Seiji Kawasaki

1965年愛媛県松山市生まれ。筑波大学第一学群社会学類法学主専攻卒業。筑波大学大学院修士課程教育研究科修了。筑波大学大学院博士課程教育学研究科単位取得退学。東京学芸大学教育学部専任講師、助教授、准教授、ハワイ大学教育学部客員研究員(2001-2002年、2008年)などを経て、現在、東京学芸大学教育学部教授、博士(教育学・筑波大学)。専門分野は社会科教育・多文化教育,ハワイ研究,授業研究方法論。著作は『多文化教育とハワイの異文化理解学習―「公正さ」はどう認識されるか(単著、ナカニシヤ出版、2011年)ほか。

(2014年7月 更新) 

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ホノルルの向こう側 ~ハワイの日系社会に迎えられて~

最終回 ハワイ日系人の伝統文化と多様性

ハワイの日系人や日系社会について、私自身の実体験における「気づき」を、非常にゆっくりとしたペースで書き連ねてきたこのエッセイも、12回目の区切りを迎えることになった。

小学生の頃から20年、強烈な憧れを抱き続けていたハワイを初めて訪れたのが1996年の夏だった。自分の専門の多文化教育のメーリングリストから、ハワイ大学の日系人と思しき人を選んで連絡をしてみたら、すぐに返事が返ってきて教育学部のY先生を紹介してもらえることになった。

半信半疑のままハワイに向かったところ、とんとん拍子に話が進み、「ホノルルの向こう側」のK小学校で行われているハワイ大学の教育実習の見学に行くことになってしまった。

これが以降現在まで23年にわたるハワイ、そしてK小学校との付き合いのスタートである。


多様化と個人主義

第2回「オシャレをしてもお洒落ではない?」において、Mさんの忠告を紹介した。「『ハワイの日系人は多様だぞ。「ハワイの日系人は」とひとくくりにはできないよ。』このエッセイを引き受けるにあたり、まず最初に日系三世のMさんは真剣に忠告してくれた。さらにその多様性や多様化について、Mさんはいつもの丁寧な口調で語るのである。」と。

これをきっかけに、私はハワイ日系人の多様性について強く関心を持ち、年数回の滞在の際には注意深く人間関係を観察するようになった。

第7回(前編)では、Mさんがボソッと口にした「日系人は一緒に生活できないんだよな」という呟きを取り上げた。もう少し聞いてみると、それはどうやら同居しない家族も顔の見える範囲に住んで楽しく毎日を送る、そのことができないという意味のようだった。「スープの冷めない距離」という表現があるが、日系人は親戚同士が近所に住むことが少ないようなのだ。私は四国の松山市の非常に古い集落に生まれ育ったので、周りは親戚だらけである。小さい頃、日中は母や祖母だけでなく近所の女性たちにも見守られていた。私が若い女性にではなく、オバチャンやオバーチャンに今でも非常にモテるのはそのためだと思う。そのような育てられ方をした私には、Mさんの言ったことがすぐには信じられなかった。

中国系や韓国系、フィリピン系などの民族と比較してみて、「(英語への)言語的同化」がハワイ日系人の「多様化や細分化」の大きな要因となっているのではないか、と仮説を立ててみた。民族の言語で日常生活を送ると同じ民族で集まって住むことを続ける、逆に言えば、同じ民族で住んでいると民族の言語が保たれる、そういう予測である。既に専門家による調査研究がありそうだがどうだろうか。

別の見方をしてみよう。日系人としてのアイデンティティよりも、共通文化としてのハワイ人アイデンティティのほうに重きを置くようになっているとする。そうすると、民族という枠組みはまとまりの単位としてあまり重要ではなくなる。その結果として日系人は多様化しているのかもしれない。混血も進んでいるし。


ハワイ日系人の共通性と伝統の継承

A先生がこのエッセイに初めて登場したのは、第3回の「Tシャツ」の回だった。スクールTシャツが学校でどのような役割を果たしているかについて、A先生の取り組みを紹介した。

彼女は私の研究のよき理解者であり、手持ちの資料や論文を用意して「これは参考になるはずだから持って行きなさい」と渡してくれたりもする。私の研究テーマで校内の教員研修を実施して、私を参加させてくれたこともある。そのような元全米優秀教師である。

今回この12回のエッセイを一旦まとめるにあたり、ハワイ日系人について彼女にもう一度話を聞いておきたいと考えた。そこで、今このエッセイを書いている1ヶ月半ほど前に、思い立って彼女に会いにハワイに出かけたのである。

半年ほど前にご主人を亡くし、さらに数日前に1歳上のお姉さんを亡くしたばかりだったが、いつもの快活なA先生が学校で待ってくれていた。今年73歳、友人のLさんも既に引退して、現役で活躍しているのは同級生では彼女だけだそうである。

今回は何をしに来たのか、日本の今はどうか、家族や親戚が日本に行ったがこんなことがあった等々、いつもの世間話を一通りした後、これまたいつものようにハワイの日系社会についての話になった。

彼女自身も含め日系人には教員になる者が少なくない。ハワイの教育のかなりの部分を、これまで日系人が担ってきたと言っても過言ではない。そうした伝統について、その日のお喋りは非常に弾んだのである。

ハワイで頻発する犯罪の話になった。日系人の犯罪はないわけではないが、他の民族との比較では発生率は非常に低いのだと。そしてその理由に話は及んだ。日系人は真面目だから。いや、そんな単純なことではないらしい。どの民族もその大多数は真面目なはずである。

彼女によれば “Everybody is involved with the family.” が理由なのだそうだ。つまり、日系人は家族との絆が強く、自分の行為が「○○家の恥」になりはしないかと常に考えるのだという。

私はここで、A先生のこの意見とMさんの指摘(「日系人は多様だぞ、一括りにはできないよ」)とが対立するような感じがした。今でもそのズレを解釈しきれていない。

興味深い展開になってきたので、もう少しA先生に突っ込んでみた。「ハワイの日系人はみんなそう考えるの?」と。

すると即座に「みんなそうよ」と返ってきた。「○○家の恥になるようなことは絶対にしない。こういう考え方は、日系人ならみんな共通に持っているはず。私たちの親(二世)の世代は間違いなくそうだったし、三世の私たちも、四世である子どもたちもみんなそう。」

さらに続けて喋ってくれたことが面白かった。「犯罪なんか犯してごらんなさい。それこそ一族の恥よ。親兄弟も親戚もみんな。そして先祖までも。全員の恥ということになるのよ。過去にさかのぼって一族の歴史が完全に否定されることになって、一切その地域で相手にされない一族になるのよ。」

話は止まらない。「Lは大きなFストアの姪としてこの街で育ったでしょう。父親は地域の有名な指導者だったし。彼女は小さい頃から社交的な模範生だったわね。M(Lさんの夫)だってそうでしょう。あんな働き者はいないし、極めて常識家だわね。みんな family のことを考えて育ったからよ。」

このことは、第5回「失われつつあるのかもしれない日本的価値観 ― 変わりゆくハワイの文化 ―」で述べた、「『お天道様に見られて罰が当たる』と考える日本文化や日系文化」と同じ論理ではないか。モンスターペアレントや “entitled” な考え方(当然やってもらえる、と考える権利意識)を持つ保護者が増えて、地域の伝統文化や学校文化が破壊されつつあることに困り果てている日系人の姿をそこでは紹介した。道徳的に良いとされる古くからの価値観を、新しい時代においても維持したいと考えるのは自然なことである。

他の民族に較べて多様化と個人主義が早く進んでいる日系人にも、しっかりとした伝統の継承は続いているのである。

「ハワイの日系人は多様だぞ」というMさんの忠告に従って、どのように多様なのかに興味を抱き調べてみたところ、逆に日本古来の信念を守って代々生きてきた日系人の姿が見えてきた。多様性を探すことで、日系人の一般的共通性や伝統の継承をしている姿が浮き彫りになったということである。

ただ多様性そのものについては、12回のエッセイでは描き切ることができなかった。おそらく個別の具体的な事例を拾い上げて、その面白さや珍しさを取り上げる方法になるのだろう。エッセイのこの先があるならば、そこで紹介をしたいと思う。

 

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ホノルルの向こう側 ~ハワイの日系社会に迎えられて~

第11回 ハワイ日系人が人間関係で大切にしていること

ハワイ大学のマノアキャンパスの北側に、Mid-Pacific Instituteという私立の中高一貫校がある。ホノルルではPunahou(プナホウ)やIolani(イオラニ)と並ぶエリート校である。MPIと略されるので、M(id-Pacific Institute)はP(unahou)やI(olani)を従えて先頭だ、と笑い話をしてくれる卒業生がいた。

寄宿舎も完備していて、ハワイの島々からも入学してくる。日系人の在籍・卒業生も多い。英語の語学研修のプログラムもあって、学生だけでなく成人の研修生集団も受け入れられている。

Lさんとその兄・弟もここの卒業生である。

そのMPIに日本から成人の語学研修生たちが20名ほど来ることになって、ランチのサービスをMさんLさんが請け負うことになった。以前にも書いたが、Mさんはワイキキの有名ホテルの総料理長を務めた後、小学校のカフェテリア・マネージャーに転じた。Lさんは小学校教員から、同じく小学校のカフェテリア・マネージャーとなった。引退後のMさんLさんには、時折こういう頼みごとが来る。私も葬式や市役所の食事のサービスの手伝い(機材の準備とライスの盛り付けだけだが)をしたが、皆が満足して見せる笑顔を見て、それまでの生活では味わったことのない喜びを感じることができた。

ランチのサービスをすることになった時、私はMさんLさんの自宅に泊めてもらっていた。「明日は3時起きだぞ」と言われて何事かと思って寝た。4時に山のような荷物をトラックの荷台に積み込んで、ホノルルに向けてカネオヘを出た。

4時半にハワイ大学の南東側の住宅地にある日系人のFさん宅に着いた。FさんもMPIの卒業生でLさんのクラスメートである。敷地内の離れにはハワイ大学の日本人留学生もよく下宿している。どことなく日本の土間を思わせる屋根付きの中庭があり、昼には語学研修の日本人たちが集まってくることになっている。

バーナーや巨大なフライパン、おびただしい数の調理道具に食事用の什器、山のような食材を運び込んだ。それが終わると我々3人は、ワイキキの端のカイマナビーチにあるホテル・ニューオータニに行って、ハワイアンの巨匠エディ・カマエ、マーナ・カマエ夫妻と朝食をとった。私はレストラン「ハウ・ツリー・ラナイ」の名物のエッグ・ベネディクトを注文して皆に笑われた。この頃の私は、まだ日本人旅行者と同じようなことをしていたのである。

カマエ夫妻と8時過ぎに別れてFさん宅に戻った。中庭の端の青空の下にバーナーを設置して、11時頃からステーキをどんどん焼いた。一番おいしいステーキの焼き方、レアとミディアムの違い、肉汁の落とし方、焼け具合の確認のしかた、塩胡椒のまぶしかた、カットのしかた、といった元総料理長の技を見ることができた。日本人たちは年齢に関係なくステーキを頬張り、その美味しさにキャーキャーと歓声を上げ続けていた。そりゃそうだろう。元総料理長の焼いた肉なのである。裏返す作業をしたのは私だが。

この間、私はMさんのサポートをし、日本からの語学研修生たちと話したり食べたりする暇はまったくなかった。帰り際には丁重に礼を言われ、かえってこちらが恐縮するほどだった。MさんLさんと一緒に、私はニコニコしながら手を振って別れたのだった。

バーベキューの翌日は敬老の日である。

私はMさんLさん、Fさんらと、バーベキューのお礼にと招かれたアラモアナ・ホテルにいた。イベントルームでは、日系人を対象にした敬老の日のシニア向けの数々の出し物があるのである。ランチをいただきながらそれを皆で楽しんだ。日本からの語学研修生たちも寸劇をやる。それは飛び入りで、語学研修の一環なのである。

研修生たちは日本を発つ前から練習をしていて、衣装にも凝っていた。題目は「水戸黄門」で、主題歌を合唱した後、例の「この紋所が目に入らぬか!・・・」「ハハッ〜・・・」となったところで、会場は万雷の拍手となるはずだった。研修生たちもそう考えていたと思う。だが私は頭を抱えて思い切り目をつぶった。

会場全体は静かで温かな、気遣いにあふれた雰囲気に包まれた。研修生たちの目論見は完全に外れてしまったのだ。

ハワイの日本語テレビ局のKIKUは、日本のTBSから多くの番組を買って放送しているにもかかわらず、水戸黄門だけは放送してこなかった。そのため、あんなに日本では高視聴率を誇る番組が、ハワイでは全く知られていないのである(当時)。

私はいたたまれなくなって、助さん格さん、そして黄門様役の女性3人組に声をかけた。「とってもお上手でしたよ!でも水戸黄門はこちらでは放映されていないので、誰も知らないんですよ。だから何も心配しなくて大丈夫ですよ」と。

すると3人の顔がみるみるうちに驚きの表情に変わっていった。「うわー!日本語お上手ですねえ〜!訛りが何にもなくって綺麗な日本語!どこで習ったんですかぁ〜?」と誉めてくれる。よくある日本人の反応である。そこで私はすぐに気がついた。前日のバーベキューではMさんのサポートに徹したので、研修生たちとは交流しなかった。だから私のことをハワイの日系人だと勘違いしているのだ。

「昨日はお父さんとお母さんと、美味しいステーキを焼いてくださって本当にありがとう!」MさんLさんを私の両親だと間違えている。

私はこうした時、ふざけてしまうことがある。

私:「日本には一度も行ったことがなくって〜、やっぱり電車にはみんな駆け込んでいるんですよねえ?満員電車に駆け込んだら危なくないんですか?ハワイには電車がないからよく知らなくって・・・」

日本に対する誤解を聞くと日本人は急に親切になる。「ねえねえ!一度日本にいらっしゃいよ!東京や京都を案内してあげるから。電車なんかスパゲティのようにいっぱい走っていて、地下鉄もたくさんあるのよ。」

私:「もう日本では切符を買わないんでしょう?手を置いたら改札を通れるんでしょう?」と更にふざけてみた。「あぁそれは〜、SuicaとかPasmoでしょ!先にお金を出して払っておくのよ。500円でカードを買って、いくらかお金を足しておくの。今度本当にいらっしゃいよ!」

私:「でもな〜、納豆が大嫌いだから・・・」日本独特の食べ物の話になると、日本人はどんどん饒舌になっていく。「臭いのない納豆もたくさんあるのよ。水戸に行って本場の納豆を食べれば好きになるわよ!」と話が続いて行きそうになったところで、私は我慢できなくなった。

「実は・・・日本人なんです。」すると彼女たちはハッと我に返ったようになった。「東京学芸大学というところで教えていて、ハワイには研究のために年に何回か来ているんです。」

そこまで話すと、彼女たちは「学芸大学の教授!?」と叫んで、直立不動になってしまった。そして頭を下げた。それを見ていたMさんLさん、そしてFさんらは大爆笑となった。日本人が直立不動になったのを見て爆笑する日系人の感覚は知っている。でも私はそうした直立不動は大嫌いなのである。大学教授が別に偉いわけではない。

ステレオタイプを恐れずに言えば、日本人は自らの人間関係において、相手の年齢や職業(what)がはっきりしないと落ち着かない。心の距離感や口のきき方を決める重要な要素でもあるからである。

「移民は文化の運び手」とよくいわれる。ハワイの日系人は6世が生まれつつある現代にあっても、程度の差こそあれ、日本の文化を丁寧に保っている。しかし相手の職業が何であるかについては、友人関係においてほとんど重要ではない。親しい仲間が何をやっている人間か知らないこともよくある。身分(what)よりも、どのような人間であるか(who)を重んじて付き合っているのである。

身分による分け隔てがない。MさんLさんはその典型だ。それが初対面の人間にとっては楽であるし、私のように日本から来て長期にわたって深く付き合っていこうとする時にも、そのことが後押ししてくれる。ただ”who”についての評価が厳しいことは言うまでもない。

実際、Mさんの人物評価には定評がある。Lさんもよくそう言っている。そのため友人や教え子たちを初めて連れて行くときにも、私は人間を選んでいる。好き嫌いが基準ではない。日本語を少ししか理解しないMさんに、自ら英語で話そうとするかどうかである。英語ができない場合は、私やLさんに通訳を頼んででもMさんに語りかけようとするかである。それが大丈夫なら、ガレージパーティなど我々の仲間が集まる場でも自分で楽しく過ごすことができる。

最近同じようなことをMさんも言っていた。「俺がパーティに呼ぶのは、その場で周りを楽しませる人間だけだ。別に弾いたり歌ったりしなくていい。周りと楽しく過ごすことができるかだ。俺の料理を食べながらな。一人でポツンと食べているのを見るのが一番辛いんだ」と。

ハワイの日系人は、人間関係においてはアメリカンなのである。

 

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第10回 ハワイ日系人の「ウチ」と「ソト」

前回はホノルルのラジオ局KZOOを詳しく取り上げた。中学1年生の頃にその存在を知り、30歳の夏から現在まで毎年数回欠かさずハワイに通うなかで、現地での運転中は必ず聴くことにしているラジオ局である。住んでいたときは、日本についての日々の情報源でもあった。

今回は引き続き、少し見えてきたハワイ日系人のアイデンティティについて考えてみたい。結論は出ない。あれこれ考えるだけである。ただ、ハワイの日系人なのだから日本人のアイデンティティと重なるところが大きいのではないか、という日本人の希望的観測を前提としないでおこう。

日本語のわかる日系二世たちには人気のあるKZOOであるが、非日本語話者にはその存在があまり知られていない。三世のMさんは当然知らなかったし、日本語をかなり操ることのできるLさんも聴いたことがないそうだ。私と同世代の四世の小学校の先生には、「毎年オキナワン・フェスティバルで生中継をしている局」くらいの認識しかなかった。

三世より若い世代の日系人たちも、それまでの世代と同じように玄関では履物を脱ぎ、米を炊き、箸を使って食事をしている。盆暮れには家族で集まり、クリスマスも正月も祝う。われわれ日本人よりも家族の結びつきは強い。そのような今を生きている日系人とはどのような人たちなのだろうか。

第2回「オシャレをしてもお洒落ではない?」の冒頭に、「ハワイの日系人は多様だぞ。『ハワイの日系人は』とひとくくりにはできないよ」とMさんに忠告を受けたことを紹介した。私はMさんが勤務していた小学校に20年以上通い続けている。

ある日Language Artsの授業で、自分は何人(なにじん)かと問われた30人ほどの子どもたちが、全員「ハワイ人!」と答えた光景に出くわしたことがある。迷うことなく皆大声で叫んでいた。3、4年生のクラスでも5、6年生のクラスでも同じだった。そして、それに続けて「僕はデンマーク系らしい」「メキシコ系」「日系」「パパはドイツ系だけどママは日本人」「オキナワン(沖縄系)」「ロシアと中国」などのように、自分の民族性をきちんと説明するのである。自分たちはまず「ハワイ人」という土台があって、そこから先がそれぞれ違っているのだそうだ。「ハワイ人」+「エスニック・アイデンティティ」ということになるらしい。

これはまさに「第5回 失われつつあるのかもしれない日本的価値観 ― 変わりゆくハワイの文化 ―」で紹介した「シチュー」論なのではないか。ハワイは「メルティング・ポット」でもなく「サラダボウル」でもない。やはり「シチュー」なのである。「ジャガイモや人参、玉ねぎやブロッコリー、セロリといったシチューの具がハワイに住む民族であり、それぞれの角は取れて丸くなり、シチューのスープに溶け出している。スープはハワイの「ローカル」文化であって、自らの身体にまとわり付き、互いに共有している」そういう社会なのだ。

ハワイの日系人は、自らのエスニシティを他の民族との区別の道具というか、境界を意識するものとして使っているようには私には感じられないのである。来週からハワイにこのエッセイの材料を探しに行くのだが(今、その機内で推敲している)、20年以上ハワイに通いつめてなお、ハワイの日系人は「ウチ」と「ソト」をどのように使い分けているのか、という疑問をもつことがある。

人間は分類の指標を得たとき、無意識のうちに「そうであるもの」と「そうでないもの」を区別してしまうと、社会心理学ではよく言われている。「北米」と言われて、カナダとアメリカを頭に描くだけではなく、日本やイギリス、オーストラリアは北米ではないと、ほぼ同時に考えているのだそうだ。「四国」と言われた時も同じである。四国四県をイメージするだけでなく、大分や山口、広島、岡山などもすぐに浮かぶ。私は愛媛の松山市出身なのでそうなるが、徳島出身の人なら兵庫、大阪、和歌山あたりを思い浮かべるのかもしれない。

これまで私は、様々な民族のハワイの仲間たちが日本文化に興味関心を持ってくれていることに、面白さと喜びを感じてきた。今でもそうである。それは私自身の中に、日本とそれ以外、日本文化とそれ以外といったカテゴリや境界線が無意識のうちに存在しているということである。あなたたちとは違う私たち、のように。その感覚はどうやっても拭い去れない。

これに対してハワイの日系人の友人たちは、ごく自然に異なる民族文化(「異なる」とは境界線を前提とした表現だが)を受け入れているように思える。「受け入れる」というよりも「ハワイ人」として、多様な文化を自分のものにしているのかもしれない。カテゴリや境界が存在していないか、あったとしても緩やかなものであり、「ウチ」と「ソト」というより「みんなウチ」という意識でいるような様子である。なぜそうなのか。これを書くまでにも長く考えてきたが、“Ohana”というハワイ語に何か手がかりがありそうだ。“Ohana”とは、日本語のウィキペディアによれば「ハワイ語で、広義の『家族』に相当する概念。ただし、オハナは、血縁関係がない者も含んだ意味での『家族』を意味するという点や、世代を超えて永々と続くという捉え方が強調される点に特徴があり、英語のfamilyなどと単純に同一視すべきではない概念であるとされる」と説明されている。

午前中に小学校に行った後、午後はMさんLさんと約束があった。ランチをどうしようか、街で食べてから向かうか、と考えた。MさんLさんに甘えて、あのガレージで何か食べながらお喋りするのも楽しい。迷いながら電話して、「何か買って行こうか?」と言うと、「バカ言うんじゃない!すぐ来なさい!」という返事だった。ワクワクしながら行ってみると、Lさんの兄さんも来ていて、一緒に素麺を食べる準備ができていた。「そういう時は、『何か食べるものある?』と言いなさい。Ohanaなんだから。」そういうことらしい。

MさんLさんを二度、松山に招いている。築103年の実家に一度、3年ほど前に新築した新しい実家に一度である。今年の春には、京都で開かれた妹たちのピアノコンサートにも二人は来てくれた。二人を我々のOhanaのメンバーとして迎えたような雰囲気になった。すると母は、私がハワイでMさんLさんに世話になることについて、何も言わなくなった。以前は「迷惑をかけないように」とうるさかったのに。母もOhanaの感覚を身につけたのだとしたら、これからが面白くなりそうだ。


さて、時代が進んでいくと「シチュー」はメルティング・ポットになるのだろうか。ハワイの多様な民族は、相互に文化の受容が進むと皆「ハワイ人」になっていくのだろうか。今はその過渡期なのだろうか。

異人種・異民族間結婚による混血と、文化の受容・混淆とを一緒にして考えてはいけないのかもしれない。だが長らく学問的には、たとえばブラジルのような混血が進んでいる社会では、このまま時代が下ると「皆違う」存在となって、したがって差別も意味をなさなくなりパラダイスが訪れると考えられてきた。

この考え方にダウトをかけたのが私の友人の森仁志さんであり、著書『境界の民族誌 ― 多民族社会ハワイにおけるジャパニーズのエスニシティ』で、単純にはパラダイスにはならないことが証明されている。混血の人間は、自らの複数の民族性を時と場合に応じて使い分けることがわかったのである。

ということは、シチューの具が完全に溶けてしまい、スープだけになるということにはならない。冒頭に紹介した子どもたちが、「ハワイ人」でしかなくなる日は来そうにないということである。

この10回目のエッセイを書いている最中に、学会から投稿論文の審査を依頼された。全く偶然で驚いたが、アメリカ本土の日系四世の文化的アイデンティティについてのものだった。執筆者には是非この分野を開拓していってほしいと心から願っている。審査意見にもそのように書いておいた。

 

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第9回 爽やかで心地よい「ズケズケ」:ハワイ日系人の相互扶助

1976年,小学5年の冬だったと思う。キクチ君の家にラジカセがあって,付属のトランシーバーを使うと田んぼの向こうからでも声が明瞭に聞こえてきた。トランシーバーはラジカセのボディに収納されるのだ。家にあったおもちゃのトランシーバーとはカッコよさが段違いだった。フジモト君の家に遊びに行くと,ベッドの枕元にSONYのICF-5800という高性能ラジオが置いてあった。兄さんからのお下がりだと言っていたが,ロッドアンテナが飛び出し,ツマミやダイヤルがいくつも付いていて,周波数帯を切り替えて外国の放送も聞くことができると楽しそうに話していた。

われわれは,キクチ君,フジモト君,これにタナカ君の加わった4人で自転車を走らせて電器屋に行き,片っ端からラジオのカタログを集めてきた。1970年代半ば過ぎのこの頃は,ほとんどの家電メーカーから海外放送受信用の高性能ラジオが続々と発売になり,BCL (Broadcasting Listening) ブームと呼ばれる時代になっていた。

タナカ君はSONYのCF-5950という,カセットデッキを装備した高性能ラジオを買って驚かせたが,中学受験を控えていた私は,かろうじて短波放送が受信できるラジカセしか買うことを許されなかった。タナカ君のラジオは例外だが,カセットデッキのない単体のラジオのほうが,ラジカセのラジオよりも高性能であることは言うまでもない。とはいえ,大量のカタログの中から選び抜いて買ったラジカセは,私に「海外」や「外国」を強く意識させてくれた。

何とか私立中学校に進学することになり,私はますます海外放送にのめり込んでいった。一年生の夏休みに東京の秋葉原に出てきて,SONYのICF-6700という短波ラジオを買って帰った。学校ではこの趣味のために,新たに文化部を立ち上げたりもした。庭木に数百メートルのアンテナ線をくくり付け,世界中の放送局からの電波をキャッチすることに熱を上げていた。残念ながらハワイの放送局の電波はどれも微弱で,四国の田舎で番組を楽しむことにはならなかったが,毎日熱心に聞いていた国内の放送局の日本短波放送(後のラジオたんぱ,現在のラジオNIKKEI)がハワイの日本語放送局を生中継することになった。それが今回取り上げる放送局のKZOOである。

世界中の放送局には例外なくアルファベット4文字のコールサインが割り当てられており,アメリカの放送局のそれはKかWで始まることになっている。KZOOはハワイではK-ZOO(ケイ・ズー)の愛称で呼ばれている。

多民族社会のハワイには,さまざまな民族の言語の放送局がある。それぞれの民族にとって,第一言語や家庭の言語,祖先の言語で番組を楽しんだり情報を得たりすることができるということである。自己のエスニシティやアイデンティティを感じたり確認したりすることにもつながっている。

日系人はアメリカで生活する民族集団の中でも,混血が最も進んでいる民族の一つであり,日系社会は多様化している。ハワイにおいても日系人同士の結婚の割合は減っていると言われている。世代や血の濃さはどうあれ,日系人たちの日本文化への興味関心は大変強く,日本語のテレビ局やラジオ局の番組はよく視聴されている。

2017年現在,ハワイには日本語のテレビ局が1局,ラジオ局が1局ある。テレビ局のKIKU-TVは「菊テレビ」とも読めて,日本を意識させる覚えやすいコールサインである。どの番組にも英語の字幕が付けられ,NHKの大河ドラマはほぼ同時期に放映されているし,日本の民間放送の人気ドラマもやっている。かつてはTBS系のニュース番組「サンデーモーニング」が一週間遅れで中継されていて,私が長期に住んでいたときも日本での出来事を知ることができた。今,日本で番組のオープニングのメロディを聴くと,ハワイの朝のあの湿った冷涼な空気を思い出させてくれる。

高校や大学の頃に私の一番好きだった番組のTBS系「そこが知りたい」は,今でも繰り返し連日放映されていて毎回の滞在時の楽しみである。「そこが知りたい」は1980年代から90年代に制作された番組なので,内容は今の日本とはかなり異なっているが,日系人の友人に会えばたいていこの番組の話題になり,いろいろと質問が飛んでくる。いちいち訂正して,現在のことを説明するのが大変なほどなのである。MさんLさん宅で夕飯をごちそうになる時,よく3人でこの番組を観ながら盛り上がるのがとても楽しい。

一方ラジオ局は,古くは1959年開局のKOHOが名を知られていたが1999年に閉局している。2001年から2002年にかけて滞在した時に,調査の苦しさを癒やしてくれたKJPNも2007年に閉局し,2008年に文科省によってハワイに派遣された時には大変寂しい思いをした。現在は1963年から放送を続けているKZOOが唯一の日本語ラジオ局となっている。

今回はこのKZOOを取り上げて,ハワイ日系人の姿について考えてみたい。

KZOOのラジオ局としての背景については,調べればすぐに出てくるのでここでは省略することにしよう。今やハワイでただ1局となってしまった日本語ラジオ放送局として,日々リスナーを楽しませてくれている。TBSラジオの生島ヒロシや森本毅郎らによる早朝から午前の番組も中継しており,日本の今がすぐにわかって便利である。

だが,この放送局を代表する番組は,何といっても「電話応答」であろう。平日の毎日午前10時からと午後3時半からの2回,それぞれ30分間のリスナー参加番組である。何に「応答」するのかというと,リスナーの疑問質問興味関心困りごと,そういったもの一切に対してである。

たとえば,「マンゴーが採れすぎて困っているところに,またマンゴーをもらってしまったがどうしたらよいか」「排水管の詰まりを早く修理してくれる,日本語OKの業者は」という日常のことや,「今1ドルが何円になるか」「日本に行った時,成田空港から東京駅まではどう行ったらよいか」「機内持ち込みのスーツケースのサイズは」という旅行に関するもの,「顔のシミや吹き出物を治してくれる医者は」「◯◯医師の腕や評判はどうか」という美容や病気治療に関するもの等々,ありとあらゆることを電話で質問することが許されている。「漬物の漬けかた」など,ちょっと調べればいいことでもリスナーたちは気軽に電話をかけてくる。

それらに対するリスナーからの回答が,これまたすごい。簡単な疑問にはすぐに返答がくる。ほぼその場で解決する。回答や説明が長くなりそうな場合,人によっては「うちに電話しなさい」と電話番号を教えてくれたりする。個人の電話番号がラジオで公開されるのである。「うちに来なさい。住所は・・・」と自宅に招く人までいる。個人の住所もラジオで公開するのである。解決した時,また電話をかけてきて番組内でお礼を言う人も少なくない。解決したのに,またその解決策を自分なりに説明しようとして,アナウンサーに丁重に断られる人までいる。

勤務先の同僚や学生たちと現地で合流して車で外出するとき,この番組を聴かせている。すると例外なく大爆笑になる。目的地に着いても,番組が終わるまで皆車を降りようとしない。「そんなことを普通ラジオで訊くか?」「あまりにも親切に答えるのが面白い!」「ズケズケとこっちに踏み込まれるような感じがするのに嫌じゃない」「みんな一生懸命で微笑ましい」「世間話だけのために電話してくるオジイちゃんが可愛い!」「質問が来なくて困っているアナウンサーのために,時間つぶしの電話をくれるオバアちゃんの気遣いにびっくりした」などと,感動すらしているのである。

この「電話応答」の番組にみられる相互扶助,助け合いの精神は,第6回の「『精一杯やる』とはどういうことか ― 日本文化とハワイの日系文化」で論じたことに通じるものがありそうだ。私の学生が言っているように,ここでの助け合いは不快感のない「ズケズケ」であって,むしろ気持ちがよい。この連載で書いてきたように,私はハワイの日系人の友人たちから感謝し尽くせないほどの親切や思いやりをもらっている。だが,そうした親切をその時の事情から,やむなく遠慮することもある。わけを話せば,友人たちは親切を押しつけてくることがない。とてもあっさりしていて,日本人の感覚とは多少異なっている。アメリカ的といえばアメリカ的だが,それはプランテーション時代の日系移民たちの助け合いや生活の知恵に遡る,というのは深読みし過ぎだろうか。

日本を出て異国の灼熱の太陽の下で長時間の労働に耐え抜き,子を育て子孫を増やすためには,個人個人の頑張りだけでは限界がある。「ズケズケ」付き合わないと集団として強くなれない。一方で,互いに世話をし世話になりながらも,異民族との付き合いも日常の一部であり,巧みに距離感を保つことも必要となっただろう。反対に,民族の境を越えて「ズケズケ」付き合うことも必要になる。このような多文化多民族的な環境と,そこで生き抜くためのバランス感覚がハワイ日系人の爽やかな「ズケズケ」を育ててきたのではないだろうか。

私はいつも「ズケズケ」の心地よさにひたっている。

 

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第8回(後編) 日系人に教わった、学校で教わらなかった基礎英語

前編を読む >>

それではLさんに直してもらった英語表現について、エピソードを交えながら紹介することにしよう。単純な間違いの修正や、文法の間違いなどは取り上げても面白くないし、手前味噌だが文法については私はほぼ基礎を身につけていて、あまり間違えることがないように思う。そこで、直されて初めて知ったり、意味を知って驚いたりしたものに絞ってみたい。それらは学校英語ではおそらく習ってないはずのものである。記憶に不安はあるけれど。


meetとsee

2001年から2002年にかけてハワイに住んでいた。2002年3月に帰国して、すぐに6月の小学校の卒業式に出席するためにハワイに行った時のことである。私は2ヶ月ほど前に別れた友人たちに再会し、“Nice meeting you (again)!” と言いながらハグをした。(英会話に長けている人は、もうそのおかしさに気づくだろう。)その時、友人たちが私から微かに距離を置いた感じがした。彼らはMさんLさんのバンドのメンバーであり、ガレージパーティにもよく来る友人たちだった。ニコニコして私たちの再会を喜んでくれていたLさんが、すかさず「アレ?ハジメテ?」と日本語で私に尋ねた。友人たちもその日が初対面だったかと一瞬疑問に思ったのだ。それはなぜか。

“meet”は初対面の挨拶に用いられ、2回目以降は “Nice seeing you” や “Nice to see you” を使うことになっているのである。だが、学校英語では習った記憶が全くない。何ということだろう。人間関係を育む一番最初の挨拶ではないか。私は既にいろいろな場所で繰り返し間違いを犯してきたことになる。学校英語に加えて英会話を習った日本人には常識なのだろうが、私にはその経験がない。大切な友人知人に再会するたびに「初めまして」と言って「アレ?ハジメテ?」と思わせていたかもしれないのだ。


mayとcan

学校英語では、“May I ~?” はイギリス英語、“Can I ~?” はアメリカ英語だと教わり、すっかり信じ込んでいた。ハワイでもこのフレーズは多用する。フィールドワークはある種「物乞い」でもあるので、日に何度使うだろうか。少し丁寧に “May I ~?” と言ってみたり、気軽に”Can I ~?”と言ってみたりしていたが、Lさんにその違いを訊ねてみた。これはごく最近、2014年頃のことである。すると予想もしない説明が返ってきた。

「そうねえ、ハッキリ違うわね。それは話者の意思。“May I ~?” を使う時はNoという返事を想定していません。Yesだけを期待して訊ねる時に使うわね。“May I ~?” と訊かれた側もそれは了解しています。“Can I ~?” の場合は、返事にはYesもNoもある。」とのことだった。これも学校英語では習っていない。

このことを知らないで私はフィールドワークを続けてきたのである。Mayを多用していれば、相手にこちらのはっきりした意思が伝わって、もっとスムーズにフィールドに入り込めたかもしれないのに。そしてまた、“I want to ~” とか、少し柔らかく “I’d like to ~” のようなこちらの主体的な意思の表明ではなくて、“May I ~ ?” という疑問文だったら、相手に決めさせる形をとりつつも自分の意思を明確に伝えることによって、フィールドでの居心地ももう少し早く良くなったかもしれないのに。

ハワイに20年以上通っていると、さすがに日常会話も少しずつうまくなってきた実感はある。それとともに自分の英語の訛りを自覚することも多くなってきた。英語を習い始めたのは中学校からだから、単語の日本語訛りはどうしようもない。ネイティブの発音が身につくかどうかの「10歳から11歳の壁」というのがあるらしいし、私の1本目の修士論文の調査でも、小学校5年生以降に渡米・渡英した子どもたちは、揃って英語で苦労をしていた。だから私が発音で訛るのは仕方がない。

いつの間にか疑問文の文末を上げなくなっているし、三単現(三人称単数現在形)のSを省略しても平気になってしまっていた。Mさんのように “He do ~” や “She don’t ~” と言ったり、「二重否定」を「否定の強調」として使ったりすることはないが、アメリカ本土で仕事をする時に「ハワイから来たのか?」とか「本土以外のどこかに住んでいたでしょう?」と言われることがたまにある。なぜだかLさんは、イントネーションと三単現のSについては直してくれていない。

私が通っている小学校のすぐそばに古い古い食堂がある。ガラス張りの外観は時代とともに「すりガラス」になっていて中がよく見えないので、日本人旅行者はまず入ってこない。その店で、MさんとLさんと三人でランチをとっていた時のことである。Mさんの幼なじみが店に入ってきた。するとMさんは、それまで三人で英語でお喋りをしていたのをやめ、その人とピジン英語で話し始めた。Lさんは、「ほらごらんなさい。Mはピジンにスイッチしたでしょ。わかる?」と言った。別の言葉に変えたな、とは思っていたが、二人が喋るピジン英語はさっぱり聞き取れなかった。今でもピジン英語を聞き取る力はさっぱり身についていない。

ハワイの日系社会に入り込むには英語ができることが必須である。あたりまえのように思えるが、中でも表現する力がとくに大切だと感じる。人に紹介される時は、“He understands English.” ではなく “He speaks English.” と例外なく言われる。コミュニケーションの意思を見せることが大事だということだろう。

2001年に出会ったMさんは2005年頃までは不機嫌そうに見えた。大変親切なのにぶっきら棒な感じがした。それが2006年にはよく笑うようになった。Lさんとともに三人で出かけることがほとんどだったのが、Mさんと私で食べたり遊んだりすることが増えていったのだ。ガレージでビールを飲み、ハワイの生活の様々なことやハワイアン・ミュージック、物の見方や考え方、判断のつけ方に至るまでのあらゆることを、今でも噛んで含めるような語りで教わっている。

なぜMさんは笑うようになったのか。思い返してみると、私はその頃Mさんのハワイ訛りが突然聞き取れるようになった。そのためMさんに私が聞いてわかっているということが伝わり、Mさんは安心して私に喋ることができるようになったのだろう。Mさんは本当はよく笑う人だったのだ。

日系三世のMさんは四世たちの口数が少なく、何を考えているのかわからないと嘆いている。日系人は我々日本人とルーツを同じくするが、「以心伝心」という言葉のように、物言わずとも分かり合えるといった考え方は持っていない。ハワイの日系社会はコミュニカティブ、すなわちコミュニケーション豊かな社会なのである。そういえば、ガレージパーティではいつも誰かが喋っている。

 

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