

タオル類はホテルからの寄付で賄えます。ハワイにはホテルがたくさんありますからね。またアカデミーと呼ばれる課外活動で植物を育てています。それを文化祭で販売して学校が収入を得て、それを購入資金に充てたりもします。

― スクール・ストアの運営からわかる児童の状況はどのようなものでしょうか。

ぬいぐるみや本を買っていく子どもは、比較的家庭が安定していると判断できます。文房具もそうですね。タオルやTシャツ、下着などを買う子どもは要注意です。最も注意を払わなければならないのは、缶詰を買っていく子どもです。そういう子どもの家庭は破綻していることが多く、親がいなかったり、いても役目を果たしていなかったりします。栄養面でも非常に心配です。小学生にして家庭を養っているとみることもできるわけで、慎重な配慮が必要です。

この発言とまったく同様の取り組みや視点を、2007年6月10日放送のテレビ東京『アロハガール』で、オアフ島西部ワイアナエ地区の小学校を取り上げて紹介していた。

― 家庭が安定していない子どものケアが重要な課題ですね。

そうです。ですからこの学校は『学校をヘイブン(haven)に』というスローガンを掲げてそれに対応しようとしています。「ヘイブン」すなわち「避難所・安息地」ですね。学校を、あらゆる不幸な出来事からの逃げ場、駆け込み寺にするというものです。ドメスティック・バイオレンスや性的虐待といった家庭のトラブルから逃げられるシェルターにするのです。教員は授業が終わると2時か2時半には帰宅しますが、学校自体は規則で5時まで開けておく義務があります。それをサービスで9時まで延長しています。延長した時間帯に学校に来る子どもはそれほどいませんが、夜まで学校が開いていることは精神的な安定を与えているようではあります。いずれにしても、学校を楽しい場所だと思わせることが重要です。

― その他、近年の教育改革の流れについてお考えはありますか。

学力重視の流れ、テスト中心の歪んだ教育、問題は山積しています。幸い私は予算を獲得するのが得意ですから、他の学校よりも多少は運営しやすいですが、テストや学校評価によって予算の締め付けを行うブッシュの教育政策は、現場を疲れさせるだけで何も良いことはありません。そういうことをしなくても、昔から私たちは懸命に努力してきているし、これからもずっと同じです。評価は必要ですが、評価の観点を間違えると教育はどんどん悪い流れになって行きます。日本も同じようなことが起こっているでしょう?

― 具体的な最近の変化について教えてください。

遠足ですね。校外学習も含めて。規則では年間2回行うこととされています。学力重視の流れで廃止にする学校もある中、この学校では4回行っています。田舎の子どもたちには都会の経験を含めて、多くの経験をさせることが重要だからです。また、算数や理科を極端に重視し始めたために時間が足りなくなって、音楽や図画工作の時間がなくなりました。学校の理想には反するけれど、算数や理科の成績が評価されるとなれば、見苦しい結果は出せませんからね。不本意ですが。

以上がA先生による語りである。(初出は拙著『多文化教育とハワイの異文化理解学習―「公正さ」はどう認識されるか』ナカニシヤ出版、2011年)

2007年に訪れた際、インタビューの最中に校長が突然部屋に入ってきて、また新たな予算がついたと報告した。A先生は小躍りして、これで5年生をボールゲーム観戦に連れて行くことができる、と喜んでいた。アメリカンフットボールのウィンターリーグの一試合に学年ごと招待されたのであった。A先生やこの学校が多様な予算獲得に努力していることがこのことからも伺い知れる。

また、学生を3名連れて訪ねた時のことである。C先生もA先生に負けず劣らず気さくでエネルギッシュな女性で、いつも本当によくしてくださる。ある教室を見せてもらっていると、C先生が学生たちに「どの子がハンディを背負っているか気づきましたか?」と訊いてきた。3名ともに目を白黒させ、私ももちろんキョロキョロして赤くなった。我々は何もわかっていなかった。そうした子どもが25人の中に5人もいたのである。

ハワイ州は統合教育(健常児と障害児を同じ教室で学ばせること)がほぼ100%に近い実施率で、もちろん全米トップである。統合教育を行うには大変な労力がかかる。教職員の熱意と愛情と専門性がなければ成り立たない。そうした「力」を維持しさらに伸ばしてゆくためには、校内での研修がたいへん重要である。私が通い続けているハワイの小学校では、教職員の校内研修にもできるだけ出させてもらっている。それらの中でもA先生が自ら指揮する研修は、質において抜きん出ている。論文など先行研究もしっかり読み込んで、理論の支えもバッチリなのである。油断していると意見を求められたりもする。だが誰にも緊張感は感じられない。持ち寄った食べ物はどれも美味しく、もちろん食べながらの研修となる。後述するが、こうしたリラックスした真面目さこそが何においても大切なのではないだろうか。

A先生はParents Class(保護者学級)も開いていた。だが10年近く前にあっけなくやめてしまった。来なくてもよい親が大勢来て、本当に来るべき親は現れないからだという。これは日本もハワイも変わるところはなく可笑しかった。打つ手はないものか。

ハワイにもモンスター・ペアレントはいる。Monster Parentは和製英語ではあるが、何と誰にでも通じてしまった。日系社会では作業着としての「モンペ」は旧くから知られてきた。そこで私が省略してMom-Peと言ってみたら猛烈にウケてしまい、A先生の学校で瞬く間に流行ってしまった。A先生は個人的にはMom-Peの態度に呆れ返っているが(第5回「失われつつあるのかもしれない日本的価値観―変わりゆくハワイの文化―」終末部分の「“entitled” な考え方をする住民」を参照)、避けられない仕事として熱心に対応しているようである。

ここまでA先生の考え方や働き方を参考にしながら、A先生の勤める小学校の様々な側面を紹介してきた。冒頭で触れたように、「やってあげられることを精一杯やる」日系人の精神文化に支えられている学校であることがよくわかる。そうした精神文化のおおもとは、日本人移民たちが運んだ日本文化の美徳なのであった。だがその日本文化の美徳と日系人の精神文化が互いに同じであるかというと、どうもそのようには感じられないのである。

「精一杯やる」ということの意味が日本人と日系人とで異なっているのではないか、ということである。やれる範囲で、またはやるべき範囲を定めてベストを尽くすハワイ。A先生は休暇も非常に積極的に取る。ラスベガスに行くのが大好きで、休める時にはしょっちゅう行って楽しみ、リフレッシュして帰ってくる。そしてまた結果を出す。一方日本人はどうだろうか。あらゆる業種において、やれる範囲を遥かに超えて限界をも超えることが少なくない。やれる範囲、やるべき範囲が当初かなり曖昧で、次第にそれが広がってゆく。かえって質の低下を招き、モチベーションは失われてしまったりする。今日の日本人の疲労感の原因はそこにあるのではないだろうか。

私はかつて陸上競技やスピードスケートをやっていた。最近はゴルフである。ベストパフォーマンスには余力が残されている、と感じるのである。

 

Read more

identity ja

ホノルルの向こう側 ~ハワイの日系社会に迎えられて~

第5回 失われつつあるのかもしれない日本的価値観 ― 変わりゆくハワイの文化 ―

ハワイの日系社会をテーマに連載を始めたこのエッセイだが、はたしてハワイに「日系社会」なるものがあるのかという疑問に突き当たることがある。チャイナタウンのような民族コミュニティが見える形で存在しているのはむしろ例外的である。アラモアナ・ショッピングセンターの山側に、コリアンタウンの始まりのようなものを感じることはある。だが、ハワイ系の多いワイマナロやカポレイ、フィリピン系が多いとされるカリヒやワイパフなどはあるものの、それらの地区にも様々な民族が共住している。カポレイでは最近大規模な宅地開発が進んでいるし、ワイパフにはかつて日系人が多く住んでいたが、製糖業の衰退とともに人口構成は変わってしまった。養豚業を営む沖縄系が多く住んでいたハワイ・カイは今や高級住宅地である。このように次第に地域は変容し、「その民族ならここ」と言うことが難しくなってきている。異民族間結婚もそれに拍車をかけている。

ハワイでは「メルティング・ポット」的な状況と「サラダ・ボウル」的な状況とが共存していると言われる。WASPのような絶対的な多数派が存在しないために、アメリカ本土とは状況が大きく異なっている。長い航海の末ハワイに到達した移民たちは、もともと存在しなかった「ローカル」文化を創り上げ、それを共有することで「ハワイ人」というまったく別の存在に「なる」と信じてきた。このことは「メルティング・ポット」的な状況と言ってよい。

その一方で、ハワイは多くの民族が自らのアイデンティティを保持しながら生活している場所でもある。今や六世の誕生する時代となり異民族間結婚も進んで、自らを「なに系」と同定できない者も増加し続けている。

だが、食生活など日常の文化的側面においては依然として先祖の影響が色濃く残っており、民族固有の生活様式も維持されている。このような一種独特の状況は、ハワイの食文化にも表れている。たとえばMixed Plateがそれである。

街かどのランチスタンドやレストランなどどこにでもあるこのメニューは、紙皿に二盛りほどの米飯と、その周りにカルーアピッグ(豚の蒸し焼きをほぐした塩味の肉、ハワイアンの伝統料理)、煮しめ、チキンカツ、キムチ、焼肉、ポルトガル風ソーセージなど2、3品のおかずがついてくるというものである。1枚の皿の上に複数の民族の料理が乗せられ、それで一つのメニューとなっている。この場合の皿はハワイという土地を、米飯やおかずは各民族を象徴している。全米日系人博物館のかつての巡回展示、『弁当からミックスプレートへ(From Bento to Mixed Plate) 』に詳しい。このことは「サラダ・ボウル」的な状況を示すものと言えるだろう。

となると、ハワイでは「メルティング・ポット」と「サラダ・ボウル」とは互いにどうなっているんだ、ということになる。どんな時に、また、どんなところで「メルティング・ポット」と「サラダ・ボウル」が現れるのかということである。仕事で大変世話になったハワイ州教育局の社会科専門官が上手いことを言っていた。

ハワイは「シチュー」ではないか、とのことである。

つまり、ジャガイモや人参、玉ねぎやブロッコリー、セロリといったシチューの具がハワイに住む民族であり、それぞれの角は取れて丸くなり、シチューのスープに溶け出している。スープはハワイの「ローカル」文化であって、自らの身体にまとわり付き、互いに共有している。

私はそれを聞いて「なるほど!」と思った。それから15年近くが経ち、言った本人は残念ながら天に召されてしまったが、私はそのことを実感し続けている。異民族の友人たちは日本文化や日系文化を共有してくれていて、話をしていても余計な説明をする必要がないことが多い。日本文化をよく知っているだけでなく、自らの生活様式に取り込んでいることもしばしばである。日本人の私も、彼らの文化を積極的に共有しようと努めていることに気づくことがよくある。といっても、付き合いの多いハワイアンの人たちの文化くらいのものであるが。

そのようなわけで、ハワイの「日系社会」というよりも、多文化が混在して、そのうちの一部が溶け合っているハワイにおける日系人たちの日常、そのようなものがあって、そこに私も仲間に入れてもらっているというのが正確なところなのではないかという感じがするのである。

前回「ガレージパーティ」を取り上げた。MさんLさん宅の小さなガレージで開かれる温かなパーティでは、「ハワイの変わらぬ日本文化、変わりゆく日系文化といった価値観に関わるものが共有され、次世代に受け継がれている」というように書いた。共有されたり受け継がれたりする文化の事例について考えてみよう。

MさんLさん夫妻が大勢の人たちから尊敬されている理由の一つとして、とことん親切である、ということがある。誰にでも甘いということではなく、時には厳しくアドバイスもする、という思いやりの深さという点においてである。

その二人が以前に、「我々が受け継いできた日本文化の美徳は、『やってあげられることを精一杯やる』ということだ」とよく言っていた。加藤賢一・永江一石著『夢と住むハワイ島』(マガジンハウス、1998年)にもそれを思わせるシーンが出てくる。ハワイの日系人の大変な親切に感動した日本人旅行者が、思わず自分のしていた腕時計をお礼に渡そうとして、結果として日系人の気分を大きく害してしまったというものである。

中学生だった私をハワイの魅力に引きずり込んだ、加藤秀俊著『ホノルルの街かどから』(中公文庫、1979年)には「送迎儀礼」という項目が立てられて、島の人間の送迎好き、お客さん好きを論じている。「ハワイの人たちは、そういう送迎をすこしも苦にしない。それどころか、ひっそり旅行することをゆるしてくれない。いくら辞退しても、何人かの人がきてくださる。飛行機の時間をおしえないと、怒られる。」(174ページ)

私は夫妻の子どものような弟のような扱いをしてもらっているが、まったくこの通りなのである。年に数度の訪問の際、必ず空港まで迎えに来てくれる。朝食もしくは昼食をとって自宅まで戻ったら、その車を滞在中貸してくれる。帰国の朝は一緒に朝食をとり、空港まで送ってくれる。それで車の返却となる。毎回のことである。

ホノルルに住んでいた頃、ラスベガスで開催された学会に向かうためホノルル空港にいた。ブラブラしていると、私の大好物である「ショーユ(醤油)・チキン」を持ってMさんLさんが突然現れた。フライトを知らせてはいたが、驚く私に「腹減ってるだろうと思ってな」とMさんははにかみながらそれを手渡してくれた。空港ターミナルを吹き抜ける貿易風に涼みながら、チキンとご飯とサラダを平らげた。ラスベガスに着くまで何も食べないで大丈夫だったが、それは単に腹が満たされたからというだけに留まらない温かな感覚だった。

ネガティブな側面にも目を向けてみることにする。

MさんLさんは、隣同士の小学校のカフェテリアのマネージャー職にあった。

Lさんのカフェテリアからプルメリアとマンゴーの木をくぐり抜けたすぐ裏は、昼間は高齢のおばあさんが一人留守番をしている家だった。玄関の前庭に椅子を出して、行き交う近所の人たちとお喋りをしていることも多かった。学校給食は足りなくなってはいけないので必ず余分に作ることになっている。余った分は冷凍して保存したり、仲間うちで分けたりする。私の夕食に持たせてもらうことも頻繁にあった。私はLさんと一緒に、おばあさんにおすそ分けを届けることもよくあった。

学校の建物の修繕に来ている業者にふるまわれたりもした。その時のことである。教員の一部から、業者に食べさせる必要はないのではないかと批判が出たのである。白人の教員だったそうだ。当然だがLさんは憤慨していた。「学校を直しに来て『くれている』んだから、もてなすのは当然でしょ。どうせご飯は余るんだから」と。

またこういうこともあった。Parents Day、つまり保護者の学校訪問日(参観日)に、Lさんは保護者たちに給食を無料で提供する作業をしていた。Mさんの給食と同様にLさんの給食もとても美味しい。だからだろうか、予想以上に保護者が食べに来てしまい、数名の保護者にメニューのチキンナゲットが足りなくなった。するとその連中が不平を言いながら騒ぎ始めてしまった。3個あるところが2個になってしまったので文句を言っているのである。

日本人の我々だったらどうするところだろうか。大方の日本人はそのままありがたく給食をいただくことだろう。「タダ飯」なのである。タダでもらえるものに何かが足りなかったところで文句を言ったりはしない。そんなことをしたら、「お天道様に見られて罰が当たる」と考えるのが日本文化であり日系文化である。私などは小さい頃、食べ物に不平を漏らしたりしたら「口が曲がる」と言われたものだ。Lさんの小学校の学区域では白人の人口が増えていた。不平を言い散らしたのも白人たちなのであった。

A先生(本シリーズ第3回「Tシャツ」参照)によれば、“entitled”な考え方をする住民が近年増えていて、学校としても困っているのだそうだ。好意に対して、“entitled”つまり「当然やってもらえる、やってもらう権利がある」と、思慮に欠けた行為に出る者たちのことである。(日本語では野球の「エンタイトル(ド)ツーベース」などに使われる表現。これにはネガティブな意味はない。)

もちろん白人がみな同じというわけでは決してない。ここでステレオタイプを語るつもりもない。だが、住民の世代交代や人口構成の変化で地域文化は常に変化する。快適な人間関係が変わってしまうこともある。この場合は、白人という特定の「具」の味が強くなりすぎて、「シチュー」の味がバランスを欠いてしまったということなのかもしれない。味のバランスが崩れると、元に戻すのは本当に大変なことなのに。

 

Read more