Hidemitsu Miyamura

1944 年1 月1日、パラグァスー・パウリ スタ市にて、宮村季光と敏子の長男として生まれる。幼少期、北パラナー州アプカラナ市で日本語を学ぶ。1967年 にパラナー国立大学工学部を卒業。 1968年ブラジル日本電気株式会社に入社、2001年に退職。この年独立して新し いリサイクル産業を展開。妻アリセ加代子の間に、 一男(ドゥグラス秀洋)と一女(エリカ洋美)をもうける。2005年に「限りなく遠かった出会い」のエッセイ集を出版。サンパウロ新聞などに投稿。趣味は歴史ものを読むこと。


(2013年1月 更新) 

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限りなく遠かった出会い

古いフィルム(2) ドウラードス植民地事業

この古いフィルムには、前回記載したシーン以外に、私の一家と深い関わりのある映像が含まれている。それは父が一生を賭けたドウラードス植民地事業に関してである。今でも私の手元にこの古い映像が残っていることに、私は不思議な因縁を感じずにはおれない。 [inline:Miyamura2.jpg] 私の父母一家は、1945年にパラナ州のアプカラナ市に入った。歯の技工士の職業と、耕地周りの仮の歯医者の仕事もしていた父は、その傍ら、終戦後、勝ち組が刊行していた雑誌「光輝」(ひかり)のパラナ州支部長でもあった。 そのため、当時家の前には雑誌「光輝」の看板がたっていた。ある時、認識派のメンバー達が、それを写真に撮り、政治警察に渡したのだ。その結果、父は逮捕され、ロンドリーナ市の刑務所に収監された。そこからは、友人たちのはからいで数日後には釈放された。 そんな生き方に嫌気をさしていた父は、何か自分にあった事業を常に探していた。その兆しを見たのが、パラナ州政府が所有する未開拓地があると聞き入れた時であった。そして1948年、父はドウラードス植民地事業に乗り出した。 父の残した古いフィルムには、父がその事業に対する使命宣言を、「ブラジル移民の父」と言われる上塚周平(1876~1935) の墓の前で読み上げている場面があった。また、1951年に録画された映像には、60,000アルケール(*)のドウ…

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限りなく遠かった出会い

古いフィルム(1) 歴史的政治転換期

あるきっかけから61年前の古いフィルムが私の手元に届いた。父が亡くなる前に古物を預けていた友人から、父が他界して数年後、私に届けられたものであった。 思いもしなかった映像に目を見張った。歯の技工士の仕事を辞めてパラナ州に移転した父が、1948年に州政府と共に企画した植民地の開拓事業に関わる記録映像であった。旧方式の35ミリのセルロイド製フィルムだったので、燃えやすい為シネマテッカ・ブラジレイラに保管してもらうことにしたが、そこの幹部の方達も映像を見て目を白黒させていた。それは、父が一生を賭けたパラナ州のドウラードス植民地の開拓事業のシーンや当時の映画館で上映されたさまざまなニュースクリップが含まれたものだった。 [inline:Presidente Getulio Vargas_sm.jpg] 中でも目を引いたのが、1952年のゼツリオ・バルガス大統領の就任式だった。群衆の盛り上りはその当時の政治の活気さをあらわしていた。また、日系人主催の農産物展示会のイベントも映像も気になった。アデマ―ル・デ・バーロス・サンパウロ州知事がヘリコプターから下り、出迎えの現地の農産物生産者達、すなわち日系人たちの映像が出てくる。大勢の日本人会の幹部達が出迎えており、着物姿の子供達が州知事に花束を渡している。 わたしは気になって、これらのニュース映像の背景を個人的に調べて見た。はっきりしない…

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父の日記(2) 横山家の思い出

81歳で他界した父は、神戸港を1933年2月に出航したありぞな丸で、移民として19歳の時、一人で来伯した。その父の古い日記帳をめくっていたら「船中思い出」と言う題で、1940年11月23日に書かれたページに目が止まった。従ってこの日記は、父が来伯後7年目に書いたものだった。以下はその日記帳から抜粋した内容である。 [inline:Chichi.jpg] ある日、アマゾーナスで働いていたその人が、歯の治療のため、私を尋ねてきた。当然、アリゾナ丸の船中知り合って、あの地域へ行った方たちの行方について聞いてみた。聞かされたことは私を呆然とさせ、気が遠くなるような意外なことであった。 横山氏。その人の話によれば、彼氏の奥様は、アマゾーナスのあの強烈なマラリアに襲われて、日本から現地に来て、三ヵ月目に空しく御他界されたとの事。あの優しかった奥様。船中にての奥様の一言一句が、懐かしい思い出としてよみがえる。故人の霊に、安らかにあれと祈るのみである。 奥様の死亡後、横山氏は痛苦と精神的苦悩をまぎらす為にか、毎日毎日、あの強いピンガを一リットル以上も飲んで正体の無いほどだったとの事。そして、彼氏も、アマゾーナス入耕後、六ヵ月目には、亡き人と成ってしまわれたとの事。 後に残った可哀相な静ちゃん、龍ちゃん、武ちゃんはどんなに嘆き悲しんだ事だろうか。当時、静ちゃんが十四歳、龍ちゃんが十三…

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父の日記(1) あの時、私は…

その当時、父はサントスで歯の技工士の仕事をしていた。28歳で独身の身であった。後に、ある白人歯医者の名義を借りて正規ではなかったが、歯医者として開業をした。その頃の苦しい生活や失敗談、お世話になった方達のこと、サントスでの楽しい独身生活、華やかなカシーノでの遊びなどが、古い日記に書かれてある。開戦の6ヶ月前、父は神保と言う知人の紹介で、後に私の母となる敏子と知り合った。日記には、真珠湾の襲撃をはさんで、母との恋愛中の甘い想いなどが書かれてある。 [inline:Yoshihiro's family.jpg] 1941年12月7日午後6時(伯国時間)、次のように書かれてある。 「帝国日本は、英米對戦の火蓋を切る。十二月八日午後七時より、十一時までラヂオにカジリツイテ、祖国の宣戦を聞く。十時半、早くも、フィーリッピン、ハワイは我が皇軍の勇散なる行動によって、火の舞台に化す。ブラジルは、極度に排日気分が高まり、同胞は皆困っている。毎晩、この頃はラヂオを聞きに行っている。吉廣氏夫妻1と良く戦争及び社会問題を語っている。ブラジルが参戦したら、我らも迫害を受ける事と思っている」。 父と母は戦時中、サントス、サンパウロ間の移動許可書を手に、苦難を乗り越え、式も挙げない結婚をしている。そして翌年、姉の雪子が生まれた。日記は続く。 「一九四三年七月七日、突然、日独人サントス退…

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おタネはん

私が初めてPIZZA を食べた時、こんなに美味いものがこの世にあるのかと思った。住んでいた北パラナーではその縁が無かった。田舎者で7歳の子供であった私が、初めてサンパウロに来た時「PIZZA は珍しいだろう」といって、父母が古くから世話になっていた「おタネさん」が取り寄せてくれたのであった。 おタネさんは、1920年代からサンパウロ市のタバチンゲーラ街に「東洋ホテル」を経営していた。西野氏と結婚するまでの姓は「岩尾」だった。世話好きで良く知られた人であった。 初めてPIZZA をご馳走になった頃は、右足が少し不自由で肥り目の女将さんであった印象が残っている。その頃「東洋ホテル」は中央市場、メルカード・ムニシパール前のメルクーリオ通りのビルの上層階にあった。 そのおタネさんについてであるが、昨年、84歳で他界した母が懐かしく語ってくれた話がある。 [inline:Father and mother_sm.jpg] 母の父、奥村宇一は1930年に、移民として来るまでは百姓の経験が無かったので、普通の移民よりひと一倍苦労した。来伯して8年間、一家を引き連れて10回も耕地から耕地をさまよい引越し、やっとJUNDIAIの綿栽培のFazenda Ermindaにたどり着いた時のことであった。 父宇一は、捨ててあった古新聞の切れ端に「東洋ホテル」の新年の挨拶が並んであり、偶然にも「…

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