Yukikazu Nagashima

Born in Chiba City and graduated from Waseda University. In 1979, he moved the U.S. He worked at California Daily Newspaper and joined the Japanese editorial team at The Rafu Shimpo in 1984. In 1991, he became Editor of the Japanese department. He left the company in August, 2007. In September of the same year, he received an award by the Consulate-General of Japan in Los Angeles. He has published a series of articles titled “Profile of Nikkei Contemporary History” in TV Fan introducing the Japanese and nikkei in America. Currently he works as an editor of “J-Town Guide Little Tokyo,” a community magazine in English which introduces Little Tokyo.

Updated August 2014

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日系アルゼンチン人の会 -ゲートボールで活気・世界的な視野で活動展開-

南カリフォルニアで活動を展開している南米の日系人らの組織として、ペルーの他に、アルゼンチンの日系人らのグループがある。母の日や父の日、あるいは米国の独立記念日などにアルゼンチン版のバーベキュー(BBQ)である「アサド」をしたり、北米沖縄県人会の運動会の国別対抗競技に出場するなどして、親睦を深めるとともに、仕事の面で助け合ってきた。アルゼンチンは「ガウチョ(牧場労働者)」で知られる国で肉料理には定評があるだけに、「アサド」にはいつも大勢集まったものだった。

しかし近年、メンバーの高齢化や居住地区の拡散化で集まる人の数は次第に減少。そんな時、一部の会員からゲートボールが紹介され、それが人気を集めて、会としての勢いを盛り返した。と言うより、アルゼンチンの日系人がメンバーの大半を占めるゲートボールの会として新たに出発したと言った方がいい。だが、そのゲートボールの会にしても、ここ数年は参加人数が少なくなってきている。現在もメンバーらが協力して「アサド」を催しているが、ペルーの日系人のグループ同様、メンバーの確保と新メンバーの加入促進が今後のカギと言えそうだ。

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8割が沖縄出身かその子孫

南米諸国からの日系人の近年の米国移住は、基本的に居住国の経済的な状況が原因となってきた。アルゼンチンの場合はもう一つ、戦争という大きな要因があった。英国を相手に戦った1982年のフォークランド紛争(アルゼンチンではマルビナス紛争と呼ばれる)である。アルゼンチンの軍事政権が内政の行き詰まりから国民の不満を逸らすために開戦したとされているが、そうした状況下、80年から85年にかけて、日本への「出稼ぎ」を含め、多くの日系アルゼンチン人が国外に流出した。

アルゼンチンの日系人口は約3万5000人とされる。定住した日本人移民の第一号は1886年のこととされており、それから日本人のアルゼンチン移住が始まるが、ブラジルのような集団労働契約に基づく移民ではなく、ブラジルやボリビアなど隣国からの転住や呼び寄せが大半だったという。

第二次大戦ではアルゼンチンが日本に対して宣戦布告したためにアルゼンチンの日系人らの財産が凍結されたり、日本語学校が閉鎖されるなどしたが、戦後に移住が再開される一方、日系の二世や三世の多くが高度教育を必要とする職業に就くようになっている。

そうした日系人口の約8割が沖縄出身者かその子孫。そのため、米国に移住した日系アルゼンチンの中には沖縄系が多い。

「AJA」から「デイゴ」へ

南カリフォルニアに来た日系アルゼンチン人には、サンゲーブルバレー方面に居を構える人が少なくなかった。ウエストコビナ、グレンドーラ、ダイヤモンドバー、ウィティア、ウォルナット、ハシエンダハイツなどだ。そうした人たちが休日や祭日に集まって、アルゼンチン独特の「アサド」を一緒に楽しむ。そんな中から1990年に誕生したのが「AJA(アメリカン・ジャパニーズ・アルゼンティニアン)」というグループだった。ただ、特に役員などは置かず、何かある時に声を掛け合って集まるという、緩やかな会だった。それでも、その中心的な存在として、率先して会をリードしてきた人がいる。ウォルナットに住むタイラ・シゲルさんである。

タイラさんは1952年、アルゼンチンのブエノスアイレス州ブルサコ出身の沖縄系二世。フォークランド紛争があった82年、日本へ行き、神奈川県の平塚で働いていたが、翌83年、東京でペルーの首都リマ出身のエミリアさんと会い、結婚。いったんアルゼンチンに戻ってから88年に米国に来た。アルゼンチンで造園の仕事をしていたことで、米国でも造園業と庭園業で忙しくしてきたが、その間に、後から来たアルゼンチンの日系人らに仕事を教える労もいとわなかった。

南加では当時、ペルーの日系人らで組織する「ペルー二世協会(PNA)」がまだ広く活動を展開しており、同じスペイン語を話すということ、そして、個人的にも妻のエミリアさんがペルー出身ということで、PNAとAJAとで一緒に活動することもあった。

その後、PNA同様、次第に活動に参加する人が減っていったのだが、そんな時、アルゼンチンからゲートボールを持って来ていた人たちが、アサドの集まりの際にゲートボールを紹介。これが人々の関心を引き、大勢の人たちがゲートボールを始めた。そして、その勢いで94年に南加ゲートボール協会に「ガウチョ」の名前で加盟。その後96年に投票で「デイゴ」に改称した。沖縄の県花「梯梧(でいご)」にちなんだ命名だった。この時点で役員を置くようになったという。

世界選手権大会で3位

ゲートボールをアサドの際などに紹介したのは、当山勝正さんと山城吉清さんだった。

当山さんは沖縄県出身。最初ボリビアに行き、それからアルゼンチンに20年。1991年にアメリカに来た。その後AJAのことを知って、アサドや沖縄県人会の運動会に参加していたが、アルゼンチンにいたときから楽しんでいたゲートボールをみんなにも知ってもらいたいと、紹介したのだった。そして、毎週のように集まって練習するようになった。活動が年に数回というAJAには及びもつかない頻度である。

その後、南加ゲートボール協会が1996年にハワイのゲートボール協会と一緒になってUSAゲートボール連盟を創立、世界ゲートボール連合(本部・東京)の傘下に入ったことから、「デイゴ」にも4年ごとに開催される世界選手権大会出場の可能性が出るなど、活動の視野が一挙に拡大。こうして、ゲートボール熱もどんどん上がっていった。そして、98年にハワイで開かれた第7回世界選手権大会では見事3位となったのだった。

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こうした勢いの中、4、5年前からは新年会も催すようになった。一昨年は開催の知らせが間際になってからだったが、それでも、会場となったウエストコビナにある「イースト・サンゲーブルバレー日系人会館」に40家族が集まった。タイラさんの妻エミリアさんの尽力で、アルゼンチンだけでなく、ペルーの二世も参加した。

しかし、他の多くの日系団体と同様、「デイゴ」にもメンバーの高齢化の波が押し寄せている。発足当時は100人近くがゲートボールに関心を示していたが、実際に毎週プレーをするようになったのはそのうちの40人ほど。それが現在は10数人に減ってしまったという。

高齢化に加え、子どもたちの成長ということもあったようだ。子どもたちが小さいころは家族と一緒にゲートボールに来て、子どもたち同士で遊んでいたものだが、大きくなるといろいろと忙しくなり、学校などで家族の手も掛かるようになって、以前は夫婦でプレーしていた人たちが「出てくるのは亭主だけになった」(当山さん)。

それでも、「今年は7月にアラスカに行き親善ゲームを行い、その後9月には上海で開かれる世界連合の選手権大会に出場する」と、「デイゴ」のメンバーらのゲートボールに対する熱意は、衰えるどころか、ますます強まっているように見受けられる。日曜日にはボイルハイツの敬老引退者ホームの庭と、グレンドーラにある公園とで交互に練習を積み重ねている。「デイゴ」が再び国際的な舞台で花を咲かせるのは間違いなさそうだ。

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俳句の「真実」を生きて-一恵クリストフォロさん-

移民が米国で生きていくとき、祖国から携えてきた文化が大きな心の支えとなることが往々にしてあります。第二次大戦中に強制収容された日本人の中に俳句を始めた人が少なくなかったのですが、それは、強制収容という状況を乗り切るための力を、俳句に求めたためでした。その傾向は戦後もしばらく続きました。

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しかし、日系人の場合は状況が多少異なっていたようです。その多くは戦後、どちらかと言うと、日本文化から身を遠ざけるように生きてきたのです。それは「適性外人」ではないことの証明のためだったと言えるでしょう。そんな中でも勿論、日本文化にかかわり続けた日系人も大勢いました。カリフォルニア州サリナスに住んでいたバイオレット・カズエ・デ・クリストフォロさん(以後、日本名の「一恵さん」とします)も、そうした一人でした。俳句とともに波乱に満ちた人生を生き切ることで、米国政府の「ナショナル・エンドウメント・フォー・ジ・アーツ(米国芸術基金)」から「ナショナル・ヘリテージ・フェローシップ賞」を受賞するという栄誉にも浴したのです。昨年九月に首都ワシントンで開かれた同賞授賞式典に参加。しかし、それからわずか二週間後の10月3日、90歳で死去しました。米国で俳句の金字塔を打ち立て、米国史にくっきりと足跡を残した一恵さん。その生きざまは私たちに、文化とは何なのかという問を突き付け続けます。

1917年、ハワイ州生まれ。両親は広島からの移民でしたが、24年に一家は広島に戻り、一恵さんは十代半ばまでそこで過ごしました。その後、米国の教育を受けさせたいという両親の希望で、カリフォルニア州中部のフレスノへ。高校卒業後に、松田茂さんと結婚しました。茂さんは「碧沙明(へきさめい)」という俳号を持つ自由律俳句「海紅」の米国のグループのメンバーで、一恵さんも夫とともに俳句を作り始めます。

河東碧梧桐と中塚一碧楼によって創設された「海紅」は、米国では1918年にカリフォルニア州ストックトンで組織された「デルタ吟社」に端を発します。その後、同州のフレスノにも「バレー吟社」が作られました。

一恵さん夫妻はフレスノで本屋を営んでいました。一恵さんが三人目の子供を身ごもっていた時に戦争勃発。まず厩舎を急改造した臨時の収容所に収容され、二週間後にアーカンソー州ジェロームに作られた強制収容所に送られました。そこでも仲間とともに俳句を作り続けました。

日米開戦で西部沿岸諸州に住んでいた日系人12万人が「敵性外人」として十カ所の強制収容所に収容されたのですが、ジェロームの収容所もその一つでした。一恵さん一家はそこからカリフォルニア州北部のツールレーク収容所へ移されます。米国への忠誠を拒否した夫は、さらに他の収容所に移され、その後、日本に送還。一恵さんも子供たちとともに1946年3月に送還されました。しかし、そこでは、強制収容以上に苛酷な状況が一恵さんを待ち受けていたのです。

「郷里」の広島は原爆で破壊されていました。両親も原爆の犠牲に。その上、夫は別の女性と結婚していました。生きるため、三つの仕事に明け暮れる日々が続きます。しかしその後、日本に駐留していた米兵と再婚して1956年、米国に戻りました。カリフォルニア州モントレーにある出版社で働く一方、日本の「海紅」にも投句を続けました。また、強制収容への保障を米国政府に求める運動に積極的に協力。公聴会で証言したり、収容所跡地を歴史的な教訓として保存するのにも大きく貢献しました。

ナショナル・ヘリテージ・フェローシップ賞は1982年に創設されたものですが、俳句関係者では一恵さんが初の受賞となりました。戦前、戦中、戦後と一貫して俳句にかかわる一方で、収容所時代に作られた俳句のアンソロジーも出すという、俳句を「伴侶」とした生涯が評価されたものです。アンソロジーは米国の「海紅」のメンバーらが強制収容所内で詠んだ作品を紹介するもので、「メイ・スカイ(五月の空)」と題して、ロサンゼルスの出版社から1997年に刊行されました。本文は英語で、それぞれの日本語の俳句には一恵さんによる翻訳を添えました。

授賞式では一恵さん本人が作品をいくつか読み上げる予定になっていましたが、すでに体が弱っていたためかなわず、代わりにノーマン・ミネタ元運輸長官が読み上げたそうです。1993年に地元紙のインタビュ-に答え、「俳句は私の人生をずっと支えてくれた」と語っていた一恵さん。「海紅」には1998年の11月まで投句を続けました。遺族によると、今回の受賞を「人生最高の喜び」と喜んでいたそうです。

一恵さんが残した作品を二つ引いておきます。

三ツ葉の花咲きし日々たしかに生きん (ツールレーク強制収容所で)
逝きし人に咲き続ける朝顔紫の真実 (「海紅」 1998年11月号)

この二つの俳句の間に横たわる50年の歳月に、くっきりと文化の「真実」が流れているのを読み取ることができるような気がしています。

*本稿は『TV Fan』 (2008年4月号)からの転載です。

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ポスト「ペルー二世協会」 - 地域ごとに組織化の試み: 望まれるリーダーの再現-

ロサンゼルス地区に住む日系ペルー人らで組織していたグループ「ペルー二世協会」が1990年代半ばに自然解散状態となってから、すでに15年近く。いまだにそれに代わる新たな組織はできていないが、イベントを通じてグループを作ろうという動きはいくつか進んでいる。(*「ペルー二世協会」の創設から自然解散状態については、『「ペルー二世協会」 - ナカダさんの新たな挑戦: 戦後渡米者らの本国帰還も』 をご参照ください。)

同協会の自然解散の理由の一つが、会員らがどんどん郊外に移り住むようになり、みんなでまとまって活動するのが次第に難しくなっていったことだったが、そうした彼らが移り住んだ地域で、組織作りへ向けた動きが進んでいるのだ。その一つサウスベイ地区では、大晦日の晩に新年会を開くなどしている。担い手になっているのは、少なからず二世協会にかかわった経験を持つ人たちだが、今後ペルー二世協会のような組織になるかどうかはまだ分からない。当面はさまざまな紆余曲折を繰り返していくことになりそうだ。

ペルー二世協会の創立者で、同協会の会長を長年務めたアレックス・ナカダさんは、協会のために実に献身的に活動した。そうした姿を見ていた人の中に、現在トーレンス市でペルー料理と寿司のレストラン「コトッシュ」を営んでいるロシオ・ヤマシロさんや、ナカダさんの妹で、北米沖縄県人会の会員であるテレサ・アゲナさんがいる。トーレンス市を含むサウスベイ地区はこの10年ほど、多くの日系ペルー人が移り住んだ地域の一つ。ペルーの日系人には沖縄系が多く、トーレンス市北のガーデナ市には北米沖縄県人会館もあり、組識化の動きを進めるには地の利を得ていた。

そうした事情を踏まえ、テレサ・アゲナさんと夫のペドロさんが中心となって、北米沖縄県人会館のホールを会場に、2004年に新年会を催した。アゲナさんは同県人会の会員であるため、大晦日に空いていた県人会館のホールを利用することができた。

ただ、すでに引退しているアゲナさん。新年会への参加を呼び掛けた人たちはやはり同年代の中高齢層の人たちが大半で、新年会はダンスなどなく、カラオケを中心としたものだった。それに、夜のパーティーということで高齢者には出にくく、参加者の数は限られていた。

それでも2年ほど続けたが、やはり「できれば若い人にも来てもらって、もっと大きなパーティーにしたい」との希望は持っていた。

ロシオさんは1993年と94年にペルー二世協会が催したイベントに参加。「とても有意義な経験だった」と話す。そのロシオさんが、サウスベイ地区で日系ペルー人の組識化へ向けて具体的な動きを始めたのは、2007年の春のことだった。ロシオさんはペルーの首都リマにある日系の高等学校「ラ・ウニオン」の卒業生で、サウスベイ地区には同校の卒業生がけっこう多く住んでいることから、機会をみて同窓会を開いたり、在学中にソフトボールをしていた人たちと時々一緒にプレーしていたが、ついに本格的なチーム作りを始めようと、トーレンス市のトーナメントに出場することを決めたのだ。いつも「いつか、そのうち」という話だけで終わっていたチーム作りをやっとスタートさせたのだった。

そんな時、テレサさんから声が掛かった。2007年の秋のことである。新年会を手伝ってほしいというのだ。基本的には、以前からの希望である、若い人を集めたいということだった。そうして、2人が中心となってその年の大晦日に開く新年会へ向けて、できるだけ多くの人たちに参加を呼び掛けることになった。ロシオさんはEメールで、テレサさんは電話で案内するというものだ。

こんな時には、ロシオさんがレストランを営んでいることが大いに役に立つ。レストランは人が集まる場である。それに、どこそこの日系ペルー人が今度ガーデナ市に越してきたとか、いろいろな情報も入る。ラ・ウニオウン高校の卒業生やソフトボール・チーム作りで知り合った人たちに加え、レストランに来る日系ペルー人の客から連絡先をもらうなどしているうちに、ロシオさんのEメール・アドレス帳はどんどん膨らんでいった。

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そして、その年の新年会である程度の成果があったことから、翌年もそうした努力を継続。2008年末の新年会に向けては、100人にのぼる人たちにEメールで案内を出すほどとなり、売ったチケットは170枚に上った。テレサさんは夫とともに2008年にペルーに帰還したが、年末に向けてロサンゼルスを訪れ、かつての仲間に電話で新年会への参加を呼び掛けた。連絡した人の中には、ペルー二世協会のメンバーだった人たちも少なくなかった。こうして、その年の新年会は定員の100人を越える人たちで賑わった。

しかし、問題は、このグループがきわめて緩い組織であるということだ。いや、組織とはまだ呼べないものと言ったほうがいい。大勢の日系ペルー人の名前を連ねたリストはできたが、それは「会員」のリストではなく、会の名前はないし、会費もないし、もちろん、会長、副会長、書記、会計、庶務といった組織図もない。

ロシオさんはラ・ウニオン時代、リーダーズ・グループに属し、子供たちの指導にあたっていた経験を持つ。現在は2人の娘を持つ母親として「ロサンゼルスに住んでいても、自分が育ったのと同じような環境で育ってほしい」と願っており、そのための環境作りをしたいというのが、日系ペルー人の組織作りに努めるロシオさんの大きな原動力になっている。それでも、一人でそうした活動を進めるのはなかなか難しい。たとえ催しを開く時に協力を得られても、ほとんどその場だけの協力で終わってしまうことが多い。ロシオさんのジレンマはなかなか解消されない。

「ニュースレターを出して、もっと多くの人たちに活動を知ってもらおうという人もいる。『シングル・ナイトをしたい』という人もいる。しかし、だれが何をするか、というところまで話がなかなか進んでいかない。そうしたイベントを私一人でオーガナイズするのはとても無理。私も自分のレストランを少しでも大きくしていきたいと思っているし、そのためにはビジネスに割く時間が当然増えてくる」

残念ながら、2009年末の2010年新年会は開かれなかった。経済状況が年々厳しくなってきている中、レストランの維持のためにロシオさんは多忙をきわめ、新年会をオーガナイズのために時間が割けなかったし、テレサさんはペルーから戻ってこなかった。新年会がなかったことを批判する人は多いものの、結局、ロシオさんやテレサさんに代わってリーダーシップを取ろうという人が現れなかったことは大きい。ロシオさんは以前から「リーダーが必要」と話していたが、新年会を開催できなかったことで、さらにその必要性を痛感しているところだ。今、ロサンゼルス地区の日系ペルー人社会に、第2のアレックス・ナカダの出現が望まれているということなのかもしれない。

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Los Angeles “Tanabata Matsuri”: Part 3 - Aiming for a New Tradition: “Otakiage” for the Tanabata ornaments

Among the many events held by the Los Angeles Nikkei community in 2009, perhaps one of the most highly anticipated was the Tanabata festival. As part of this year’s Nisei Week Japanese Festival, the 1st Annual Tanabata Matsuri was held as a joint production of three community groups: the Nisei Week Planning Committee, Little Tokyo Public Safety Commission, and the Japanese Prefectural Association of Southern California. With the help of several other organization members and family members, over 250 tanabata ornaments were created to decorate the town, capturing the awe of all who attended the festival. After the festival, many …

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ピアニストの「笑い」 -平田真希子さん-

仕事柄、これまでに多くの方々と話をさせていただく機会に恵まれてきました。文字通り、老若男女、さまざまな職業や経歴、さまざまな人種や国籍、そして、さまざまな性格と、実に多様です。その中で、今回話をすることができたピアニストの平田真希子さんほど話していて楽しい人は、そう多くはいませんでした。とにかく、よく笑うのです。それもとって付けた笑いではなく、ごく自然に、しかも何の屈託もない笑い。私も話をしながら、何度も笑いを誘われました。米国に生きる外国人として、ピアノに自分を託し続けて20年。現在はコルバーン音楽学校で、学費はもち論、生活費の心配もなく音楽の勉強を続けている日々ですが、聞くと、意識して笑うように努めてきたと言います。笑うことで、近視眼的にならず、一定の距離で物事を見ることができるといいます。

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鎌倉近郊生まれ。父親の仕事の関係で、一歳で香港に。そこでピアノを始め、6歳半で日本に帰国。13歳の時、父親の赴任に伴い渡米し、その後、音楽名門校であるジュリアード音学院のプレカレッジに合格、本格的にピアニストとしての道を歩み始めました。16歳の時には、父親が日本の本社に戻ることになったのですが、自身は一人米国に残って音楽の勉強を続け、マンハッタン音楽大学、ニューヨーク大学ピアノ演奏修士課程を経て、2006年にコルバーンに入学、長年住んだニューヨークからロサンゼルスに生活の拠点を移しました。ニューヨークにいた時には七年間フリーランスのピアニストとして、演奏旅行で米国各地や海外を訪れました。

平田さんから話を聞いたのは、ロサンゼルス・ダウンタウンにあるコルバーン音楽学校の練習室。ピアノが一台置いてあり、隣の練習室からはチェロの音がうっすらと漏れてきます。

平田さんは実に滑らかに、どちらかと言うと早口に、アメリカで生きる日本人ピアニストとしての苦労などについて話してくれました。「ピアノがなければ、これほど物事を突き詰めて考える機会や場所がなかった」という平田さん。確かに、その話す内容からは、深い思索のあとがうかがわれます。そもそも、ピアニストでなければ物書きか役者を目指したというほどです。ホームページには「18歳の平田真希子の独立宣言」や「私、過去と現在」をはじめ、突き詰めた心情が赤裸々に綴られている文章も多々あります。そうした文章を読みながら、私は胸を締め付けられるような思いにかられることもありました。

今回そうした、どちらかと言うと深刻な話をしながら、それでも、平田さんの笑いは途切れることがなかったのですが、その笑いがピタッと止まる瞬間がありました。それは、米国で生きる一日本人ピアニストとしてのアイデンティティーについての話をしていた時です。私は、香港、日本、そして米国と、これまで三カ国で生きる中で、自分のアイデンティティーを保つために、音楽がどのような役割を果たしてきたか、聞いてみました。

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平田さんは「国籍という点では、日本人が西洋音楽をしているのだから、ややこしいですよね。でも、個人のアイデンティティーという点では、私がピアニストであるということはもう『宗教』と同じくらい深い意味があります」と言って、アイデンティティーの問題はないことを強調しました。しかし、そのあとすぐ続けて「確かに若い時には、アイデンティティーの揺れといったものがあったと思うんですけれど」と言い淀み、「今だって(ピアノを)辞めるという選択肢はいつもあるわけですよ。明日辞めたっていいんですよ」。それから、いつもの笑い。一際高い笑いでした。

私は「ウソでしょう」と返すしかありませんでした。すると「いや、本当ですよ」。そして、瞬時をおかず「でも…」。ここで言葉が途切れます。笑いが途切れます。その後、8秒間の沈黙。

その間、平田さんの心の中に何が映っていたのか。何が心をよぎっていたのか。

日本から離れることばかり考えていた中学時代。あらゆる常識に息苦しさを覚え、本当の自分になりたいともがいていた18歳の時。初のヨーロッパ演奏で「失敗」し、行き詰まったと感じたこと。その後踏んできた数々のコンサートの舞台。そして、ボリビアの子供たちやポーランドの子供たちをはじめとする、演奏旅行で出会った世界中の人々の顔。この8秒間、平田さんの心の中では、ピアニストとして生きてきたそれまでの人生が走馬灯のように映っていたのでしょうか。あるいは、人生の一齣が突然、胸に迫ってきたのでしょうか。8秒間の途中に一回、話し始めようとするかのように、小さく短く息を吸って、それから、最初の「でも」より一オクターブ低く、しかもフォルテからメゾピアノとなった「でも」でまた話し始めました。

「でも、私が私になるための過程というか、それは、私だけではできなかったもので、つまり、いろいろな人が、私を私にしてくれたんです。そういう人たちを裏切らないために、ピアノを続けるんです」

深く悩み、いろいろなことに挑み続け、今でも人前で弾くことを恐れながらも、それでもなお、ピアノに自分を託して、人々との「共感」を求めて生きている一人の日本人がここにいる。私はふと、笑いがこの人の人生で果たしてきた役割を理解したような気がしました。同時に、その生き方によって、何故か私自身も勇気づけられているのを感じたのです。この人に、心から声援を送りたいと思いました。

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平田さんのホームページ: http://makikony.cool.ne.jp

*本稿は『TV Fan』 (Dec. 2009, No.416)からの転載です。

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