Yukikazu Nagashima

Born in Chiba City and graduated from Waseda University. In 1979, he moved the U.S. He worked at California Daily Newspaper and joined the Japanese editorial team at The Rafu Shimpo in 1984. In 1991, he became Editor of the Japanese department. He left the company in August, 2007. In September of the same year, he received an award by the Consulate-General of Japan in Los Angeles. He has published a series of articles titled “Profile of Nikkei Contemporary History” in TV Fan introducing the Japanese and nikkei in America. Currently he works as an editor of “J-Town Guide Little Tokyo,” a community magazine in English which introduces Little Tokyo.

Updated August 2014

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Minyo Fusion” - Marisa Kosugi

I had mixed feelings of anxiety and excitement as I drove to a theater in San Pedro, the concert venue, wondering what kind of show was waiting for me. It was “Fusion Minyo (Japanese folk music)”—to be performed by Minyo Station, a group led by Marisa Kosugi. I’d gotten a glimpse of them once on DVD before, but it was my first time seeing them live in a concert. To be honest, I was thinking that the fusion of minyo would be something very difficult to achieve.

In fact, I had seen Marisa, together with her mother Matsutoyo Sato, head …

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The Message of Shonien: Mits Yamasaki

Next year, it will have been 95 years since the Japanese Children’s Home of Southern California, called “Shonien,” was built in Los Angeles. Five years from now, it will be one hundred. Even though the facility was closed in 1963, some efforts to preserve its history have started. One of them is the DVD project, which was done by the relatives of Mr. Mits Yamasaki, eighty-four years old, who lived in the facility for ten years between ages 8 to 18.

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Shonien was opened in 1914 to house Japanese or Japanese American children whose parents could not take care …

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「ポストン・ソナタ」の訴え -グレン・ホリウチさん-

日系四世のジャズ・ミュージシャン、グレン・ホリウチさんのアルバムを、このところ何度も立て続けに聴いていました。先月、ホリウチさんと演奏活動を共にしていたリリアン・ナカノさんについて書いたのがきっかけです。

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聴いていたのは「ネックスト・ステップ」「イッセイ・スピリット」「マンザナ・ボイシィズ」「ポストン・ソナタ」「オックスナード・ビート」「ライブ・イン・ベルリン」「ケンゾーズ・ビジョン」「コーリング・イズ・イット・アンド・ナウ」「ヒルトップ・ビュー」「マーシー」「パチンコ・ドリーム・トラック10」「フェア・プレイ」(年代順)など。中にはバラードやブルース調の曲もありますが、大半は何といってもアバンギャルド・ジャズ(フリー・ジャズ、インプロビゼーション・ジャズ)です。何かを考えさせ、何かを訴え掛けてくる曲の数々。これらの曲の一つひとつに耳を傾け続けているうちに、ホリウチさんのような戦後生まれの日系人に、第二次大戦時の強制収容という事実が投げ掛けていた影の大きさに、あらためて気付かされたのでした。そうした日系の三世や四世が収容に対する謝罪と補償を求める運動を突き動かしたのですが、その理由が今、ホリウチさんの音楽を通じて、やっと少し実感として理解できたような気がしています。

1955年、シカゴ生まれ。リリアン・ナカノさんの話の中で触れたように、ホリウチさんはナカノさんの甥です。幼少のころ、祖父のサブロー・スギタさん(ハワイ出身の二世)から日本の歌を聞かされて育ちました。スギタさんは尺八奏者であり、浪花節の名人として、ハワイのラジオに出演したり、収容体験を語る曲を書いているほどです。

ホリウチさんは幼少時からピアノを習っていたのですが、クラシックが主で、ジャズに関心を持つようになったのは高校を卒業してから。その後カリフォルニア大学リバーサイド校に進学し、数学を専攻しました。大学では、1970年代という時代的な背景もあり、アジア系のグループに加わって政治的な活動に関与するようになりました。

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そんな状況の中、ホリウチさんは1977年、音楽を続けていくことをあきらめます。学業と政治活動に時間を取られ、音楽のための時間がなかなか取れなかったためですが、それに加え、黒人を中心とする公民権運動の中でフリー・ジャズへの関心が社会的に高まっていたことも影響したのでしょう。

そして、NCRR(全米補償賠償連合)の創設メンバーの一人として加わりました。その後NCRRの活動を続けていたのですが、1981年、一つの転機が訪れます。ロサンゼルスで開かれた補償問題に関する公聴会でした。大勢の元収容者に加わって、ホリウチさんの祖父と父親も証言しました。つぶさに耳にする収容という実態の詳細。ホリウチさんは打たれました。この体験を大勢の人たちに知ってもらいたい。この事実に目を向けてもらいたい。そう、自分には音楽がある。ホリウチさんは再びピアノに向かいました。クラシックではなく、自分の意見をもっと直接的に打ち出すことができる音楽形態としてのフリー・ジャズです。

ホリウチさんの音楽活動は、大学の活動で知り合った他のアジア系のミュージシャンらとの共演へと広がっていきました。そしてNCRRの活動を通して知り合ったエドナさんと結婚。息子のケンゾー君が生まれます。しかし、大きな悲劇が待ち受けていました。がんです。確認された時には、すでに大腸から肝臓へと広がっていました。そして2000年、45歳という短い生涯を閉じたのでした。

ホリウチさんの代表的なアルバムの一つ「ポストン・ソナタ」(1992年、スタジオ録音版)に「ブルース・フォー・ジョン・オカダ」という曲が収められています。ジョン・オカダは「ノーノー・ボーイ」と題する小説を残した日系二世の作家ですが、その小説の中に、終戦で収容所から出てきて生活の立て直しを図る主人公が、自分に語りかける言葉があります。「日本という力が弱かった」というものです。多くの二世たちは強制収容のため、この「日本という力」を自分の内に見いだすことができなかったということでしょう。加えて、戦後の日系史は日本的であることを否定するところから始まったともされています。こうした状況の中で育ったのが、戦後生まれの三世や四世でした。彼らの困惑は、計り知れないものがあります。

その困惑を解こうとしたのが政治的な活動であり、実際に困惑を解いたのが、ホリウチさんにとっては、戦時収容についての公聴会における証言でした。言うならば、ホリウチさんは公聴会で、ジョン・オカダの「ノーノー・ボーイ」がついにつかみ得なかったもの、つまり「日本という力」をつかんだのではなかったでしょうか。そして、それが音楽への復帰につながった。「ポストン・ソナタ」の第四楽章「セレブレーション」は、言うまでもなく、戦時収容補償法の成立を祝うものですが、この曲はまた、ホリウチさんとしての、日系人が日系人であることを祝う曲でもあったような気がしています。

エドナさんもケンゾー君もピアノを弾かないのに、自宅のピアノのふたはいつも開けたままになっています。エドナさんは「いつだれが来ても弾けるように」と言います。そして、「生きていたらきっと『9・11』についての曲を書いたでしょうね」。戦時補償法成立から二十年。音楽を通じて人々の心に訴え続けたホリウチさんの言葉を聞くため、私はまた「ポストン・ソナタ」に戻っていきます。

*本稿は『TV Fan』 (2008年11月)からの転載です。 

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戦時補償と三味線と -リリアン・ナカノさん-

音楽である種の心情を伝えようとする時、アバンギャルドが最もふさわしい形態ではないかと思われることがあります。例えば、第二次大戦中の日系人強制収容にまつわる心情。ジャズ曲「ポストン・ソナタ」です。

まず、ピアノが深い記憶の底に舞い降りていきます。痛みと悲しみと怒りが混在する記憶。次第にその音は激しく打ち震え、時に低音を叩き付けます。それに呼応し、やはり怒りをぶつけるように吹きならすテナーサックス。続いて、三味線の懐かしい調べが流れてきました。それに、祭笛を思わせるようなフルート。しかし、三味線の音が日本的であることの力を感じさせる一方、ピアノとサックスは聞く者の心に波風を立たせ、何かを訴え、それへの理解を求める。そんな旋律の展開。時には叫び、時にはおどけて、闘わなくてはならないのだと。それが、自分を取り戻すための唯一の術なのだと―。

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1993年、ベルリンで開かれたコンサート版です。ポストン(アリゾナ州)には、日系人12万人を強制収容した10の収容所のうちの一つがありました。「ポストン・ソナタ」は日系三世のジャズ・ミュージシャン、グレン・ホリウチさんが作曲。「想起」「収容」「キャンプ・シーン」「祝典」の四楽章からなり、ピアノを弾いているのがホリウチさん、三味線を弾いているのがリリアン・ナカノさん(80)です。ナカノさんは全米補償賠償連合(NCRR。現「公民権と補償のための日系」)のリーダーの一人として、夫のバートさんとともに、戦時収容への補償と謝罪を求める運動の先頭に立ってきました。1988年の補償法成立から今年でちょうど20年。バートさん亡き後ガーデナ市に一人で住むリリアンさんは「補償運動を通じて人間的に大きく成長した」と、シャイなアーティストからの変化を振り返るとともに、「あまりにも日本的」と戦後十年以上手にすることをこだわっていた三味線が、ホリウチさんとの共演を通じて、いかに収容による心の混乱からの回復を助け、いかに社会との結び付きを豊かにさせたか、あらためて感慨を深めるのでした。

ナカノさんの話を聞いていると、その環境から、彼女が補償運動に連なっていったのはむしろ必然だったような気がしてきます。ハワイ州ホノルル生まれの日系三世。大戦勃発で、ハワイからは約二千人が米国本土に連れてこられ、収容所に送られましたが、手広く製パン業を営んでいたナカノさんの家族も、ビジネスの関係で祖父や父親が日本にたびたび行っていたことからスパイの嫌疑がかけられ、家族ぐるみでアーカンソー州ジェロームの収容所へ、その後ワイオミング州ハートマウンテンの収容所に送られました。しかし、父親のサブロー・スギタさんは黙っていません。収容所で食料事情の改善を求めて当局と掛け合ったり、人々の慰安のためと尺八の演奏活動をしたり。また、戦後ホノルルに戻った時に結婚したバートさんも、その後移転したシカゴでマルコムXの演説を聞きに行くなど、時の公民権運動の高まりの中で、日系社会も権利擁護のため積極的に活動していく必要性があるという思いを強めていったのでした。

三味線はまだホノルルに住んでいた八歳の時、たまたま踊りの稽古に連れていかれたところで、踊りよりも魅了され、それ以来、収容されるまで続けていたものです。シカゴに移ってから再び始め、シアトルにいい先生がいるというので行って集中指導も受けました。その後シカゴで個人的に教えていたのですが、心のどこかで「社会との結び付きが必要」と感じていたことも事実でした。

1965年ロサンゼルスに移転。その後「小東京住民の権利を守る会(LTPRO)」と出会い、ナカノさん夫妻の活動家としての歩みが始まりました。そして、NCRRの活動へと発展していくのですが、「最も収容の影響を大きく受けた二世が声を上げていくべき」というNCRRの方針に沿うため、ナカノさん夫妻が年齢的にも二世らの信頼と協力を得るのに大きく貢献したのでした。1981年にロサンゼルスで開かれた強制収容に関する公聴会では、英語が堪能でない一世の通訳も務めました。

そうして補償運動を進める一方で、80年代の中盤に甥のホリウチさんとの「共演」が始まります。運動に時間と精力を注ぐ中、アーティストとしての自己実現の要求が頭をもたげてきたのでした。補償の実現が視野に入ってきた時期でもあり、バートさんもリリアンさんの音楽への復帰を勧めます。そして、NCRRのイベントで演奏したり、コンサートで米国各地をはじめ、海外にも出かけたり。そうした折に日系人強制収容について説明することも忘れませんでした。

今年は補償法成立から20年ということで、二世週日本祭や日系コミュニティー・サービス(JACS)がNCRRを表彰しました。5月にはカリフォルニア州下院から表彰されたナカノさん。残念ながら関節炎のため現在、三味線は弾けない状態で、NCRRの活動からも幾分遠ざかっていますが、健康維持に努めながら、タイムズ紙の隅から隅まで目を通し、時に孫のお守りをするなど、結構忙しい毎日です。そうした日々について語る口調からは、活動と音楽を通して収容補償という大義のために生きてきた深い充実感がうかがえました。まるで「ポストン・ソナタ」の第四楽章「祝典」に響く、ナカノさんの三味線のようです。それはまた、日本的であるということはどいうことか問いかけるとともに、大義のために闘い続けることの大切さを訴えかけているようでもありました。

*本稿は『TV Fan』 (2008年10月号)からの転載です。

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日本文化にかかわり続ける -前野ジョン久仁男さん-

初めてこの人と会ったのは、二世週日本祭に向けての準備の時でした。祭りの最大のイベントの一つに、小東京一帯の道路を閉鎖して繰り広げられるグランド・パレードがありますが、それに登場する音頭の一般参加者を対象とした稽古の時です。私も彼も、その年の振り付けを担当した日本舞踊の師匠による稽古に参加していたのですが、年配の参加者が多い中で、彼の若さが一際光っていました。しかも、飾り気のまったくない話しっぷり。日本人とは日本語で、日系人とは英語で冗談を言い合っています。

その後ほとんど毎年のように、二世週祭の時期になると顔を合わせていたのですが、彼が耳鼻科医であること、そして米国書道研究会で書道を長年学んでいたことは後で知りました。この若い日系人と話していると、彼の日本文化へのこだわりの強さが伝わってきます。今の日本人以上のこだわりです。そこにどれほど、米国書道研究会で書道を学んだ影響を見て取れるか。この若い日系人の心にどのように書道の教えが生きているのか。彼との会話はいつも興味の尽きないものとなっています。

前野ジョン久仁男(くにお)さん。今年45歳。ロサンゼルス生まれで、カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)で微生物学を、その後シカゴ医科大学で医学を学びました。現在は主にパノラマシティーの病院で耳鼻科の医療に携わっており、スタジオシティーの丘の中腹にある家に、福岡県出身の妻、美詠子さんと住んでいます。

祖父が和歌山からの移民で、父親はターミナル島生まれの日系二世、母親は日本からの移民。男ばかり四人兄弟の末っ子でした。父親との会話は英語でしたが、「子どもたちには日本語と日本文化を身に付けてほしい」という母親とは、一貫して日本語で話していました。日本語は羅府上町第二学園と日本語学園協同システムの中高学部で学びました。

実は、柔道を柔道を五歳のころから四、五年、後に剣道をUCLAを出てから一年半ほど習っており、日本の習い事とのかかわりは、それほど目新しいものではありません。しかし、書道とのかかわり、いや、米国書道研究会の生田観周会長と博子主幹(いずれも当時)とのかかわりが、日本文化へのこだわりを決定的にしたようなのです。

次男の兄が協同システムの中高学部で書道を習っていたので、一緒に学ぶことにしました。「せめて自分の名前ぐらいきちんと書けるようになってほしい」という母親の勧めもありました。まったく初めての書道です。最初は観周氏から、その後は博子氏からも指導を受けました。先生が書いてくれた手本をまねて書こうとするのですが、もち論なかなかうまく書けません。「指導は厳しかったし、難しかった」。それでも、先生の言うことを素直に聞いて、何とか手本の通りに書こうと常に努めました。

そんな彼に観周氏は「もっとしっかり持ちなさい」と言いながら、手を取って教えてくれます。その時、筆の持ち方だけでなく、紙への角度、筆を置く強さ、筆運びの速さなどを、肌を通して学ぶことができました。墨の濃さもありました。そして「観周先生や博子先生が書いてくれた手本をまねて何度も何度も練習する中で、人生の大切な教えについても学んでいたと思います。それは、訓練や忍耐の重要性であり、穏やかな心、完成を目指す心の大切さというものでした」。「やるんだったら徹底してやる」「何か始めたら、終わりまでやり通す」。そんな教えがものの考え方の基本になっていると言います。

UCLAに入学すると、学業が忙しくなり、日本語の勉強は途切れましたが、書道は続けました。その後、シカゴの医科大学に進んだため書道も続けることができなくなりましたが、日本文化への執着はどんどん強まっていったようです。それは、日常生活における日本文化にも及びました。

結婚もそうです。結婚相手は「日本語を話すこと」というのが最低限の条件でした。医学の研修で日本から来ていた美詠子さんと2003年に結婚したのですが、美詠子さんは祖父が歌人で、母親も祖父の影響で和歌をたしなんでおり、それに美詠子さん本人も小笠原流煎茶の教授の資格をもつ人。そうした日本の伝統文化を身に付けた人が醸し出す雰囲気が、伴侶とする決め手になったのかもしれません。結婚式は羽織袴、三三九度、そして最後に参加者一同で「炭坑節」を踊るという趣向で、美詠子さんすら「アメリカにきてこんな結婚式挙げるとはまったく思っていなかった」と驚きました。

古風とも言われるのですが、結婚後、「妻にはやはり家庭にいてほしい」と希望。美詠子さんは主婦業に専念するようになりました。食事は何と言っても日本食です。一年に二度は訪日し、歴史的に所縁のある所を訪れたり、伝統的な日本文化に触れたり。踊りは、ロサンゼルス地区の各仏教会を回っての盆踊りと、二世週祭のパレードの音頭への参加。そして今は、盆栽を学んでいます。

「日系の若者たちが日本語を話せないのをみると、実に悲しい。それに、日本のことも知らず、自分のルーツも知らない人が多くなってきています。私は自分なりに、日本文化を維持し続けたいと思っていますが、日系社会でももっと日本文化を継承していく努力をしてほしいと思います」

日々の生活におけるものも含め、さまざまな日本文化にかかわり続けようと努めている前野さん。その彼に「今年も一緒に二世週祭のパレードで踊りましょう」と元気のいい声を掛けられた時、私は思わず「もち論。楽しみにしています」と応じていました。

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*本稿は『TV Fan』 (2009年3月)からの転載です。

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