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Sachio Negawa


Sachio Negawa is an assistant professor in the departments of Translations and Foreign Languages at the University of Brasília. An expert on Immigration History and Cultural Comparative Studies, he has lived in Brazil since 1996. He has fully dedicated himself to the study of learning institutions in Japanese and other Asian communities.

Last Updated March 2007


Stories from This Author

Japanese education across the ocean
第6回 女子教育(2)

Aug. 6, 2009 • Sachio Negawa

前回は、戦前のブラジルにおける日系女子教育の開花について述べた(本連載第5回参照)。こうした女子教育機関の教育内容として特筆されるのは、知識・教養の教授とともに、日系女子としてのしつけ、礼儀作法の教育が重視された点であろう(写真6-1)。日伯実科女学校の創立者郷原ますえもサンパウロ女学院創立者の赤間みちへも、ブラジルで発行されたいくつかの著書があり、礼儀作法についてそれぞれ健筆をふるっている。 たとえば、筆者の手元にある郷原の著書『生活の知恵―礼法―』は、1959年に日伯…

Japanese education across the ocean
第5回 女子教育(1)

May 7, 2009 • Sachio Negawa

戦前から戦後にかけて、ブラジルの日系コミュニティには、「花嫁学校」と呼ばれる女子教育機関が存在した。それらは、移民の子女に裁縫や料理などの 技能を教授し、日本人女性らしい良妻賢母型のしつけを施す学校施設であったが、後には日本の女学校課程に準ずる高等女学部やポルトガル語部を併設し、総合 学園的な教育機関として発展したものもあった。 中でも、日伯実科女学校、サンパウロ女学院、サンタセシリア割烹学校の三つは、「三大花嫁学校」と呼ばれ、日系コミュニティ内では抜きん出たステー タスを…

Japanese education across the ocean
第4回 小林美登利と聖州義塾

Feb. 5, 2009 • Sachio Negawa

吉田松陰の松下村塾、福沢諭吉の慶応義塾、弘前の東奥義塾などの例を引くまでもなく、日本の歴史は連綿たる私塾教育の伝統を持っている。大阪大学医 学部の前身が緒方洪庵の適塾ということを考えると、官立学校もまた私塾の伝統の上に創られてきたことは否定できない。彼らこそ、日本的教育文化の一つの源 と言ってよいであろう。実際、ほぼすべてのブラジル日系教育機関も小規模な私立学校、すなわち私塾として出発した。 前回述べたように、「コロニア一の学校」として教師や設備の質を誇った大正小学校でさえ…

Japanese education across the ocean
第3回 大正小学校(2)

Jan. 1, 2009 • Sachio Negawa

「大正小学校(1)」を読む>> 大正小学校をはじめ、戦前のブラジル日系教育機関の最盛期は1930年代である。コンデの坂下からサン・ジョアキン通りに移転した大正小学校は、次第に学校としての機能を充実させていった。 信濃海外協会(1922年創立)は1928年頃から長野師範学校卒業生をブラジルに留学させていた(二木, 1996, p.142)が、1933~34年には、柳沢秋雄、坂田忠夫、二木秀人の3人が現地の師範学校留学を命じられた。これは、ブラジル正規教員の資格を取ら せ、…

Japanese education across the ocean
第2回 大正小学校 (1)

Dec. 5, 2008 • Sachio Negawa

坂の多いサンパウロの中心部に、ブラジルの日本人にとって特別な坂がある。 「おいジャポネース(日本人)、気をつけなよ。この辺りはドロボーばっかりだよ」   汗をふきふきその急坂を上り下りしていると、中年の男が声をかけて通り過ぎていった。昼間でもこの辺りは物騒である。「こんなところで日本人がウロウロしていると危ないよ」と、親切で言ってくれているのはわかるが、私はよっぽどその男の背中に、声をかけ返そうかと思った。 「この辺りは昔ジャポネース(日本人)…

Japanese education across the ocean
第1回 はじめに

Sept. 18, 2008 • Sachio Negawa

私たち人間の生活において、教育はもっとも基本的な営みの一つである。教育する/教育されるという行為は、衣食住とともに、人間生活に深く結びつい ていると言える。それゆえ、地域や集団によって、ことばや文化を異にするように、教育にもまたさまざまな様式・地域性が生み出されてきた。 教育が人間生活の基本的な営みであるかぎり、教育は人間の移動とともに旅をする。グローバル化とローカル化が同時進行する世界において、人間の活動 は一国・一地域で完結するのではなく、さまざまな国や地域をまたぐ越境…

The Japantown in Brazil
第15回 (最終回) — 日本人街の現在と明日

July 24, 2008 • Sachio Negawa

サンパウロに行けば、「日本」に会える。サンパウロから約1000キロも離れた内陸ブラジリアの若者たちには、そんな共通認識がある。その「サンパウロ」は、ばくぜんと東洋街を指しているようだ。 今年2008年5月22、23日に行われた日本人カブキ・ロック・アーチスト雅(Miyabi)のコンサートには、筆者の教え子たちもブラジリアか ら駆けつけた。会場は東洋街エリアの中心の一つ、日本文化協会の大講堂だったが、チケットは1200席全席が二週間前に完売したという。文化協会前では、 コン…

The Japantown in Brazil
第14回 華人系・韓国系の東洋街進出

June 19, 2008 • Sachio Negawa

最近、サンパウロ東洋街でよく耳にするのは、「ここが日本人街だったのは昔の話。今は中国人や韓国人ばっかりになってしまった」という日系人の嘆きであ る。繁体字や簡体字の看板だけ見て歩いても、華人系商店の進出のいちじるしさがわかる(写真14-1)。実際、ブラジル日本文化協会の古びたビルの、交差 点をはさんで斜め向いに2005年に建設されたブラジル客家活動中心(地上4階・地下3階)のモダンな姿は、東洋街における華人系プレゼンスの増大を視覚 的にも象徴している観がある(写真14-2)…

The Japantown in Brazil
第13回 カンタレーラ街-消えた日本人街-

April 24, 2008 • Sachio Negawa

以前にも述べたように、サンパウロには、「日本人街」と呼ばれたいくつかのエリアがあった(本連載第5回ピニェイロス地区参 照)。戦前から戦中にかけては、「コンデ界隈」と呼ばれたエリアがもっとも規模が大きく、ついでピニェイロス地区、その次が市立中央市場(Mercado Municipal=メルカード・ムニシパル)の周辺で、通りの名を取って「カンタレーラ街」と呼ばれていた(地図5-1参照)。 カンタレーラ街には、かつてコチア産業組合など日系産業組合や個別の仲買商の販売所、各種…

The Japantown in Brazil
第12回 東洋街形成と一世リーダーたち(2) -水本毅-

March 27, 2008 • Sachio Negawa

「東洋街、東洋祭り、東洋市、鳥居の建立も、すずらん灯も、すべてミズモトの頭から出たんだよ…」 1973年から75年までサンパウロ市長を勤め、水本毅とともに東洋街を旗揚げしたミゲル・コラスオーノ元サンパウロ市長はそう語る。「新しいアイ デアがあると、黙っていられないらしくて夜遅くでも電話をかけてきた。おいミゲル、聴いてくれって…。そんな仲だったよ。ポルトガル語もずいぶん上手に話したよ」 東洋街のもう一人のパイオニア水本毅は、写真から見ると、…

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