Yuri Brockett

東京での大使館勤務後、夫の大学院留学のため、家族で渡米。ニューヨークでは子育ての傍ら大学で日本語を教え、その後移ったシアトルではデザインの勉強。建築事務所勤務を経て現在に至る。子どもの本、建築、かご、文房具、台所用品、旅、手仕事、時をへて良くなるもの・おいしくなるもの…の世界に惹かれる。ワシントン州ベルビュー市在住。

2015年2月 更新

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おばあさんの手紙 ~日系人強制収容所での子どもと本~

第二章「集合所」という強制収容所: 1942年春から秋にかけて (4)

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4. 「集合所」と外の世界をつなぐ

鉄条網に囲まれた中で生活していても、外の世界があると実感できれば、将来への希望を紡げます。ブリードが本や手紙を送り続けたのも、二世の若者が集合所内の学校や図書館の仕事を志したのも、先生姉妹が「サラミと学校を運び続けた」のも、今まで新聞社の掃除をまかされていた高校生を新米通信員にしたのも、「集合所」まで訪ねて来て下さった方も、そう、慣れない収容所内の図書館員に励ましと本を届けた司書の方々も、それぞれのやり方で、子どもたちに寄り添い、子どもたちに外の世界があること、子どもたちを信じて待っている人がいることを伝えたかったのかもしれません。

手紙

先日、ワシントン大学のアレン図書館の地下にあるスペシャル・コレクションで、子どもたちが収容所から出した手紙を読んでいました。その時、ワシントン・ミドルスクールのエヴァンソン先生1のファイルの中に緑のインクのきれいな筆記体で書かれたトクナリの手紙を見つけました。

5月8日に仮収容所についてから、10日、13日、18日と、10日間に3通も手紙を書いています。手紙からは平静な気持ちが伺えますし、収容所内の状況を心配しているクラスの子どもに「ここの状況もすぐによくなると思うので、あまり心配しないでね。」と、シアトルに残して来た友だちへの気遣いまでもみせています。13日の手紙は、クラスからの質問に答えていますので、トクナリの答えからみんなの質問をくみとってみてください。18日付けの手紙を手にとったときに、ぱらりと何かが机の上に落ちました。70年の歳月を経て、茶色になった四つ葉のクローバーでした。大好きな学校の先生や友だちのために、鉄条網のまわりで一人、四つ葉のクローバーを探すトクナリは何を思っていたのでしょうか。

  5月10日

親愛なるエヴァンソン先生とクラスのみんなへ、

ピュアラップの新しい家について、荷物をかたづけたり、家に手をいれたりの2日間がすぎ、みんなに短く「ハロー」とごあいさつです。最初に僕たちの部屋の事から。一部屋を7人で使っています。壁板は節穴と割れ目だらけで、変に寒気が入り込み昨晩は全然眠れませんでした。食事も少なく、部屋に帰ってからサンドイッチとクラッカーを食べました。ベッドは陸軍からの借り物で、マットレスは布袋に藁をつめたものです。

ちょうどきりのいい所ですから、ここまで。次までさようなら。みんな僕に手紙を書いてね。

 シアトルからの立ち退き者、     トクナリ       

  5月13日

親愛なるエヴァンソン先生とクラスのみんなへ、

みんなもだと思うけど、ハルオがぼくと同じキャンプじゃないのがすごく残念です。彼は多分キャンプDだと思います。

親切に僕にきれいな四つ葉のクローバーを送ってくれた君にありがとう。しかし、もっと大きなお礼を、僕にすてきな手紙をかいてくれたみんなに。今日は疲れたので、あまりすることがないんだ。できる限り、みんなの質問に答えていくからね。

1. エドワードヘ —— 学校はないんだ。

2. デイビィとウーフィヘ —— ウーフィが早くよくなりますように。それと、二人の写真をおくってね。

3. ソロモンへ —— あまり心配しないで。

4. ハーバートへ —— 僕もハルオが一緒のキャンプじゃないのが残念なんだ。だから、君からハルオへの「こんにちは!」のあいさつは、受取人不在で返送するよ。

5. ラルフへ —— 上に平らな板をのせただけです。これで質問の答えになってる?

6. リチャードへ —— ここの状況もすぐによくなると思うので、あまり心配しないでね。

7. アルバートへ —— また、家に帰れるように願っているんだ。

8. ケイティへ —— 僕が(シアトルに)戻る前に、悪い事をするのを止めとけよ。君のような女の子(をぴしゃりとお仕置きするの)にちょうどいいへら2を持っているんだヨ、僕は。

9. ルイーズへ —— [切手収集をしていたのでしょうか](分類したり、貼ったり)忙しくするまえに、もっと集めなくちゃ。使い古しの切手も忘れないでね。

10. シシールへ —— 君も書き方が上手になったと思うよ。その調子でがんばって。

11. メアリーへ —— キャンディが手に入りにくくなったって言っていたけど、あまり(状況が)ひどくないように希望するよ。こちらには全然ないんだ。

12. 僕の親友、ウォルターへ —— 家の母(の写真を新聞で)を見たって書いてあったけど、(その写真の中で)母はなにをしていたの? 次の手紙で教えて。

以上です。次までさようなら。

あなたの生徒、      トクナリ

  5月18日

親愛なるエヴァンソン先生とクラスのみんなへ、

同じクラスの人がここにいるかお尋ねでしたね。はい、でも一人だけ、ユリコさんです。彼女は偶然僕の家の道の向こうに住んでいます。彼女の住所はエリアC−ブロック2−キャビン22です。もし彼女に手紙を書くんだったら渡しますよ。そして、びっくりさせましょう。どうして(先生やみんなが)彼女の住所を知ったのか不思議がるでしょうね。彼女は第二食堂でウエイトレスの仕事をしていて、時々牛乳を配ったりしてくれます。

これは、僕が収容所内と鉄条網のまわりでみつけた四つ葉のクローバーです。どうぞ、ここにいる、すべての友人の思い出のために持っていてください。

いつまでも友達、       トクナリ

追伸、送って下さったガムやキャンディ、ありがとうございました。切手もたくさん集まりました。 

第二章(5)>> 


注釈:

1. Letters by Tokunari Kawada, May 10, May 13, and May 18, 1942. …

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おばあさんの手紙 ~日系人強制収容所での子どもと本~

第二章「集合所」という強制収容所: 1942年春から秋にかけて (3)

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2. 自分の手の届くところから、できることから

子どものまわりの大人たちは、気がついた所から、必要がある所から、どんどん自分でできることを始めます。こんな環境でも、できるだけ住みやすくしようと自発的に動き始める様子には、一世、二世の不屈の、そして前向きのエネルギーが感じられます。時は春。自然のリズムとも呼応します。図書館設立もこのように始まったのですが、その話はもう少し後で。ここでは、雨の多いピュアラップでの例を二つ。 

ジム・アクツは食堂の仕事をしていました。ある日、お皿に残ったパンを包んでいる人に気づき、話をきくと、病気で来られなかった母親に持って帰るとのこと。それを聞いて、ジムは「そうだ、お年寄りや病気の人は、歩いて食堂に来て、何時間も外で並んで待つのは大変なんだ」と気づき、そういう方に食事を届けるトレイ・サービスを始めます。このサービスは、すぐに病院と隔離病棟までにも広がりました。ジムは「ただ必要があったので、しただけです」と語っています。1

雨が降る度に、道はどろどろのぬかるみになり、足をとられます。キャンプ中、舗装したところなんてないのですから。モニカ・ソネは、自伝の中で「人食いぬかるみが海原のようにひろがっていた」と形容しています。普通の靴をはいてシャワーに行くと、帰りには天使のような羽が必要になると、キャンプ内新聞でも揶揄しています。そこで脚光をあびるようになったのが、トヨノスケ・フジカド。一世の方でしょうか。自分のバラックの一隅をミニ下駄工房にして、廃材を使い、お金はいっさい受け取らず、頼まれるままに、大きいのや、小さいのや、形も高さも様々な特注下駄を、700足以上も作りました。3

短期間の仮収容所なので、戦時民間人管理局は、収容者の学校や余暇の過ごし方までは考えてはいませんでした。しかし、一日中何もすることのない生活は退屈で、モラルの低下が問題になってきます。そこで、急遽、各収容所に、教育部とレクリエーション部を作り、実際の計画と運営は収容されている日系人の担当です。教育部は学校、保育園の計画を急ぎ、先生を募集しはじめます。レクリエーション部では、瞬く間に、野球、バスケットボール、ソフトボール、すもうから編み物、工芸、囲碁将棋などの活動が始まりました。 


3. 学校

まだ机も教科書もないうちから、学校も始まりました。今回の写真は、マンザナーで二世の大学生がボランティアで先生をし、子どもたちに規律のある生活をと、学校を始めた時のものです。何もないけれど、きれいに掃除された教室の床に、窓からはいる自然光が映り、すがすがしい印象をうけませんか。子どもたちのことを思う人がいて、学びたい子どもたちがいて、学べる空間があって、刻々とかわる光の軌跡があって、ここだけは満ち足りた時間が流れているようです。7月1日、政府の写真家ドロシア・ラングの撮影です。

タンフォラン仮収容所で、ヨシコ・ウチダの姉ケイコは、保育園をつくるのを任されます。ケイコはミルズ・カレッジで児童発達学を修め、保育士の資格をもっていました。しかし、卒業後も資格を生かす仕事には恵まれません。ケイコだけでなく大多数の二世が同じ経験をしています。人種偏見のため仕事がなかったのです。大学で航空工学を修めた卒業生が野菜を売っていた時代です。建築家のミノル・ヤマサキをご存知ですか? ニューヨークのワールド・トレード・センターを設計した、アメリカでは20世紀を代表する建築家の一人です。彼はワシントン大学で建築を勉強したのですが、卒業当時仕事がなく、ある店の下働きをしていて、時々ヘンリーのお父さんの店にも配達に来ていました。幸い、強制立ち退きが始まる前にニューヨークの建築事務所に勤めることになり、立ち退きは免れています。仮収容所で、ケイコははじめて自分の本来やるべき仕事に恵まれたのです。後にヨシコは仮収容所内小学校の先生になるのですが、その前にすこしケイコの保育園を手伝っていました。その時の気になるエピソードです。

……子どもたちがおままごとをするときはいつも、家庭でやっているように料理したりテーブルに食器を並べたりしないで、架空の食堂で食事をするために、行列をつくって並ぶのが常であった。子どもにとって家庭という観念が、いかに急速に変化してしまったかを目にするのは、悲しいことであった。4

サラミと学校を運んでくる先生

「闇を照らす一本のろうそくは、昼間の百本のろうそくよりも有り難い。多くの日系人にとって収容所時代、戦時下にうけた親切は、大きい小さいに関わらず、消えかけた希望の火を再び燃え立たせ、人生の一番暗かった時に、人間は愛し、信頼するに足る存在だと、再び、確信させてくれた。その火は今日も燃え続けている」と、収容者だった人々からの推薦で、心に残る人々の話を集めた本の中で、すてきな先生姉妹に出会いました。

エリザベス・ハムバーガー先生とキャサリン・ハムバーガー先生で、どちらも昼間はストックトン高校で教えていますが、夜な夜な、ストックトン仮収容所に通っていました。ほとんど毎晩のことですから、門番の兵士とも顔なじみ。多分、その門番はこのお二人のことを「どちらも、妊娠中か、すごくふとっている人」と思っていたことでしょう。実は、お腹のまわりに差し入れのサラミとか、持ち込み禁止の食べ物を巻いていたのです。

ストックトン高校の日系の学生が仮収容所に送られたのは学期がおわる一ヶ月前で、このままでは今学期の単位が取れなくなって、次の学年に上がれなくなります。そこで、姉妹は考えました。「政府が学校から生徒を取り上げるんだったら、私たちは学校を生徒に持って行こう」と。同じ仮収容所に入っている大学生を先生にして、ストックトン高校の学生に勉強を教えてもらい、その単位を学校当局に認めさせる計画です。毎晩のように収容所に行っていたのは、にわかに先生になった大学生に教え方を伝授したり、ストックトン高校の他の先生がその日、クラスで配ったプリントを渡したりしていたのです。5

卒業式

一人だけの卒業式

丸めてボール紙の筒にいれられた私の卒業証書は、私の小屋で、タンフォラン仮収容所の郵便屋さんから手渡された。6

これが、2週間違いでカリフォルニア大学バークレー校の卒業式に出席する機会を奪われた、ヨシコの一人だけの卒業式でした。


十三の空の椅子

ベインブリッジ高校の二つの卒業式の様子を、野球試合の話をしてくれたメアリー・ウッドワードに続けてもらいましょう。

…… みんなと卒業式をむかえるはずだった日系人学生は13名で、卒業生の4分の1です。そう、4分の1になりますね。みんな学生のリーダーでした。バスケットボールチームのスターだったり、生徒会の指導者だったり …… 数多くの非常に秀でた学生たちで、ベインブリッジ高校に完全にとけ込んでいました。…… 学校側は状況が状況だけに大目にみた科目もあったかとは思うけど、13名が卒業に必要な勉強を終えたことを確認して、教育委員長とデニス校長が卒業式で読み上げるスピーチの原稿を添えて、13名の卒業証書を手渡してもらえるようにマンザナーに送ったんです。だから、マンザナーでベインブリッジ高校の卒業式を執り行うことができましたし、島の卒業式では、演壇に13の空の椅子が並べられました。7

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注釈:

1. Jim Akutsu, interview by Art Hansen, June 9 & 12, 1997, Densho Visual History Collection, Densho.

 ジムはトレイ・サービスをはじめるにあたり、日々のキャンプ内の活動を取り締まる日系アメリカ人市民同盟(JACL)に許可を取りに行きましたが、JACLは当座解決しなくてはいけない案件がありすぎたのか、無視されます。「老人や病気の人に食べさせるのは、重要なことだ。いますぐに取りかかるべきだ」と考えたジムはJACLの頭越しに所長の許可を得て、ボランティアの高校生を募ってスタートしました。

2. Sone, Monica. Nisei Daughter. Seattle: University of Washington Press, 1953.
モニカ自身も赤い下駄を作ってもらいました。 お父さんに懇願して、お父さんの友達の友達経由で下駄を作る大工さんにお願いしてもらって。多分、フジカドさんだったのでしょう。モニカは「下駄は、シャワーにそのまま入れるし、三インチ(七・五センチ)の高さがあるのでぬかるみも大丈夫だし、なんといってもストッキングをはく必要がないので助かった」と明かしています。

3. Camp Harmony News-Letter, June 17, 1942. 

4. ヨシコ・ウチダ著、波多野和夫訳「荒野に追われた人々———戦時下日系米人家族の記録」岩波書店 1985

ヨシコたちが仮収容所について一週間程した時に、FBIに拘束されていたお父さんが仮釈放され、一緒に住めるようになりました。ヨシコは、父親の比較的早めの仮釈放につながった3つの理由を、戦争の始まる2年前に三井物産を定年退職していたこと、地域での奉仕活動、お父さんの人柄や行動に関する知人たちからの宣誓口述書の効果としています。

5. Seigel, Shizue. In Good Conscience: Supporting Japanese Americans During the Internment. San Mateo: AACP, …

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おばあさんの手紙 ~日系人強制収容所での子どもと本~

第二章「集合所」という強制収容所: 1942年春から秋にかけて (2)

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ぶつける批判

高校生ともなると、学校で教わった、人権を守る憲法とは、あまりにも違う政府のやり方に批判をぶつけることもありました。次は、ブリードさんの子どもたちの一人、アイコ・クボの兄、高校3年生のカイゾウが残したものです。

ぼくの世界は眼の前で砕け落ちた。有刺鉄線で囲われた目的地に一歩足を踏み入れた瞬間から、心に違和感を覚えた。この瞬間まで保っていた空威張りは、魂が抜けたように消えていた。ちっぽけな自分、一人ぼっちの自分という感情が突然襲った。投獄されたという実感が湧いてきた。

遠方の冷ややかで暗い監視塔の輪郭は、ぼくを脅かし、かかって来いと言う。その醜い巨大さと、それが象徴している権力を憎む。それが意味するものに対して軽蔑の念を抱く。監視塔は、囚人であるという逃れようのない事実をぼくに突きつけるのだ。

このようにしてぼくは、隔離者としての第一歩を歩み始めた。……最初は、自分を取り巻く周囲の沈黙を打ち破れば、何とかなるぐらいに考えていた。……二万人の魂が思案に暮れていた。楽しいはずがなかった。1

心に残ること

子どもたちの心に深く刻まれたのは、鉄条網の高いフェンス、ライフル銃をもった兵隊、機関銃を添え付けた監視塔、夜ごと行われる点呼、一定の間隔で部屋にさしこむサーチライトの光。子どもごころに、ここは今までとは違う所だと感じとっています。次にあげる感想の一番目はトゥーレアリ仮収容所のジーン・オオイシ、点呼の感想はタンフォラン仮収容所にいた女の子、最後はサンタ・アニタ仮収容所の七歳のルース・オキモトのものです。

…… 鉄条網の高いフェンスに二重に囲まれていた。二重のフェンスということは、ぼくたちを閉じ込めていることを示している。これが一重であったらば、フェンスがあるのは、ただ単に場所の境界を示すためだ、と考えられなくもない。だがトゥーレアリのこの施設は、誰が見ても捕虜収容所そのものとしか思えない。剣先をつけたライフル銃をもった兵隊が、二重のフェンスの間をパトロールしている。最初、ぼくたち子供たちの何人かは、兵隊と仲良くなろうとした。フェンスのほうに歩いていって「やぁ」と声をかけたのだが、何の返事ももらえなかった。黙っているばかりか、多少の敵意さえ感じられたので、それ以上のことはしないで退散した。フェンスに沿って監視塔が設けられており、それぞれに口径0.5インチの機関銃が添えつけられている。銃身が麺棒のような形のごついやつである。2

午後6時半に毎日点呼がありました。毎日、点呼の前は、レクリエーション・ホールでバスケットボールをしたり、鉄棒をしたりして遊んでいました。(点呼が近いことをしらせる) そのサイレンが鳴ると、わたしは時々、叫び声をあげるほど怖くて怖くて。周りの人はサイレンより、わたしの叫び声を怖がっていました。私たちは急いで家に帰り、五分ぐらい待つと、点呼係がやってきて、家族全員がいることをチェックします。……そして、点呼がおわると、またサイレンが鳴って、点呼終了を知らせます。……わたしをこんなにも恐怖におとしいれる点呼が大嫌いでした。3

……(わたしのベッドは)カーテンのかかっていない窓の側で、一晩中、サーチライトの光が、ベッドに横たわって寝ようとしているわたしの顔にあたり、眠りにつくのを妨げました。後になって詩をかいたんですよ。「サーチライトに盗まれたわたしの夜の闇」というの。4

収容所での経験は年齢によっても違ってきます。同じサーチライトにまつわる経験にしても、パインデール仮収容所の17歳のメアリー・マツダのは、7歳のルースの場合とは大きく違います。メアリーの思い出から———

朝4時頃、トイレに行こうと思った時のことです。パジャマの上にコートをはおり外にでたのですが、すぐに巨大な閃光に包まれてしまいました。まぶしくて、手を目のまえにかがそうとしたときに、近くの監視塔から照らされているサーチライトが、私に焦点をあてているのだと気付きました。暗闇でサーチライトがわたしのプライバシーを捕らえて、監視塔にいる兵士に暴露していたのです。目がくらんで、呆然としたなかで、自分が犯されたように感じました。自分に焦点をさだめているサーチライトをやめさせる手だてもないわたしは、急いでバラックに戻りました。そんなわたしをサーチライトの光は追い、私が家にはいってドアの内側から(光が勝手にドアを開けはいってこないように)からだで押さえつけている間もドアの外側を照らし続けていました。しばらくして、サーチライトはいつもの機械的操作に戻りました。 震えながら部屋のなかの暗闇で「17歳にして、私は自分の国の捕虜なんだ」という事に思いを馳せていました。5

朝になって、この事を家族に話したメアリーは、父親の顔にサーチライトからも娘を守れない無力さと挫折の影を見て取ります。


仕事

ピュアラップ仮収容所のヘンリー・ミヤタケはどうしていたかって? 実は仕事をしていたんです。きっかけは共同食堂での食事。初めはだれにもわかっていなかったけれど、大食堂で食事をすることが後々家族のきずなを弱めていくことになります。しかし、子どもたちにとっては、友だちと食事ができるのは喜びでした。ヘンリーもそう。でも、困ったことに、友だちと違う食事時間を指定されます。それでもヘンリーは、友だちと一緒に並ぶことにしました。

しかし、長い食堂の列には、それを取り締まる日系人の係員がたっていて、「君はちがうブロックだろう」と、つまみ出されます。だから、僕は食べないで、友だちが食べるのを待って一緒に遊びにいくか、その係員に腹を立てて、自分のブロックの番になっても並びたくないと思っていました。…… 係員は同じ人が一度に何回も食事をしないように見張っていたんです。で、どういう訳か僕を目の敵にして。…… ある日、こんなことにうんざりして、兄に話したんです。すると、兄は「……がまんしろ。(あいつらはいつもはもっていない)権力を手にいれたんだから、エゴが膨らんでいて、どんなことでもしでかすぞ」と。6

何か言い出そうとしたヘンリーを制して、お兄さんは「実は、電気関係の仕事をする人がもっと要るんだ。ヘンリーはどの仕事仲間より電気については詳しい。電気部門で働かないか?」と誘います。一応、キャンプ内で仕事ができるのは16歳以上という規則があるのですが、そこは混沌とした状況下、だれもとがめる人はいなかったようで、12歳のヘンリーは、電気部門の一番若いクルーになります。しかも、仕事をしていると、食堂に並ばずに入れるので、あの取り締まり係員の側を颯爽と通り過ぎ、食堂の入口にむかう毎日でした。

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注釈:

1. 前掲「親愛なるブリードさま」

2. ジーン・オオイシ著、染谷清一郎訳「引き裂かれたアイデンティティ———ある日系ジャーナリストの半生」岩波書店 1989

ジーン・オオイシの家族が落ち着いたのはカリフォルニアのトゥーレアリ仮収容所。FBIにつれていかれていた父親を除く家族6名が、三・六メートルx六メートルの部屋で暮らすことになります。ジーンが注目したのは有刺鉄線で二重に囲まれた鉄条網と機関銃が備え付けられた監視塔。その機関銃は収容所の内に向いていたのですから、収容は日系人を暴徒から守るためという政府の言葉を信じていた人も、現実を直視せざるえませんでした。

3. Tunnell, Michael O. & Chilcoat, George W. The Children of Topaz: The Story of a Japanese-American Internment Camp, New York: Holiday House, Inc., 1996.

4. Ruth Y. Okimoto, interview by Tom Ikeda, April 8, 2011, Densho Visual History Collection, Densho.

5. Gruenewald, Mary Matsuda. Looking Like the Enemy: My Story of Imprisonment in Japanese-American Internment Camps. …

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おばあさんの手紙 ~日系人強制収容所での子どもと本~

第二章「集合所」という強制収容所: 1942年春から秋にかけて (1)

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…… 集合所の暮しがどうなるか明確なことはわかりません、ましてやその後に行く所については。でも、わたしたちは国際家畜展示場を改造したポートランド・キャンプに入所する4,000人のオレゴン日系人のなかの一人になります。(収容所内では)できる仕事も限られているので、多くの人が退屈にただ時間を過ごすことになりそうです。こんなに込み合った環境での親の一番の心配は、子どもたちのことです。どうすれば子どもたちを有害な影響から守れるか、どうすれば子どもたちを創造的で建設的な生活に導けるか……1

これは、仮収容所に入る直前に、アンドリュー・クロダが友達にあてた手紙です。日系人たちにとって、一番気にかかったのは、やはり子どもたちのことでした。コートの襟の折り返しの所と持ち物に、家族の登録番号をつけて、有刺鉄線の張り巡らされている仮収容所の入口をくぐった瞬間に、一人一人の名前は番号に変わり、自由と尊厳とを失いました。

* * * * *

内陸部の強制収容所2の完成を待つ間、日系人は「集合所」に集められます。カリフォルニア州に13ヶ所、その他オレゴン州ポートランド、ワシントン州ピュアラップ、アリゾナ州メイヤーと併せて16ヶ所所。主に競馬場、家畜展示場、ステート・フェア会場3が間に合わせの住居になり、日系人は、平均して100日間、この仮収容所ですごしたことになります。米国陸軍と戦時民間人管理局 (WCCA) が管理にあたりましたが、収容所内の活動は日系人に任せることに。そこで、日系アメリカ人市民同盟 (JACL) が管理局と収容者間の仲介的役割を担いました。4

下水道なし、天井からぶら下がっている裸電球が一つ、部屋の真ん中に置かれたストーブが一つとコンセントが一つ。これが軍の用意した各部屋のしつらえで、どこの収容所も同じです。備品は、軍隊用簡易ベット、軍隊用毛布とマットレス用布袋。その袋に自分でわらをつめてマットレスを作ります。隣室との壁は天井のないバラックの屋根まで届いていないので、話し声は筒抜けです。食堂、洗濯場、トイレ、シャワーも全て共同で、トイレ、シャワーには仕切りもドアもありません。慎ましい人は、人の少ない夜遅くにと思うのですが、いざ行ってみると、他にも同じように考える人がいて。ささやかなプライバシーもない生活が始まりました。 

なにしろ、急ごしらえの仮収容所、日系人が到着した時には、バラック建設も下水道の準備も何もかもが中途半端。こんな混沌たる状況で、どのように自分たちの生活とコミュニティを築き上げていったのか、どうして「子どもたちを創造的で建設的な生活に導いた」のか­——子どもたちの目を通して探っていくにつれて、収容所の中からも、外からも、自分の責任で自分の出来ることで、手をさしのべてくれた人の存在が見えてきます。 


1. 子どもたちの「集合所」

収容されてすぐに、子どもたちは、手紙を出しはじめます。まずは、ピュアラップ仮収容所からワシントン・ミドルスクールのエヴァンソン先生とクラスにあてた手紙です。

……自分達用の椅子やテーブル、それにベッドのマットレスもわらを入れて自分で作らなきゃならないんです。(ひどくないですか?)…… 追伸、どうかお手紙を下さい。クラスのみんなも。ここは寂しいです。先生のお写真もいただけませんか?5  
                          メアリー

サンディエゴのサンタフェ駅でクララ・ブリードに見送られた子どもたちが着いた所が、カリフォルニア州のサンタ・アニタ仮収容所です。ベーブ・カサハラが、これから住む部屋に初めて入った時のことです。

……馬小屋に住んだんですよ。アスファルトの割れ目には乾いた馬糞のかすがあったんです。母は目に涙を浮かべて、こんなところに入らない、と言いました。…… 父はFBIに連れて行かれたため一緒ではありませんでした。父はニューメキシコ州のサンタフェに5ヶ月拘留されていて、ぼくたちがサンディエゴを立ち退きになると聞いた時、日記に「誰もが立ち退きを心配している。涙があふれてしょうがない。この自由の国でそんなことが起こるなんて信じられない!」と書いています。

幸い、隣のロサンゼルス出身の人がほうきとバケツを貸してくれましたので、アスファルトに水をかけ、ほうきでこすってきれいにしました。それで母も中に入ると言いました。ただあのひどい臭いはその後もずーっと残りました。壁をスプレーで塗布してあるのですが、馬糞のついた藁も一緒に塗り込んであったのでしょう。6

ターミナル島のジャンヌ・ワカツキは、ロサンゼルスから約330キロ内陸に入った海抜1200メートルの高地にあるマンザナー仮収容所に到着。シエラネバダ山脈から吹き下ろす冷たい風が、砂漠の砂を巻き上げて砂嵐を巻き起こす所です。この砂嵐にはジャンヌもびっくりしました。

わたしたちは一日中バスに揺られた。目的地に着いたときには、シェードはあげられていた。午後ももう遅かった。わたしが最初に目にしたのは、赤い夕日をぼんやりとかすませる黄色い渦巻きだった。バスは激しく降りしきる雨に叩かれているような音を立てていたが、それは雨ではなかった。やがてまもなく馴染みとなるそれを、わたしはそのときはじめて見たのだ。それはオーエンス峡谷から吹きつける砂嵐だったのである。……

翌朝早く、寒さに震えながら起きたわたしたちは、ふし穴やドアのすきまから吹きつけてくる砂塵にまみれていた。夜のあいだに、ママは衣類をすっかりひっぱりだして、あたたかく眠れるようにと、わたしたちのベッドの上に積みあげてくれていた。わたしたちの部屋は、まるでクリーニング屋の大きな袋がはち切れて、飛び散った衣類のうえにこまかい砂埃を吹きつけたようだった。床はうすい砂の層に覆われていた。わたしはママの肩越しに、ふかふかのマットレスの端で、ジーンズやオーバーやセーターにうずまったキヨを眺めた。

キヨの眉は白かった。そのキヨがくすくす笑いだした。わたしの白い眉と髪を見ていたのだ。わたしたちはすぐに、ふたりしてくすくすと笑いあった。わたしはママもキヨをおかしいと思っているのではないかと、ママの顔を注目したが、ママはわたしのとなりでじっと横たわっていた。その眼はむきだしの垂木、壁、ほこりをかぶった子どもたち、ありとあらゆるものに、ゆっくりと注がれていった。ちょうどそのとき、ウーディが壁越しに声を掛けなかったら、ママの凍りついた顔が崩れて泣き出したろう。7

ワカツキ一家では、父親がFBIに連れていかれた後、24歳の兄ウーディが、必死で父親役を勤めていました。ウーディは、どこからか缶詰の空き蓋と釘を調達してきて、それを節穴や木の割れ目に打ち付けて穴をふさぎます。その頃、ワシントンからアリゾナまでの仮収容所では、いたるところで釘を打つ音が響いていました。バラックを建てた後に残った廃材とその辺にちらばっている釘を拾い集めて、テーブルや椅子や棚をつくっていたのです。


図書館ごっこ
 

子どもたちは、愛してくれる家族と友だちがいれば、どこででも生きていける力をもっています。遊びもつくりだせます。ブリードと子どもたちの文通は続き、出版社から送られてくる複数の書評用の本や図書館で廃棄処分される本と手紙に、キャンディ、風船ガムなど、ちょっとしたものを添えて、子どもたちに送り続けます。さわやかな風がヤシの葉を揺らす春の日、サンタ・アニタ仮収容所のエリザベスは、妹のアンナや近くの友だちと、図書館ごっこを始めるために、手製の図書カードを作っていました。ブリードのいたサンディエゴの図書館を思い出して。エリザベスの4月25日付けの手紙から———

お手紙と本をありがとうございます。とても嬉しかったです。昨日、10冊の本を集めて図書館を作りました。本は『オズの魔法つかい』、『ゴールドコーストのカルメン』、『母のいのり』、『聖書物語』、『レベッカ』、『嵐が丘』、『幼児キリスト』、それに送っていただいた3冊の本です。図書館は月曜日に開きます。一冊の本にカードを2枚ずつ作りました。一枚は封筒に、もう一枚は本のカバーにつけます。図書館遊びはとても楽しいです。まもなく、ここにも大きな図書館ができるはずです。わたしがいただいた本はもう読み終えていますが、もう一度読みます。友だちと図書館の規則を作りました。8

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注釈:

1. Letter by Andrew Kuroda , May 6, 1942, Folder 16, Box 4, Gov. Sprague Records, OSA.  

2. 歪曲表現について:  長期強制収容所の出来るまでの間、日系人が強制連行された所を、政府と陸軍は「集合所」(Assembly Center) と呼びました。マンザナーは「レセプション・センター」と呼ばれました。集合所やレセプション・センターと聞いて、どういうところを思い浮かべますか? ピュアラップ「集合所」には、陸軍の宣伝部がキャンプ・ハーモニーという呼び名まで用意していました。キャンプ・ハーモニーって、夏に子どもたちが寝袋を持って遊びに行く所のような楽しさがありませんか? これらは、政府と陸軍が付けた、事実を歪曲する表現です。実際は、ジーンの言うように、「誰が見ても捕虜収容所そのものとしか思えない」ものでした。そこで、当時のことを書いたり、話したりする時に、その当時実際に使われていた用語を使うのか、そこで行われていたことをより正しく表す用語を使うのかが問題になります。本文では、歪曲用語にはかぎかっこを付けて使用します。二世の方たちは、「集合所」にも「転住所」にもキャンプという言葉をよく使います。

3. 州民のために年に一回行われるステート・フェアは農産物品評会として始まったのですが、20世紀にはいり、遊園地にあるような遊具やコンサート会場も完備して、カーニバルの要素が加えられました。戦時中、軍が目をつけたのは、ステート・フェア会場は比較的大きな場所でインフラが整っているので、仮収容所を建てるのに便利だという点です。そこで、ピュアラップではローラーコースターの側にバラックが並ぶことになりました。

4. しかし、JACLは強制立ち退きの前から一貫して、「政府の言うことに全面的に従うのが、日系人のアメリカに対する忠誠を示すことになる」との姿勢をつらぬいていたため、後に一世、帰米二世の反発をかうことになります。

5. Letter by Mary Hashimoto, May 10, 1942. Ella C. Evanson Scrapbook. University of Washington Libraries Special Collections.

6. ジョアンヌ・オッペンハイム著、今村亮訳「親愛なるブリードさま」柏書房 2008 …

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おばあさんの手紙 ~日系人強制収容所での子どもと本~

第一章 立ち退きまで (4)

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4. 立ち退き令 <1942年春> 

いよいよ、西海岸に定められた軍事地域からの日系人の撤退が始まります。自主的に軍事地域から移動した家族もいましたが、11万人以上の大移動です。恒久的な内陸部の収容所建設が間に合わず、臨時の「集合所」へと旅立ちました。立ち退きは、軍事にもっとも差し障りのある地域から始まりました。

近くに海軍基地のあるベインブリッジ島には、3月24日、いち早く立ち退き令が貼られました。ベインブリッジ島はシアトルから西へフェリーで30分の所にあり、当時約250名の日系人が主に農業や漁業にたずさわって暮らしていました。持って行けるものは自分で持てるだけのもの。寝具、洗面用品、衣服、食事用のナイフ、フォーク、スプーン、お椀とコップを持っていくように指示がありました。短波ラジオやカメラは禁制品です。出発は3月30日月曜日、午前11時となっていましたから、準備の時間は一週間もありません。

農地、トラックター、農具、家、家具、衣服、台所道具などを、売るなり貸すなり預けるなり、準備が始まりました。準備期間は所によって違いましたが、長くて数週間でした。一番短かったのは、2月25日に立ち退き令がでたカリフォルニアのターミナル島です。与えられた時間は48時間。そう2日だけです。

ターミナル島に居あわせたのが、ジャンヌ・ワカツキの家族でした。家族は父親が連邦捜査官に連れて行かれた後、兄弟のいるターミナル島に移ってきていました。「数週間まえから、中古品を扱う商人たちが、狼のようにあたりをうろつきまわって、遅かれ早かれ、わたしたちが売りに出さないわけにはいかなくなる家具や品物をひどい安値で買いたたいていた」と著書「マンザナールよさらば – 強制収容された日系少女の心の記録」(権 寧訳)に書いています。ジャンヌのお母さんが大切にしていた「ほとんど透明な、青と白の古いすばらしい磁器のセット」をどうしても持っていけなくなった出発の朝のことを、当時7才だったジャンヌは鮮明に覚えています。

ひとりの商人がそれに15ドルの値をつけた。ママはそれは12個揃いのセットで,少なくとも200ドルはするはずだといった。男は15ドルがつけられる最高の値段だという。ママは身震いしはじめ、男をにらみつけた。わたしたちがなぜまた引っ越すのか、なぜ忙しそうに立ち働いているのかを理解できない祖母をなだめながら、一晩中かかって荷造りをおえたママは、ヒステリー状態になっていた。いまや、海軍のジープが通りをパトロールしていた。ママはそれ以上なにもいわずに、男をにらみつけているばかりだった。怒りとやるせなさが、ママの眼から男へと伝わっていった。

男はしばらくママを見つめていたが、17.5ドル以上は絶対に出せないといった。するとママは赤いビロードの箱のなかに手を入れて、お皿を一枚とりだすと、男の足もとに投げつけた。

男は跳びさがって叫んだ。

「おい、おい、そんなことはやめてくれ! 値打ちのある皿じゃないか!」

ママは、身動きもせず、口を結んだままただ身を震わし、あとずさりする男をにらみつけながら、またお皿をとりだして、一枚、また一枚と床に投げつけた。その頬には涙がながれていた。…… 商人が立ち去ってからも、ママはそこに立ったまま、湯呑みや鉢や大皿を砕き割りつづけた。そしてついには、磁器のセットすべてが、床のうえに青と白の破片となって散らばった。1

ヘンリーのお父さんの食料雑貨店は、前の年に冷蔵庫やキャビネットなどを9千ドルかけて新しくしたばかりだったのですが、お店と在庫とあわせて、いくらだったとおもいますか?全部で、たったの400ドル。2

仏教会や教会が荷物を預かってくれた所もあります。ブリードの家も広くはなかったのですが、子どもたちの大切なものを預かりました。テツゾウはなにを預けたと思いますか?

ぼくは数学、科学、語学等の大学受験用参考書や種々の手引書、その他の本を小さなリンゴ箱に入れ、自分の小さな図書館としていましたが、持って行けなかったので、ブリードさんがその「図書館」を管理してくれました。封をした箱を、ぼくがサンディエゴに戻ってくるまで取っておいてくれました。3

ヘンリーの学校では強制収容所行きの話はしないように言われていました。でも、新しい友達は知っていたようです。ホームルームの時間に、先生が「この中の何人かにとっては、明日が最後の日です」と言った時、彼は急に立ち上がり、「僕がアメリカにやって来たのは、決してこんなことが起こるのを見るためじゃない。何が起こっているのかわからないけど、こんなことのために来たのではない」と話はじめました。4

ヘンリーと同じ中学校のエヴァンソン先生のクラスでは、日系の子どもたちがサイン帖にその時の気持ちを書き残しています。

 ……友だちにも、先生にも、わたしの学校にも会えなくなるし、シアトルを離れたくない。でも、わたしにも、(わたしたちにも、)誰にも、どうする事もできないのです。…… 
                          アイ5

 ……シアトルから立ち退かなくちゃいけなくなった時でも、僕はここで生まれたので、そうすぐには行けません。でも、僕の通っていた小学校とワシントン・ミドルスクールの先生の事は忘れません。みんなとても親切で、たくさんの事を教わりました。これからも、シアトルの先生のような、いい先生に出会えるように願っています。僕はアメリカ人です。
                          ハルオ 6

……立ち退きは悲しいです。勉強出来なくなるし、先生方、ともだち、それにシアーズ校長先生にも会えなくなるので寂しいです。政府が言っているように、収容所に行く方がいいのかもしれません。でも勉強を続けられるように、学校があるといいなと思います。先生もご存知のように、シアトルはわたしの故郷なので、離れるのは悲しいです。戦争が早く終わってほしいです。そうすれば、ここに帰ってこられて、大好きなワシントン・ミドルスクールに通う事ができるから。…… 
                          カズコ7


5. 行き先の分からない旅立ち<1942年春から初夏にかけて>

ベインブリッジ島フェリー桟橋

桟橋には楽しかった試合の思い出を胸にした六人の選手もいました。立ち退きの4日前におこなわれた野球試合についてメアリー・ウッドワードはこう回想します。

ベインブリッジの日系人は、3月30日までに全員島から撤去すべし、との立ち退き令が届いたのが24日でしたから、あれは26日だったと思います。強敵でライバルでもある、となり町の北キットサップ高校とベインブリッジ高校との野球試合がありました。シーズンオープニングの大切な試合でした。チームには負けん気の強いアール・ハンセン選手もいましたが、みんなにミラー父ちゃんと呼ばれているコーチのウオルター・ミラーは、すべての日系の選手をフィールドにだし、試合中選手交替は一度もしませんでした。六名でしたね、中にはいつもベンチに座ってばかりの選手もいましたが。

結果ですって。それはもう15対0ぐらいのさんざんなものでしたけど。8

メアリーの父親で、新聞記者のウオルト・ウッドワード9も試合に来ていました。ウオルトの言葉です。

試合の後、失意のキャチャーが、まだ重い用具をつけたままトボトボとロッカールームへの廊下を歩いている時、どこからかブロンドの女子学生が現れ、彼に追いつくなり、しずかに彼の汗臭い用具の上から両手をまわしてキスをし、泣きながら走りさったのを、たまたま目にして、悲しいのは日系人だけじゃないのを知りました。10

サンタフェ駅

4月7日、強制送還される日系人でごったがえす構内に図書館に来ていた子どもたちを探すサンデエゴ市立図書館児童室担当司書、クララ・ブリードの姿がみえます。子どもたち一人一人に、1セントの切手を貼り自分の住所を書いた葉書を渡しながら「私に手紙を書いて。キャンプのようすを知らせて。本をおくるわ」と、これからどこに行くのかも、どの位で帰って来られるのかも分からない子どもたちを励まし続けました。11

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注釈:

1. ジャンヌ・ワカツキ・ヒューストン+ジェイムズ・D・ヒューストン著、権 寧訳「マンザナールよさらば———強制収容された日系少女の心の記録」現在史出版社 1975

2. Henry Miyatake, interview by Tom Ikeda, March 26, 1998, Densho Visual History Collection, Densho. 

3. 前掲「親愛なるブリードさま」

4. Henry Miyatake, interview by Tom Ikeda, March 26, 1998, Densho Visual History Collection, Densho. 

5. Scrapbook Entry, dated April 17, 1942. Ella C. …

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