Yuri Brockett

東京での大使館勤務後、夫の大学院留学のため、家族で渡米。ニューヨークでは子育ての傍ら大学で日本語を教え、その後移ったシアトルではデザインの勉強。建築事務所勤務を経て現在に至る。子どもの本、建築、かご、文房具、台所用品、旅、手仕事、時をへて良くなるもの・おいしくなるもの…の世界に惹かれる。ワシントン州ベルビュー市在住。

2015年2月 更新

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おばあさんの手紙 ~日系人強制収容所での子どもと本~

第一章 立ち退きまで (3)

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3. 真珠湾攻撃とその波紋 <1941年12月7日 – 1942年春>

1941年(昭和16年)12月7日、日曜日。「日本軍が、パールハーバーを攻撃しました。…… アメリカ艦隊の損害は甚大です。海岸一帯に火災が広がっています……」とひっきりなしに繰り返すラジオの臨時ニュースで西海岸に住む多くの日系人は真珠湾攻撃を知りました。1

次はライブラリー・ジャーナル誌(1942年6月号)にロサンゼルス図書館児童室司書、ゼーダ・テイラーの書いた記事の中に表れるブリードの手紙の一部です。

14年間、ひとつのコミュニティの児童図書室で仕事をしてきたことで、わたくしは子どもたちと強い友情を育む機会に恵まれました。その間に七つだった男の子が二十一歳の若者になり、五つだった女の子が十九歳の若い女性になりました。その間、ただ側にいただけのわたくしも、彼らの強靭さ、若さ、勇気に、あふれる誇りを感じています。2 

12月7日はだれもがショックで頭が真っ白になった日でした。でも、日系の子どもたちは、世界が音を立てて崩壊したのと同じぐらいのショックを受けたでしょう。3 

ヨシコの家族は、教会から帰って家でお昼を食べていた時に、ラジオの臨時ニュースでしりました。家族はみんな半信半疑で、もし本当だとしてもただ一部の狂信者がやったことで、まさかこれが戦争のきっかけになるとは思いもしませんでした。午後、ヨシコは図書館にでかけます。

実のところ、私はこの奇異なニュースよりも、間近に迫った大学での最終試験にもっと心を奪われており、図書館へ勉強に出かけていった。図書館に着くと、いくつかの仲間に分かれた二世の学生たちが、この衝撃的な出来事を心配そうに論じ合っているのが見られた。みんなの意見では、ただの突発的な出来事にすぎないということになり、やがて注意を書物の方へ向け直した。私は、真珠湾攻撃については、それ以上、何も考えもせず、午後5時まで図書館にいた。

家に戻ると、家のなかは異様な静けさで満たされていた。見知らぬ男が居間に座っており、父の姿は見えなかった。何十人もの他の日本人の場合と同様に、FBI(連邦捜査局)の係官がやってきて父を連れていったのだ。…… やっと母と姉の恵子と私だけになった。母が食事の支度をし、皆で食卓についたが、だれも何も食べる気にはならなかった。父がいないということで、何かがどこかで違ってしまっていた。心のなかに重い黒い石のようにうずくまっている怖れを、だれも自分から口にしようとはしなかった。

「ベランダの明りをつけたままにして、網戸の掛け金もはずしておきましょうよ。お父さまが、今晩遅く帰ってみえるかもしれないから」と、母が願いを込めて言った。

だが、翌朝、ベランダの明りはついたままであり、父の居所はだれにも思い当たらなかった。4

ヘンリーも家でニュースを聞きました。

真珠湾攻撃のニュースは午後3時頃、聞きました。当時、兄はアマチュア無線に凝っていましたが、あ〜ぁ、もうできないなと思いました。間もなく、ノビ・シゲハラが家に駆けて来て、「父ちゃん、とられた!」って言ったんです。僕たちが「父ちゃん、とられたって、どういうこと?」と聞き返したら、「あいつらがやって来て、父ちゃんを拘留して、車に乗せてどっかにつれてっちゃった」って。これを聞いた父は、あわててスーツケースの用意を始めていました。次に、電話が鳴りました。兄と同じアマチュア無線をするジョージ・セキヤからで、「全部もってっちゃった。僕の無線の機械、全部。僕の持っていたもの全部」って。それからきっかり15分後、だれかが玄関のドアをたたく音がしました。で、兄の無線の機械は持っていかれたんですが、幸い父は無事でした。5

連邦捜査官は一刻もむだにせず、ヨシコやノビの父親のように日本と緊密な関係があるとされるあらゆる者を逮捕していきました。日系人コミュニティの指導者、日本語教師、牧師、僧侶、新聞記者、日本企業に勤める人…… ジーンの父親もその一人でした。ジーンはその時の気持ちをこう表しています。

1941年、12月7日、日本とアメリカの戦争が始まった。…… その夜、12月8日の朝早く、FBI(連邦捜査局)の職員が二人やってきて、父を逮捕して連れ去った。アメリカ西海岸に住む日系人リーダー数百人の名簿が作成されていて、そこに父の名もあり、開戦後24時間以内に逮捕される手筈になっていたのだ。明らかにFBIは準備をととのえ、戦端が開かれたらただちに行動する態勢をとっていた。父も他の人も犯罪の前歴は何もない。父が逮捕され、身柄を拘束されたのは、日系人社会で指導者的立場にいたからだ。それから約二年間、家族は誰も父にあえなかった。

ぼくは父の逮捕は眠っていて知らなかった。朝になってから姉のホシコに教えてもらった。姉は台所の壁にとりつけてある電話機を指さした。FBIが電話線を切断して帰り、誰にも彼らが来たことを伝えられないようにしてあった。FBIが線を切っていったことは、父の逮捕よりも強い衝撃をぼくに与えた。それはアメリカ政府がぼくたちを、敵と見ている具体的な表れだった。何日もの間、ぼくは切られた電話線が、台所の壁にだらりとぶら下がっているのをぼんやり眺めた。やがて誰かが来て直してくれるまで。

2、3週間して父から手紙が届いた。サンタバーバラ郡立刑務所から出されたもので、のちに父が話したところでは、刑務所ではパンと水しか与えてもらえず、数日にわたって訊問された。みなやがて処刑されるのだと考えた。父も手紙には書いていなかったが、家族には二度と会えないと覚悟していたようである。6

ヘンリーの新しい友達はアメリカが気にいっていて、アメリカがヨーロッパやアジアと戦争しないように願っていました。真珠湾攻撃のあった次の日、学校に行くと「これからいろんな事がおこるよ」と真面目な顔でヘンリーにいいました。でも、中学生のヘンリーには事の重大さは……7

新しい友達の予言はあたっていました。いろいろな事がおこりました。苦労をした一世も落ち着いた生活をしていた頃でしたが、真珠湾攻撃の後、生活は一変します。まず、一世のビジネスライセンスが無効になり、銀行にあずけてあった預金が凍結されます。日本学校の校長先生が逮捕されたため、学校は無期休校です。日系人にたいする暴行事件もありました。年が明けてすぐ、シアトルの公立小学校で事務をとっていた26人の日系職員が、父兄の圧力により、辞職においこまれます。駅で赤帽をしていた日系人もいつの間にか、フィリピン人に変わっています。カリフォルニアでも34人の日系公務員が解雇されました。日本に対する怒りが日系人にむけられました。日系人もアメリカの軍隊に志願したり、戦争に協力するために国防債券をかったり、献血をしたりしたのですが、世論をしずめる効果はありませんでした。

しずめるどころか、戦争の狂気とかした世論をあおいだのが、軍、政治家、それにマスコミでした。新聞はうわさや推測を事実であるかのように書き続けましたし、12月15日には海軍長官のフランク・ノックスは、ハワイにいる日系人が日本の真珠湾奇襲攻撃を手助けした、日系人のあいだに大規模なスパイ組織があると全くでたらめなことを言い始めます。しかし、日系人社会は静かです。その「大規模なスパイ組織」の活動は何もありません。まあ、組織もなにもないのですから、行動もあるはずはないのですが。すると、「西海岸に住む日系人のスパイ活動がないという事自体が、彼らが秘密裏に次の奇襲を計画している証拠だ」という人がでてきます。当時カリフォルニア州地方検事だったアール・ウォーレンもそういった一人です。こんな議論で納得させられたのが、スティムソン陸軍長官や大統領。これが、日系人強制立ち退き、強制収容につながります。

日系人強制立ち退き、強制収容に反対した政府高官もいたことにはいました。連邦捜査局長官のジョン・エドガー・フーヴァーです。問題のありそうな日系人は真珠湾攻撃後すべて投獄してあるので、他の日系人の強制立ち退き、強制収容の必要はない。強制立ち退き、強制収容はただ世論と政治的圧力に負けたからであって、実際のデータに基づくものではないとしています。8

2月9、西海岸の日系人には午後八時から午前六時までの夜間外出禁止令がでていましたが、ヘンリーは平気で夜おそくに近くのイエスラー図書館分室から歩いて家まで帰っていました。一応、中国人の友達のアルがくれたチャイナ・バッジをズボンのポケットにしのばせて。「チャイナ・バッジって、丸いバッジで周りに模様が書いてあって、真ん中に『中国』って書いてあるんです。アルがいうのには、僕たちは背格好も同じだし、顔も似ているし、捕まったらこのバッジを見せればいい。名前は僕の名前をつかっていいよって」10 

2月中旬、シアーズ校長先生が日系の子どもたちだけの集会をひらきました。その時のヘンリーのレポートです。

校長先生の心配は僕たちの身に危害が及ぶことでした。「もし、学校の行き帰りに何かあったら、すぐ私に直接報告するように」と、僕たちの安全を守る積極的な態度を示してくださいました。夜間外出禁止令は午後八時から午前六時までなので、朝五時とか五時半始まりのクラブ活動に参加している人は、顧問の先生と話して、時間変更してもらってともおっしゃいました。それから、「何が起ころうと、将来君たちが勉強を続けられるように、君たちの記録はちゃんととっておくから」と。今から考えると、校長先生は将来を見通していらしたようです。が、その時の僕らには、馬の耳に念仏。先生の言葉は僕らの耳にたどり着くなり、中には入らず、そのまま外に跳ね返っていっていました。この集会があってすぐ、大統領行政命令が……11

大統領行政命令9066号

「われわれはどんな脅威にも、どんな危険にさらされていても、われわれの祖先が権利章典のなかに構築してくれた自由を放棄するものではない。」と、真珠湾攻撃の一週間後でしたか、権利章典150周年記念式典で、声たかだかに演説したルーズベルト大統領でした。しかしその約2ヶ月後、1942年2月19日には、大統領行政命令9066号に署名し、「裁判、事情徴収なしに、軍部がいかなる地区からも民間人を隔離できる権限」12 を与えました。

これで、西海岸を軍事地域に指定し、陸軍省と西部防衛司令官のジョン・ドウィット陸軍中尉に、軍事上の必要性があれば、日系人の立ち退きを実行する権限を与えてしまいました。ドウィット陸軍中尉は以前から、日本と戦争になれば西海岸にいる日系人が日本に手助けする可能性は十分あると確信していました。ドウィット陸軍中尉の考えは、マンソン・レポートでも変えることはできませんでした。 

こうして陸軍が権限を持つ事になり、忠誠心を持たない者がいるかもしれないという理由で、11万人以上の人々を家から立ち退かせ、行き先も告げることなく移動させられた。彼らのうちの誰一人として、罪を犯して裁判にかけられたり、有罪に処せられたことのある者はいなかった。70パーセントはアメリカ市民であったにもかかわらず、市民としての権利は無視された。ただ、彼らが日本人の血筋を持つために罪があるとされたのだ。13

ヨシオ・ナカムラの証言14

歴史の先生が、心配するな、ヨシオ、おまえはアメリカ人だぞ。合衆国憲法が強制移住等許すはずがないと言ってくれました。次の週、執行令が来た事を告げると、先生は呆然とされていました。

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注釈:

1. 長江好道著、「日系人の夜明け———在米一世ジャーナリスト浅野七之助の証言」岩手日報社 1987

2. 前掲  War Children on the Pacific: A Symposium Article.

3. 前掲「親愛なるブリードさま」

4. 前掲「荒野に追われた人々———戦時下日系米人家族の記録」

5. Henry Miyatake, interview by Tom Ikeda, March 26, 1998, Densho Visual History Collection, Densho. 

6. 前掲「引き裂かれたアイデンティティ———ある日系ジャーナリストの半生」

7. Henry Miyatake, interview by Tom Ikeda, March 26, …

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おばあさんの手紙 ~日系人強制収容所での子どもと本~

第一章 立ち退きまで (2)

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2. まえぶれ  <1939年 – 真珠湾攻撃まで>

ヘンリー・ミヤタケはシアトルの日本町に住む、元気な中学生の男の子。両親、姉と兄の五人家族。お父さんは渡米当時、カリフォルニアのハンチングトン・ビーチで日本からの出稼ぎ移民と一緒にレタスの栽培をしていました。でもレタスに時々黒いだらだらしたものがつくことが多く、これじゃ二人は食べられないと、ヘンリーのお父さんは農場の借地権をパートナーに譲り、ワシントン州にやってきました。鉄道工事に携わった後、シアトルの日本町で食料雑貨店の経営をしています。両親のそれとなくの心配りと、日本町の中で生活していることで、あまり差別は感じないで子ども時代を過ごしています。

第一次大戦後、ヨーロッパからの移民が急激にふえ、彼らが、早くアメリカの生活習慣になれるように、アメリカ中の商工会議所、教会、職場、図書館等で、英語やアメリカの文化を学ぶクラスが開かれていました。移民の子どもがたくさん通っていたヘンリーのベイリー・ガザート小学校でも、このアメリカナイゼーション・プログラムを行っていました。そのことについて、ヘンリーはDensho(伝承):日系アメリカレガシープロジェクト1のインタビューでこう語っています。

僕は日本学校に行っていました。毎日、現地の小学校と中学校が終わってから、午後4時から多分5時半位までだったと思います。僕が6歳から12歳の間だから、6年間、通ったんですね。じゃ、もう少し僕の日本語、上手になってもよかったのにねぇ。日本学校では、ふざけ回っていました。先生はハシグチ先生といって、とてもいい先生でしたよ。先生は一生懸命でした。僕たちは勉強ができない訳じゃないのが、分かっていましたから。

僕たちは、先生がしなさいって言う事をしないで、ただ勉強ができない風にふるまっていたんです。だから、僕が日本学校から作文とかテストとかを持って帰って、母に見せると、母は「あらっ」と言って、後は何かぶつぶつ一人言です。でも、現地校のベイリー・ガザート小学校では成績が良かったものだから、母はどうして僕が日本学校でもうちょっと真面目にしないのか見当がつかなかったんでしょう。

「どうしてちゃんとしなかったんですか」と聞かれて。

ベイリー・ガザートで僕たちはあまりにもプロパガンダナイズされていたんですよ。今だから言えるんですけど…… あの頃は僕の中でなにが起こっているか、気づきもしませんでした。僕の心の奥で、いかにも僕が生粋のアメリカ人であるかのように、何か日本的なものや日本的な行動に偏見をもっていたのを見抜けなかった。こういう事を理解するには、まだまだ世間しらずでした。2

日本語の勉強のために多くの日系の子どもたちは日本学校に通っていましたが、ヨシコと姉のケイコは行っていません。無理強いしなくても、との両親の教育観があったのかもしれません。ヨシコが中学か高校の時のことでしょうか、強い日本文化拒否の心情を綴っています。

日本人の資質と価値が私たちの生活に入って完全にまざりあっていたにもかかわらず、姉も私も、子供のころ、私たちがアメリカ人以外の何ものかであると考えたことは決してなかった。学校では、アメリカの国旗に敬礼し、良き市民となることを学んだ。私たちの教師は、友達の多くがそうであったように、すべて白人であった。私たちの読んだものはすべて英語で書かれており、英語は、もちろん、私たちの母国語であった。……

本来、私たちが誇りにおもうべきはずの事柄を、社会が私たちに恥ずかしいものと思わせていた。怒りを、私たちを仲間はずれにし傷つけた社会へ向ける代わりに、多くの二世は自分たち自身の日本人らしさや両親の日本人的な態度を捨て去ろうとするような時代の風潮でもあったし、また、私たちの自尊心もそれほど低いものであった。私たちはしばしば一世の人たちを、そのみすぼらしい衣服、走り疲れたトラックや乗用車、陽に当たってからからになった畑での長年の労働による日焼けした皮膚、英語を話す力のなさ、習慣、それに好んで食べる食べ物のせいで、恥ずかしいと思っていた。

私にはアメリカ的ではないと思われるやり方で母に振舞われると、私は当惑したものであった。母と一緒の時、通りで日本人の知り合いと会って長々としたお辞儀が始まり、その間ずうっと日本語で話されるのには、身がすくんだ。

「さあ、行きましょう、お母さん」と、母の袖を引きながら、私は話の邪魔をした。3

1941年10月、ワシントン・ミドルスクールに通うヘンリーの隣の席に新入生がやってきました。すでにヨーロッパでは戦争がはじまっていました。ある時、自分史を書く宿題があり、クラスで発表することになりました。隣の席の新入生の家族はポーランド系のユダヤ人で彼は率直にドイツ軍によるどんな迫害がおこっているか、自分の家族のこと、イギリス経由で苦労してアメリカに逃げて来たことを話し、ヘンリーに強い印象を残しました。4

日米関係が悪化しはじめた1941年初頭、ルーズベルト大統領はジャーナリストのジョン・フランクリン・カーターに西海岸在住日系人のアメリカに対する忠誠心の調査を依頼しました。カーターが雇った数人の調査員の一人がデトロイトの実業家、カーティス・B・マンソンでした。マンソンは10月から11月にかけて実際に西海岸におもむき、連邦捜査局や海軍の諜報部から情報を得るだけでなく、日系アメリカ人や日系アメリカ人を知っている人々をインタビューしてレポートをまとめました。真珠湾攻撃のちょうど一ヶ月前のことです。その結論は、「日系アメリカ人はアメリカに対して忠実で、脅威になるものではない」というものでした。5

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注釈

1. Densho (伝承):日系アメリカレガシープロジェクトは一九九六年、日系三世のトム・イケダにより設立された非営利団体。第二次世界大戦中に不当に収容所におくられた日系アメリカ人の証言を、彼らの記憶が消えさる前に、保存し、歴史的な写真、資料、先生用教材とともに、オンラインで公開しています。伝承のインタビューは話す方の表情もみえ、実際にお話を伺っているような魅力があります。http://www.densho.org

2. Henry Miyatake, interview by Tom Ikeda, March 26, 1998, Densho Visual History Collection, Densho. 

ヘンリーがプロパガンダナイズされたというのは、移民が早くアメリカの生活に慣れるように、英語やアメリカの文化を教えていたアメリカナイゼーション教育をうのみにしていたことを指します。学校でのプログラムが功を奏すれば奏する程、子どもたちは、日本の文化を捨てざるを得なかったのです。この弊害に気付き、現在ではアメリカ単一文化から複数の文化を大切にする教育に変わって来ています。

3. ヨシコ・ウチダ著、波多野和夫訳「荒野に追われた人々———戦時下日系米人家族の記録」岩波書店 1985

4. Henry Miyatake, interview by Tom Ikeda, March 26, 1998, Densho Visual History Collection, Densho. 

5. http://encyclopedia.densho.org/Munson_Report/  

 

* 子ども文庫の会による季刊誌「子どもと本」第133号(2013年4月)からの転載です。

 

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おばあさんの手紙 ~日系人強制収容所での子どもと本~

第一章 立ち退きまで (1)

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1941年の真珠湾攻撃の後、アメリカの西海岸に住む11万人以上の日系人が強制収容所に送られることになります。彼らの3分の2はアメリカ生まれで、市民であったにもかかわらず、日本人の血をひいているというだけで。個人の自由や平等がうたわれているアメリカ合衆国憲法があるにもかかわらず、どうしてこんな不正義なことが起こったのでしょうか。


1. 時代背景

日本からアメリカへの移民は、1885年ハワイへの移民から始まり、1890年代から1924年が全盛期でした。明治維新後の税制改正で、江戸時代の村単位でおさめる年貢から、個人でしかも現金でおさめることになり、現金のない農家は土地を担保に高利貸しから借りて、税金を払わなくてはならなくなりました。

そこで、貧乏な生活を余儀なくされていた農家の次男や三男が、一攫千金を夢見てアメリカに渡ってきました。それだけではありません。移民の中には明治中期の自由民権運動家や原敬の書生をしていた浅野七之助等、新天地に活躍の場を求めた人も多く含まれていました。

ジーン・オオイシは、後に自伝「引き裂かれたアイデンティティ:ある日系ジャーナリストの半生」(染谷清一郎訳)を書きますが、その中にこんな話があります。

ジーンのお父さんは熊本県有明海に面する長洲の生まれ。おじいさんはそこで魚の卸をしていました。お父さんが子どもの頃には、湾まで鯨が来ていたそうです。でも、魚が減ったせいで、いつしか鯨が来なくなり、それにともないおじいさんの仕事も激減し、店を救うためにと思った投資にも失敗し、多額の借金をかかえこんでしまいます。そこで、次男であるお父さんが、おじいさんの借金を返すために、19歳でアメリカに渡ってきました。1903年、サンフランシスコに到着。数年仕事をし、お金を貯めて日本に帰るのが目的でした。熊本で2年英語を勉強して来たものの、誰も頼れる人はいません。

来た当時は、レストランの下働きや果樹園で働いていましたが、一年後にサンタ・マリア・ヴァレーのグアドループに移ってからは、めきめきと頭角をあらわし、サトウダイコンの農園では、お父さんが日本人で少し英語が話せると分かると、日本人を沢山連れてくるよう頼まれ、監督として雇われます。それまで農園の主な働き手は中国人だったのですが、みな年をとっていくし、中国からの移民禁止令が出されていた頃で、新しい移民は来ないし、困っていたところだったのです。サンフランシスコに着いて7年目には自分の農園をもてるまでになっていました。「とうとうこの借金を返済し終えたことは、父の自慢の種である。祖父がまた頭を上げて長洲の街を歩けるようになった、と何回となく父は話した」と、ジーンは書いています。1

ちょうど、ジーンのお父さんがグアドループに移ったあたりから、日本からの移民反対運動が高まります。日露戦争での日本の勝利が、日本によるアメリカ西海岸侵略の恐怖をかき立てたことと、勤勉で低賃金で働く日本人が増えると、自分たちの仕事の競争相手になると危惧する経済的判断から、または「日本人をカリフォルニアから追い出せ」という人種偏見から、それらの動きを自らの利益につなげようとする政治家の思惑から……2 

西海岸の、特にカリフォルニアの日系人一世は、排日のうねりのなかで過酷な労働に堪える毎日でしたが、みんなが貧しい時代で、日系人同士助け合って暮らしていました。そういう困難な中でも、子どもたちをしっかり育て、子どもたちも勤勉・正直・忍耐という日本的な価値観を親の背中から学びとっていました。

図書館利用の状況

二世の子どもたちは、公立図書館を自由に利用していました。一世の親も、子どもたちが図書館に通うのを勧めていました。教育はとても大切だと思っていましたし、子どもたちには親を越えていってほしいとも思っていました。

日系の子どもたちは読書家でマナーもいいので、図書館員にもかわいがられていました。「この図書館ができて以来の一番いい利用者グループの一つ」と、シアトル図書館員も高く評価しています。サンフランシスコ中央図書館児童室のナタリー・メイヨー司書も「(日系の)子どもたちは図書館のルールを守り、本を借りて家にもってかえるのを素晴らしい特権だと考えている。こういうことを、アメリカの子どもたちも、外国人である日系の子どもたちから大いに学んで欲しい」と手紙に記しています。5

当時は公立図書館のもとに学校図書館が運営されていたため、公立図書館の司書が学校に本を届けていました。そういう状況の中で、一人の司書と子どもたちとの、今の図書館では見られないほどのしあわせな交流が記録に残っています。(「親愛なるブリードさま」ジョアンヌ・オッペンハイム著、今村亮訳)です

多くの日系二世の子供達は、家から歩いて通えるサンディエゴ市立図書館ダウンタウン分室に行くのが大好きでした。本もだけど、「ブリードさん」に会えるから。ブリードはすでに14年もの間、子どもたちの側にいて本を手渡しつづけていました。

ブリードと子どもたちの間には信頼関係があったのでしょう。子どもたちはブリードには何でも話していたようです。ブリードもそれに答えて、一人一人にまっすぐに向き合っていました。ブリードの所に通っていた子どもたちが、「ブリードさんの子どもたち」です。テツゾウとルイーズはこう語ります。

ブリードさんが本という魅惑的な世界にいざなってくれました。…… 皮肉な事に、親にかまわれなかったのがよかったのでしょう。母は僕が5歳の時に亡くなり、父は一日16時間働いていました。面倒を起こさずまっとうに生きろと、それは厳しく言われていましたので、そのせいもあって本の虫になりました。図書館の本棚の端から端まで手当たり次第に夢中で読みました。夏が終わり学校が始まると学校の図書館、夏休みが来るとまた町の図書館、という具合です。その間中、ブリードさんがそっと優しく導いてくれたのです。6         
                          テツゾウ

わたしが本をよみはじめたのは8歳のころだったと思います。ブリードさんが児童図書館で始めた夏の読書クラブのおかげです。彼女はとても優しく親切で、いつもうれしそうな笑顔でわたしたちを迎えてくれました。読書クラブのお陰で、夏休みの間中忙しく充実した日々を過ごすことができました。いろいろなプログラムを用意してくださっていましたが、その一つが読書で世界を旅することでした。彼女は地図を作り、わたしたちのためにさまざまな国の本を用意してくださいました。読書クラブに入ると、それぞれ番号をもらいます。そして一冊読み終わると、わたしたちの番号を書いた星をその国の上につけてくれるのです。こうしてわたしたちに夏を楽しく退屈することなく過ごさせ、読書好きにしてくださったのです。7
                          ルイーズ

バークレーに住むヨシコ・ウチダも図書館に行くが楽しみでした。自伝「荒野に追われた人々———戦時下日系米人家族の記録」をまとめる前に書いた本に、子どものときに好きだった本のことを書いています。

図書館の南バークレー分室に行くのが大好きでした。いつも私は子どもの本の所に直行です。最初にするのは背表紙に星の印がついているのを探すこと。わたしの好きなミステリーなんです。オーガスタ・H・シーマンの「古いバイオリンの謎」のような本をよく読みました。ヒュー・ロフティング「ドリトル先生」シリーズとかルイーザ・メイ・オルコットの「若草物語」と「第三若草物語」も好きでした。他にはアナ・シュウエルの「黒馬物語」とかフランシス・ホジソン・バーネットの「秘密の花園」なんかですね。…… 自分では日本語は読めないんですが、母に夜寝る前に「花さかじじい」とか「舌きり雀」とかの話をしてもらったり、わらべうたを歌ってもらったりするのが大好きでした。8

図書館と一世

しかし、一世の親にとっては、公立図書館は決して居心地のいい所ではありませんでした。英語の読める人はごくわずかでしたし、日本語の本はほとんどありませんでした。多くの図書館員にとっても一世の存在は見えていませんでした。いや、見ようとしなかったのです。

こんな逸話をアンドリュー・ウエルトハイマーが日系人強制収容所内のコミュニティ図書館を調査した論文で紹介しています。1919年、第一次世界大戦後の不況下、サンフランシスコ市立図書館が、日本語の新聞の予約購読を止めるにあたり、日本総領事館に援助を要請した時の手紙です。「もし日本語の新聞を寄付して頂ければ、仕事や休暇で来る一時滞在の日本の方に喜ばれるでしょう」とありますが、当時市内には5,358人もの一世がいたのに、それには一言も触れていません。9

第一章(2) >>

 

注釈:

1. ジーン・オオイシ著、染矢清一郎訳「引き裂かれたアイデンティティ———ある日系ジャーナリストの半生」岩波書店 1989

2. 1905年5月には、67にも及ぶ団体の代表がサンフランシスコに集まり、後に排日同盟を立ち上げることになります。1906年には、サンフランシスコ教育委員会は日系の子どもたちを一般の学校からすでにあった東洋人だけの学校に隔離すると発表。この方針を東京からのレポートで知ったルーズベルト大統領は困惑し、事態を打開するために、日本政府と調整を進める意思があることを表明。条件は、カリフォルニアが日系児童隔離を止めて、これ以上日系人を差別する条令を作らないと、いうことでした。その結果、日米の紳士協定が結ばれ、日本政府は以後、労働者のアメリカ行き旅券を発行しないよう自主規制することになります。

ヨーロッパからの移民とアジアからの移民と、大きく違う点がありました。ヨーロッパからの移民は帰化し、市民権をとれましたが、日本人や中国人にはその道は閉ざされていたことです。1913年のカリフォルニア州外国人土地法(第一次排日土地法)で、日系一世が土地を買うことも、三年以上、土地を借りるここともできなくなります。農業をするのに、3年毎に農地を変えて一から始めろというのは、あまりにも酷です。が、窮すれば通ずで、市民権のある二世の名前で土地を買い、一世の親は後見人として登録することできりぬけたケースも多かったようです。しかし、1920年には1913年の条令をもっと厳しくした、カリフォルニア州第二次排日土地法が通過します。今度は、日本国籍を持っている者に土地を売ったり、貸したりすることを全面的に禁止。土地売買のさい一世が未成年の子どもの後見人になることもできなくなりました。

3. 一世はアメリカの市民権がとれなかったので、本来は日本人ですが、日系アメリカ人の二世とともに、本文では日系人として記しています。

4. Becker, Patti Clayton. Up the Hill of Opportunity: American Public Libraries and ALA During World War II. [Doctoral dissertation] Madison: University of Wisconsin-Madison, 2002.

5. Tayler, Zada. War Children on the Pacific: A Symposium Article, Library Journal. Vol. 67, June 15 …

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おばあさんの手紙 ~日系人強制収容所での子どもと本~

プロローグ

長年送っていただいている、「子どもと本」の購読料が残り少なくなったので、送らせていただいた時のことです。ちょうど地元の公立図書館にリクエストをしておいた「夜と霧」(ヴィクトール・E・フランクル著、池田香代子訳)が、オレゴン大学の図書館から届いたばかりでした。どなたか司書の方が、わたくしのために、アメリカ各地の図書館にあたって見つけて下さったことに感激しましたと書き添えました。

すると、子ども文庫の会の青木祥子さんから「お手紙の中の図書館員のお話、すてきですね。思い出したのは、いつのことだったか、新聞の小さなコラムの、あるおばあさんからの投稿でした。第二次世界大戦中、日本人強制収容所にいたという彼女は、収容所にいる間、地域の図書館員が、本を収容所に届けてくれたことが忘れられない、ぜひ、その人と再会したいと、書いていました。本当に小さな記事でしたが、図書館員とは、そういう時も(こそ)、だれにでも平等に、本を手渡すというサービスなのだと感じいりました」とご返事をいただきました。

日本人強制収容所に、本のサービスがあったことは知りませんでした。

司書と子どもたちと、どんな交流があったのでしょうか。子どもたちはどんな生活をしていたのでしょうか。強制収容所にはどんな図書館があったのでしょうか。…… 

アメリカに住むようになって、収容所のことをもっと知りたいと思っていたのですが、のびのびになっていました。おばあさんの手紙が心から離れない今が、いい機会です。早速調べ始めました。 

それを何回かに分けてお届けしたいと思います。まず、第1章では、日系人たちが住んでいたところから立ち退かされるまで、第二章は、強制収容所ができるまでの間、競馬場やフェアグラウンドにつくられた間に合わせの「集合所」で、仮の図書室がうまれる様子です。第三、四章では、いよいよ気候も厳しい内陸の強制収容所での生活がはじまります。子どもたちはどんな生活をしていたのでしょうか。何もないところから図書館を作り上げた人々とそれを支えた人々のこと。第五章は、それぞれの人々のその後をお伝えします。

案内役はシアトルのヘンリー、バークレーのヨシコ、グアドループのジーンとサンディエゴの「ブリードさんの子どもたち」です。できるだけ、子どもたちの声をそのままお伝え出来ればと思います。

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* 子ども文庫の会による季刊誌「子どもと本」第133号(2013年4月)からの転載です。

 

クララ・E・ブリードコレクション(全米日系人博物館所蔵)

今回のストーリーの元となった子どもたちの書いた手紙(英語)をご覧ください。

 

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