Yuri Brockett

東京での大使館勤務後、夫の大学院留学のため、家族で渡米。ニューヨークでは子育ての傍ら大学で日本語を教え、その後移ったシアトルではデザインの勉強。建築事務所勤務を経て現在に至る。子どもの本、建築、かご、文房具、台所用品、旅、手仕事、時をへて良くなるもの・おいしくなるもの…の世界に惹かれる。ワシントン州ベルビュー市在住。

2015年2月 更新

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おばあさんの手紙 ~日系人強制収容所での子どもと本~

第三章 荒野の強制収容所:1942年から1946年にかけて — 前編(3)

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学校のない九月———

アメリカの学校の1年は6月に終わり、約3ヶ月にも及ぶ長い夏休みをはさんで、9月から新しいスタートを切ります。9月、夏の間に大きくなった背丈に見合う新しい洋服とノートや鉛筆を用意してもらい、久しぶりに友だちと再会するのは楽しみです。しかし、1942年の9月は、強制収容所に移ったばかりの日系の子どもたちにとっては勝手が違いました。シアトルで通っていたガーフィールド高校のウィルス先生にあてたマサオの手紙から。

親愛なるウィルス先生、

今、僕は何もすることがなく、ミニドカ転住所の中にいます。仕事をしようと思ったのですが、面接係官に高校を卒業するまで待つように言われました。学校といえば、ほんの3ヶ月前には、夏休みにはいるのを心待ちにしていた学生達を、先生がまた教えられるのは素敵なことですね。

ここの学校はまだ始まっていません。実を言うと校舎も建っていません。僕たちの今住んでいるバラックが臨時の学校になる予定なので、すぐにもう一度引っ越ししなくてはなりません。なんと不便なことでしょうか。

学校の好きな僕としては、9月になって学校にもどらないというのは何とも変な気持ちです。変な気持ちと言うか、どうにも説明できない気持ちです。9月、夏が終わって学校でまたなじみの友達に会うのが大好きでした。どんなにその日を待ちわびていたことか。そのことと、シアトルのすべてのことを思い出すと、ホームシックになります。何といっても、シアトルとパシフィック・ノースウェスト地域に勝るものはありません。

本を読むか勉強することしかないので、手にはいる本は全部読んでしまいました。のどから手が出るほど本がほしいです……。
                                                                                 生徒の、マサオ1


新刊書を買うために———

コミュニティ図書館の蔵書の多くは、公立図書館からの貸出本や廃棄本だったので、新刊書はなかなか手にはいりません。そこで、司書は新しい本を買うための工夫をします。ポストン・コミュニティ図書館では有料図書と無料図書とを区別して、新しいベストセラーは有料図書で、1週間5セントで貸し出しています。読者からの貸出料が本の代金にまで達すると、以後その本は無料図書の棚に並べられます。こうして集まった貸出料で次の新刊書を買う仕組みです。ポストンプレス・ブルティンは、1942年9月1日の時点で50冊ほどの新刊のベストセラーが揃っているとしています。読書の秋です。2


ジャンヌの壊れた父親3———

まだまだ残暑の厳しい9月、ジャンヌの父はマンザナー強制収容所の家族のもとに帰ってきました。真珠湾攻撃の後、FBIに拘束され9ヶ月留め置かれたノースダコタ州ビスマークにあるフォート・リンカーン司法省管轄の抑留所から。

バスのドアがすっと開いた。わたしたちが最初に眼にしたのは、バスの暗がりから陽なたへ、おずおずと突きだされた一本の杖だった。しみがついていたけれど、磨きをかけられた、ふし穴が黒い眼のようにあちこちにあいている、まっすぐにのびた一本の、かえでの枝でつくられたぴかぴかの杖だった。

それから、中折れ帽によれよれの白いシャツを着たパパが降りてきた。……9ヶ月あわなかったあいだに、10歳も老け込んでいた。右脚をかばうようにして杖にもたれたパパは、やせ衰え、そのシャツと同じように生彩なく、60を越えた老人のようにみえた。……

この杖は、捕虜として生活する間に、父親が自分でつくったもので、両足を凍傷にやられた父親にとって無くてはならないものだった。凍傷になった原因については、一言も話さなかった。父親と一緒に住むようになって、ジャンヌは「にがりきって、物思いに沈む、暗いパパの存在」を重苦しく感じることになります。一日中部屋にこもって、食事は母親に運ばせる。少し多めのご飯や缶詰めのフルーツ・シロップを持ってこさせては自家製の蒸留器でアルコールを醸造し、一日中、ぐでんぐでんに酔いつぶれるまで飲み、あげくの果ては暴力をふるうことも。

……パパが孤独だったのには、もっと深い、醜い理由があった。ママとわたしが一緒に便所にいったある夜、わたしはそれをかぎつけた。その頃には、便所はひとつずつ仕切られていた。わたしたちが入って行ったちょうどそのとき、ママと同じ年令の、かつてターミナル島にすんでいた二人の女性が出てこようとしていた。

二人は戸口のところでぐずぐずしていたが、便所のなかにいたわたしには、二人がパパのことをひそひそと囁いているのが聞こえた。その声は押し殺されてはいたが、わたしたちには充分にききとれるほどの声だった。二人はさかんに、「イヌ」という言葉を使っていた。

ジャンヌは、その夜使われた「イヌ」という言葉の意味が、「密告者」だということを数年たってから理解します。抑留所で、ジャンヌの父親に何があったかは分かりませんが、「一家の稼ぎ手としての役割」を失った収容所暮らしで、多くの一世が家長としての威厳と権限を喪失してしまいました。


学校は始まったけど———

トパーズ強制収容所内小学校は、開校はしたものの、屋根にはストーブの煙突を取り付けるための大きな穴が開いたままで、壁に取り付ける内壁の石膏ボードを貼る作業もはじまっていない教室では、「授業をしようと努力してみたが、たくさんの砂埃が屋根の穴ばかりでなく、あらゆるところから部屋の中に流れ込んで来て、たちまち授業を進めることができなくなった」と、先生になったヨシコ・ウチダは言っています。秋の終わりには、屋根にある穴から雪が吹き込み、室内でコート、マフラー、手袋にブーツと完全武装をしていても、手がかじかみ、授業どころではなかったと言うのですから、子どもにとってはどんなにか厳しい状態だったことでしょう。11月半ばに休校状態になり、ストーブと内壁が装備されるまで学校閉鎖になっています。大人でも歩けないほどの砂嵐にあった日、ヨシコはこう記しています。

荒れ果てた環境、貧弱な教材・教具、それにこの場合、登校にあたって避けられなかった身体の危険にもめげない子供たちの勉強への熱意を目のあたりにして、いつものことながら、私は心を打たれた。この時は、子供たちの明るい活力に元気づけられたのだが、私はそれ以来、それぞれ自分たちの家庭からの強制立ち退きによって生じた、どうにもならないような心の傷が、これらの幼い人々の魂に癒し難い痛手を負わせていはしないかを心配するようになった。4


ブリードの心配
———

ブリードさんの子どもたちがいたポストン強制収容所で先生をしていたキャサリン・ハリスは、1942年当時、年給は1620ドルで、2年後、ネイティブ・インディアン政務局が収容所運営から手を引いた後には、高校の先生の年給は2000ドルだったと記録しています。5日系人の先生には、最高でも月19ドルしか支払われず、1年にして228ドルですから、約10分の1です。6

次にあげるのは、その頃の、ブリードへの子どもたちからの手紙です。「白人」という言葉が多くみられるようになり、どうもどの子も白人の方が日系二世よりも優れているように感じているようです。ブリードが心配したのは、先生への待遇の違いが、子どもたちの自尊心までむしばむようになるのではないかということでした。『図書館ジャーナル』に掲載した記事で「子どもや若者の人種に対する意識を、このように凝り固めてしまうのは非常に残念に思われます。これは強制立ち退き政策が避けては通れない落とし穴なのでしょうか。我々の戦争目的に沿ったものでしょうか?」と政府の人種差別的政策が及ぼす子どもたちへの影響を危惧しています。7

白人の先生がいる学校に戻れるのは本当にうれしいです。収容所の中と言ってもここは普通の学校で、出席すれば単位がもらえるのです。高校卒業までわずか1年しかありませんが、こんな機会を与えられて光栄です。
                              …

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おばあさんの手紙 ~日系人強制収容所での子どもと本~

第三章 荒野の強制収容所:1942年から1946年にかけて — 前編(2)

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収容所内新聞から見るコミュニティ図書館

各収容所では当初ガリ版刷で新聞が発行され、WRAからの通達からコミュニティ・ニュースまでを、各家庭に届ける重要な役割を担っていました。WRAは、この新聞にも、原稿をまとめた時点で、ロウ原紙に鉄筆かタイプライターで書き上げた時点で、そして、印刷した時点でと、3回も入念な検閲を課していました。マンザナーにあったのは、マンザナー・フリー・プレスという名前の新聞でしたが、ある被収容者は「なにがフリー・プレスだ。フリーなのは新聞が無料だってことだけで、言論の自由なんてないじゃないか」と憤慨しています。しかし、どこの家に子どもが生まれたとか、野外映画や図書館でのコンサートの予定などを知る、なくてはならないものでした。今回は、このコミュニティ新聞からコミュニティ図書館の成り立ちを探ってみます。

まず、収容所内の図書館について。WRAが外部からプロジェクト・ライブラリアンとして司書をひとり雇い入れます。その司書が収容所にある学校図書館とコミュニティ図書館をまとめる役と、高校図書館の司書とを兼任します。コミュニティ図書館の中に、英語図書館と日本語図書館があり、日本語図書館では日系人が司書をつとめ、絵画、お花、工芸の展覧会が行われたり、音楽鑑賞の夕べが催されたり、潤いのない収容所生活をひととき忘れられるような文化的空間をつくりあげていきます。

収容所で一番人気のある本は?———

どんな本だったと思いますか? ポストン・コミュニティ図書館司書、マベル・オオタによると、機械冷蔵の本が一番人気があったとのこと。1この記事を初めて見た時、冗談だと思いました。みなさんが収容所に入れられたとして、そこで読みたい本は機械冷蔵の本ですか?単調な収容所生活のスパイスになるよう新聞編集者たちは時々軽いユーモアのある記事を入れていたので、今回もそうかなと思ったのです。こんな具合です。 

<迷い子———パパの料理にそっぽを向いて新しい食堂に>

バラック番号33-13-4に住む2歳のヴァージニア・フジイと隣の2歳半になるキンゴ・ハンカワは先週の日曜日の朝、行方不明になり、双方の親は二時間にわたりハラハラした時を過ごしました。

……警察も迷い子探しに呼ばれ、キャンプ内を隅々まで探しました。二人の子どもは正午ごろ、やっと見つかりました。21食堂で静かにランチを食べていたのです。ヴァージニアの父親、マック・フジイは33食堂で働いていますが、自分の子どもが父親の料理を見限って、他の食堂に行くなんて、と少々おかんむりのようすです。2

で、長いあいだ、機械冷蔵の本のことが頭にあったのですが、やはりあれは本当でした。同じアリゾナ州にある、フェニックスから南西に車を走らせて約1時間、ネイティブ・インディアン保留地にできたヒラ・リバー強制収容所では、夏の平均気温が摂氏40度、時には52度に達することもあります。そのために、この収容所は、屋根が二重構造になっています。それでも、この暑さはしのぎにくく、手近にあるものでクーラーを拵えています。他の収容所でも機械冷蔵の本を読んでクーラーを工夫していたのでしょう。ジーンの本にこんな記載をみつけました。

夏の暑さをしのぐために、ほとんどの家庭がクーラーを取りつけた。クーラーといっても箱形の木枠に藁の筵をかぶせたものである。水を筵の上から流し、枠組みの中に置いた電気扇風機を回して、水の浸み込んだ藁の隙間から、外の空気を部屋に吸い込む。この冷房効果は抜群だった。3


蔵書をふやすために———夏から冬にかけて

8月、開館を間近に控えたポストン第二図書館は、蔵書を増やすために、収容所内新聞に借用願いを掲載。みんなから特別に、図書館に本を貸してもらおうという試みです。図書館が借りた本は、装丁され特別な書棚におさめられて、館内だけの利用になる、と細心の注意をもって扱われるとしています。4

ミニドカ強制収容所では、本の収集係をしていた一世のヒロシ・ナガイは考えていました。多くの一世のために、ピュアラップ仮収容所で押収されていた日本語の本を核にして、日本語図書館を作りたいと。1942年10月14日付けの収容所内新聞でこう呼びかけています。

ピュアラップで押収された本は今、ミニドカに搬送中です。お手許にお返しもできますが、日本語図書館にご寄付いただければ幸いです。なお、立ち退きの際、シアトルに各自残して来た本を図書館にご寄付いただけるのであれば、郵送料はこちらで都合させて頂きます。

この呼びかけが功を奏したのか、ミニドカでは12月8日に日本語図書館が開館します。毎日、午前10時から正午まで、午後1時から5時まで、それに夕方6時から8時まで開館。当時、古典、小説、宗教書、詩から哲学書と約1000冊の本が書棚にならんでいました。収容人口が約1万人で、約70パーセントが二世と考えると3000人が一世です。それに帰米二世も日本語の本が必要で、最初の1000冊はすぐに書棚から消えたのでしょう。もっと蔵書を増やす試みがはじまりました。「もし各ご家庭から1冊ずつご寄附いただければ、蔵書は2000冊増えます。どうぞよろしくお願いします」と、1943年1月9日付けの新聞でナガイ司書は語っています。その時、ハシグチさんからH・イノウエ著『海賊』を、ドーゼンさんから野間清治著『講談俱楽部』を、モリさんから『移民史』を、マキノさんから夏目漱石著『彼岸過迄』をそれぞれ最近ご寄附いただいたとも言い添えています。5

一方、シアトル中央図書館の成人教育部長のアリス・フロストは、ミニドカのハント高校のライト校長から、手紙で、収容所内の学校図書館と成人学校用の本の供給について相談を受け、10月末に100冊に寄贈本を添えてミニドカに送りました。また、ライト校長から、日本語で書いてある本についても問い合わせがあり、フロストは「シアトルの日系人はすべてミニドカにいる訳だし、図書館でも本の置き場は少ないので、日本語で書かれた本はすべて収容所に送るのが妥当」と、図書館にあった173冊の日本語の本をすべて、収容所が閉鎖されるまで貸し出すことにしました。ストーブの石炭不足が危機的状況に達していた11月21日、シアトル図書館から日本語の本が届きましたが、これらの本も、収容所内で検閲委員会にかけられ、委員会で許可を与えられた本のリストをワシントンDCにあるWRA本部に送り、そこでも許可を受けなければならない、という長々とした手続きのあったことを、フロストはライト校長からのお礼の手紙で知ったのでした。6  

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注釈:

1. The Poston Information Bulletin, Vol. I  No. 21, June 5, 1942.

2. Manzanar Free Press, Vol. II  No.7, August 5, 1942.

3. 前掲「引き裂かれたアイデンティティ———ある日系ジャーナリストの半生」

4. Poston II Official Daily Press Bulletin, Vol. III No. 17, August 11, 1942.

5. The Minidoka Irrigator, Vol. I  No. 9, October 14, 1942.
    The Minidoka Irrigator, Vol. I  No. 25, December 9, 1942.
    The Minidoka Irrigator, Vol. II  No. 3, …

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おばあさんの手紙 ~日系人強制収容所での子どもと本~

第三章 荒野の強制収容所:1942年から1946年にかけて — 前編(1)

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またもや受け入れ準備不完全なまま、陸軍は「集合所」から人里はなれた内陸部にある「転住所」に日系人を移動させることを決行。ピュアラップ仮収容所から、普段使われていない古い車両で、2日間、窓のシェードを下ろしたまま、硬い座席に座って煤だらけになり、ようやくミニドカについた日系人を迎えたのは、見渡す限りの砂漠と砂嵐。1

それと、1942年9月10日付けキャンプ内新聞、ミニドカ・イリゲーター創刊号に掲載されたこの言葉でした。

我々がここにいるのは自らの意志によってではない。しかし抵抗によって、ここにいるという事実を変えることも、戦勝するまでい続けるであろうという可能性を消すことも、できるわけではない。我々一万の民が意を決するべきことは一つである。力を合わせ全力をもって、この不毛の地を住みよい共同体に生まれ変わらせることである。我々が自らに課した責務は、この異常な状況から可能な限り尋常な状況を絞り出すことである。オアシスを創ることが我々の目標なのである。「大地や自然と闘ったパイオニア達の偉業を再びここに実現する」ことが我々の大きな冒険なのである。

我々の未来は我々自身の手にかかっているのであり、絶望する必要など全くないのである。2

* * * * *

見渡す限りの不毛の地で、セージブラシュが突風にふかれ丸くなって地面にへばりついている。3生きているものといえば、セージブラシュとヘビやさそりなど砂漠に住む動物のみ。湿地帯にあるローワーとジェロームではダニと蚊の大群。夏は摂氏45度近くまで、冬は零下30度近くになる苛酷な気候。内陸部のワイオミング、アイダホ、カリフォルニア、ユタ、コロラド、アリゾナ、アーカンソー各州の10カ所に瞬く間に、収容人口1万人をこす「急ごしらえの人口の市」が現れたのです。

戦時転住局(WRA)が管理にあたり、キャンプ内には学校、病院、図書館、消防署、警察、郵便局……と、一般の市行政と同じような仕組みです。仮収容所の時と同じく、キャンプ内運営は日系人にまかされていて、選挙で役員を選んだ自治組織も発足し、消費組合も作られ、そのなかには売店、花屋、靴修理店、クリーニング店、時計修理店、理髪店、美容院、ラジオ修理店、通信販売サービス、眼鏡店、なんと鮮魚店までありました。

マンザナーには「子どもの村」という孤児院もあり、100人近い子どもたちが一緒に生活していました。ロサンゼルスやサンフランシスコの孤児院にいた子どもたちに、親をFBI(アメリカ連邦捜査局)につれていかれ孤児になった子どもたちも、事情があって親が育てることのできない収容所生まれの子どもが加わっています。子どもたちは、キャンプ内の学校にも通い、子どもの村以外の友だちもたくさんいましたが、院長のリリアン・マツモトが子どもたちと約束していたことは、「食事は必ずここで一緒に」だったそうです。4

  転住所 開所日 閉所日 最高収容者数
ワイオミング州  ハートマウンテン 1942年 8月12日 1945年11月10日 10,767 
アイダホ州  ミニドカ 1942年 8月10日 1945年10月28日  9,397 
カリフォルニア州   マンザナー 1942年 6月 1日 1945年11月21日  10,045 
 ツールレイク 1942年 5月27日 1946年 3月20日 18,789 
ユタ州  トパーズ
(セントラル・ユタ)
1942年 9月11日 1945年10月31日 8,130 
コロラド州  アマチ
(グラナダ)
1942年 8月27日 1945年10月31日 7,318 
アリゾナ州   ポストン
(コロラド・リバー)
1942年 5月 8日 1945年11月 8日 17,814 
 ヒラ・リバー
(ヒーラ)
1942年 7月20日 1945年 9月28日 13,348 
 アーカンソー州   ローワー 1942年 9月18日 1945年11月30日 8,475 
 ジェローム 1942年10月 6日 1944年 6月30日 8,497 
参考:http://www.janm.org/jpn/nrc_jp/accmass_jp.html


1. 1942年

子どもたちの強制収容所———夏から秋にかけて

子どもたちの生活が生き生きとした筆致で綴られている、ベーコン・サカタニのエッセイを見つけたのは、ビル・マンボーによるハートマウンテン強制収容所の写真集でした。これは、当時使われはじめたばかりのコダクロームで撮った物で、カラー写真です。もう少し後でその中の一枚をご覧に入れますが、まずは、カリフォルニア州ポモナ仮収容所からワイオミング州、ハートマウンテンに向かう汽車の中で13歳の誕生日をむかえたベーコンに、子どもたちの日常を語ってもらいましょう。

部屋の広さは7人家族で6メートルx7メートル。裸電球一つ、石炭ストーブ、モップ、ほうき、バケツ。この部屋に七つの軍隊用簡易ベッドをいれると、ほかにはなにもいれられないほどの大きさです。まあ、食堂とトイレ、洗濯場に近かったのが幸いでした。

最初は家族一緒に食事をしていましたが、まもなく子どもたちだけのグループができ、子どもたちだけで食べるようになりました。朝起きて、顔を洗いに行き、食堂に寄り、ひとりで朝ご飯をたべるか、そこに友達がいれば一緒に食べました。末っ子だった僕の仕事は、部屋を掃いてモップをかけることと、ストーブのために石炭用バケツを一杯にしておくことでした。石炭はバラックの側に積んであったので、そこまで行って補充すればよかったんです。それが終われば、一日中友達と遊んでいました。 …

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第二章「集合所」という強制収容所: 1942年春から秋にかけて (6)

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5. 図書館設立にむけて

各収容所で図書館をつくる動きがはじまります。ピュアラップ仮収容所の図書館設立に関わったマーガレット・ババ・ヤスダは当時十七歳でしたが、その過程を「草の根運動、ボランティア活動、(なんにもしないで)キャンプで腐っちゃうより何かしなきゃ、とみんなが考えた結果」と言います。タンフォランとポートランドの仮収容所図書館の場合をメアリー・オギがライブラリー・ジャーナル(1943年5月1日号)に寄稿した記事とツボイ姉妹のレポートに沿って設立当時の様子を追ってみます。


タンフォラン仮収容所図書館2

仮収容所に入って最初の数日は、みんな(過酷な状況に)うろたえた混乱の状態です。でも、なかにはすぐに率先して、人々の苦しみをやわらげる方法を考える人もいました。ミルズ・カレッジ卒業生のキョウコ・ホシガもそのような一人でした。身体的な苦しみではないんです。収容者はみんな、ここでは今までのような安楽さや便利さは望めないのはわかっていましたから。でも、7,800人の人が、知的で精神的な激励と刺激を求めていました。

ホシガ自身はだれが始めに図書館をつくることをすすめてくれたのかは覚えていません。どうやって進めていったらいいのかもわかりませんでしたし、自分でする自信なんてありませんでした。でも、ミルズ・カレッジ図書館のエブリン・スティール・リトル司書からの寄付やアドバイス、励ましを受けて、ただ前に進んでいました。」と、話しています。3

収容者から寄付された65冊の蔵書と雑誌を床の上に並べて、5月4日に図書館オープン。なんと、ホシガがこの収容所に着いて7日後です。子どもの本は絵本四冊とコミックブック10冊だけ。まだ、本のカタログも出来ていないし、棚や備品もない状態でしたが、今すぐ本を提供する必要性を優先したのです。

子どもたちにとって、図書館はキャンプの中で最も収容所らしくない所の一つでしたから、子どもたちが図書館に集まるようにいろいろな工夫がなされました。図書館員は庭仕事にまで手をそめ、図書館の入り口の殺風景なバラックの壁一面に朝顔を咲かせたり、小学生たちが先生と一緒に図書館にやって来て司書と親しくなるような機会をつくったり、土曜日に読み聞かせの時間を設けたりしていました。同じキャンプで小学校の先生をしていた、ヨシコも読み手の一人でした。

オギは、収容所内図書館の第一の目的は、収容所内のモラルを維持すること、非行に走る傾向の防波堤になること、子どもたちに有意義な時間を過ごす方法を提供することで、通常の娯楽や勉強のための本の貸し出しは二の次だったと記しています。

6月、軍は日本語で書かれた本や雑誌を禁制品とし、没収しました。一冊あった菊池寛の小説もとても需要が高かったのですが、取り上げられてしまいます。一世は「本に関しては孤児になった」状態です。

その後、心をよせてくれている司書のいる図書館や学校から本が届き始めます。サンマティオ・カウンティ図書館のクララ・B・ディルズ司書は何回も訪ねてきて、400冊以上の廃棄処分本をもってきてくれました。9月1日の時点で、蔵書は6,000冊になっていました。

けれども、また、旅立ちの準備が始まります。本棚から丁寧に釘をぬき、木材を外し、それを利用して今度は木箱をつくり、本を詰め、次に行く強制収容所におくるのです。


ポートランド仮収容所図書館4

5月、ポートランド仮収容所の中でも、図書館設立にむけての動きが始まっていました。強制立ち退き直前までポートランド市立図書館でページ5をしていた二世のツボイ姉妹のヤスコとハルコです。ポートランド図書館協会は、立ち退きの噂が立ちはじめたころから、立ち退きが数日以上になる場合は本の援助をすると約束していたので、スムーズに行くかと思えた図書館設立ですが、大きな障害が二つありました。一つは、戦時民間人管理局にとっての、レクリエーションの主な目的が、不平不満をいう元気もないほど身体を疲れさせるためだったことです。野球、バスケットボール、バレーボール等が注目を浴び、それにくらべれば、図書館はあるに越したことはないけれど、明らかに贅沢だと消極的な態度でした。もう一つは、木材の不足。それで、図書館設立の許可を得るのと、棚をつくる材料の手配をしてもらうのがむずかしかったのです。

一週間、いろいろな部署をまわって協力を訴えましたが、効果がなく、結局エミル・サンドクイスト所長に直訴することにしました。何百人もの子どもたちが、することもなく無為に時間を過ごしていること、地域の図書館の協力は得ていること、私たちはもう一度図書館で働きたいと思っていることを力説し、今必要なのは少しの棚だけ、と説明すると、興味をもって聞いてくれていた所長は、すぐに棚をつくるように指示してくれました。

5月14日金曜日、まだ棚は完成していなかったのですが、ポートランド図書館協会から1,000冊の本が届きます。本をみた人たちは、口々に「一冊でいいから」「すぐに持ってくるから」と訴えたので、待ってもらうのが大変でした。なんとか、夕方までには棚もでき、本のカタログもでき、次の日の土曜日の午前中に本を棚にならべ、午後から本の貸し出しを始めました。正式には5月16日オープンですが、「今、みんなには本が絶対に必要」と思ってのことでした。一週間目のおわりには、図書館の棚の本がすべて無くなるぐらいの大盛況で、すぐに子どもたちがこの図書館の一番の利用者になります。遊ぶこと以外何もすることのない子どもたちは、一日に何回も図書館を訪れ、多くの子どもたちは一日に二冊は読んでいました。子どもの本が400冊あったのですが、そういう事情で子どもの本の貸し出し期間は一日だけになりました。

ツボイ姉妹は、一週間目にうけた熱狂的な支持で、収容者の精神的な糧としての適切な本の必要性を確信します。ふつうに仕事をしていた日常から、突然なにもすることのないキャンプに投げ入れられたのですから、身体的な活動ばかりでなく、精神的な活動も欠くことができなかったのです。サンドクイスト所長も、図書館設立を「このキャンプでこれまで起こった一番いいこと」と述べています。ポートランド図書館協会は仮収容所図書館を分室のように考えていて、本の配達を毎週予定していましたが、戦時下でガソリンとタイヤに制限がかせられたため、本の配達は月に一度になりました。6

ツボイ姉妹のレポートは、収容所内の人々の年代にもふれています。3,500人の収容者のうち1,000人が親の世代です。収容された人々の平均年齢は17歳から19歳ですから、二世の若者や子どもが大多数です。大学卒が55人、立ち退き前までは大学生だった人が75人、ある時期大学に通っていたことがある人が40人。それから高校を卒業したばかりの学生のうち、約200名は学生転住委員会7を通じて、秋から大学に行く申請をしています。これらの数字から、アメリカの同じ規模の町と比べても、日系人は平均以上の高学歴だと言えます。

秋、内陸部にある「転住所」に移る日が近づいてきました。「今度は10,000人の大規模なコミュニィティですから、今まで以上に難しい問題があるでしょう。しかし、また本を手にいれることができ、新しい図書館を作れるように希望します。最後に——ポートランド図書館協会の助けがなければ、この図書館は実現出来ませんでした」との感謝の言葉で、ツボイ姉妹のレポートは終わっています。

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注釈:

1. Wertheimer, Andrew B. Japanese American Community Libraries in America’s Concentration Camps, 1942 – 1946. [Doctoral dissertation] University of Wisconsin-Madison: 2004.

2. Ogi, Mary. The Tanforan Assembly Center Library. Library Journal. Vol. 68, May 1 1943.

メアリー・オギは、収容所を出てから、デンバー大学で図書館学を勉強しました。この記事はその時期に書かれました。     

3. Wertheimer, Andrew B. Japanese American Community Libraries in America’s Concentration Camps, 1942 – 1946. [Doctoral dissertation] University of Wisconsin-Madison: 2004.

4. Tsuboi, Yasuko Fukano. “Yasuko …

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第二章「集合所」という強制収容所: 1942年春から秋にかけて (5)

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訪問者

ある日、高校生のフランク・ヤマサキのバラックに、メッセンジャーがやってきて、外部からお客様だと伝えます。ピュアラップは、この日は雨じゃなかったようですね。

誰かなぁ……と、心当たりを色々考えながら行ってみると、クイーン・アン高校の先生でした。でも、その先生とはそんなに親しくなかったので、ちょっとびっくりしました。握手をして歩きはじめたのですが、先生はとても静かでした。しばらくして、「どこか座って話せる所がある?」ときかれたので、特別観覧席に案内しました。上の方に上がると、急にまわりの雰囲気がかわるのを感じました。そこからはキャンプ全体が遠近画法で描いた絵のように見渡せました。それまで、バラックがこんなに何列にも並んでいるなんて思いもしませんでした。ここ以外はどこも平坦なんですから。

…… 先生は第一次世界大戦中の経験を話してくださいました。先生はドイツ系で、お父さんが(アメリカの)収容所に入れられたとのこと。同じような経験をなさっていたんです。こんなことが起きるなんて、けしからんことだ、とおっしゃいました。その時、僕ははじめて事の重大さを感じました。それまでは、のんきなティーンエージャーでした。

…… 先生は(戦争中のことを)聞かれ、長い間その痛みをかかえていらして、だから僕にもその話をしておかなければと思われたのでしょう。本当にあった話です。ひどいことです。僕はまだまだ無知で憲法についても何も知らなかったけど、先生に会ったその時、ぼくの人生の新しいページが始まりました。いま起こっていることを、いままでと全然違う見方でみることができるようになりました。2

ブリードも、六月にミルウォーキーで開催された全米図書館協会の会議3に出席した帰りに、サンタ・アニタを訪ねています。

午後一時半きっかりに、テツ(テツゾウ)と妹のヤエコがルイーズ、マーガレット、フサと一緒に面会室に入って来た。クララはまず彼らがみんな日焼けしているのに驚いた。彼らと再会できて心からうれしかったが、どこかぎこちなさもあった。大きなテーブルを隔てて世間話をするのは容易ではなかった。彼女は、手に抱えられるだけの本と雑誌、それにキャンディも少し持参していた。衛兵の検査を経た後で、それらの品々は子どもたちに渡された。

テツは彼女のミルウォーキーへの旅行がどうだったか知りたがった。フサは、サンディエゴの様子が変わったかどうか聞いた。…… クララにもたくさん聞きたいことがあった。ジャック・ワタナベをみかけたか。キャサリンはどうしているか、など。…… 「ディビットやエリザベス・キクチはどうしてるの?」クララがちょうどその質問をした時、衛兵から「そこまで。面会時間終了!」と告げられた。4

サンディエゴへ戻ったブリードへ、早速、7月15日付けでルイーズから手紙が来ます。

面会においでくださった日を忘れることができません。ほほ笑んでいるお顔を拝見して、胸が張り裂けそうでした。ひょっとしたらもう二度とおあいできないのではないかと、そんな気がしたのです。お元気そうでうれしく思いました。

おいしいキャンディ、石けん、それに最高におもしろいご本をほんとうにありがとうございました。『ペギー、ワシントンとロンドンを取材する』と『少女記者ペギー』を読み終えました。エンマ・バグビーの本はとてもおもしろいです。5

新米レポーター6

どこに行くのかも、どのくらいで帰れるのかもわからない旅立ちの直前、ベインブリッジ・レビュー紙の編集長ウォルト・ウッドワードは、ベインブリッジ高校のポール・オオタキをレポーターに任命し、この新米レポーターに指示していたことがありました。「何をしたのか、付き添いの兵隊はどういう風に日系人に接したのか、お年寄りの一世はどうだったか、行く時にだれも病気にならなかったか……こんなことを五十字程度の記事にして、到着地に着いたら、特定の兵士に渡せ」と。ウォルトはその兵士にそれをAP通信の電報でレビュー紙に送るよう頼んでいたのです。

ベインブリッジ島を出たフェリーは、穏やかで美しいピュージェットサウンドをすべるようにシアトルに向かい、日系人はシアトルで待たせてあった汽車に乗り込みました。汽車が走り出したとき、ポールは高校のクラスメートが何人か汽車の側を走りながら手をふっているのを見てびっくりします。わざわざシアトルまで見送りにやって来てくれたのです。その後、2日間ブラインドを下ろしたままの汽車にゆられ、バスに乗り換え、4月1日のお昼すぎ、マンザナー仮収容所に到着。ベインブリッジの日系人がこの収容所に監禁される第一号になりました。その時のポールの印象です。

僕たちの心は今まで以上に沈みました。僕たちを連れて来てくれた兵士さえも、今見ているものが信じられないようでした。僕たちを残して帰って行く兵士の何人かは目に涙をためていました。

ポールの記事第一号は「みんな元気で着きました」とか、「みんな旅を楽しんだようですが、島の友だちのことをおもいだします」とか「汽車の中では、グループで歌をうたったり、トランプ遊びをしたり、引率の兵士たちと話したりしていました」と当たり障りのないものでした。しかし、何十年もしてから、ポールはその当時書かなかったことも記録します。

最初に立ち退かされた僕たちは、モルモットでした。島の多くの人は、何週間かここに居て、家に帰れると思っていたのですが、あの鉄条網を見た時には…… 最初のランチはひどかった。缶詰のほうれん草……陸軍のトラックと同じダーク・グリーンの…… でも、もっとひどかったのは、この最初の食事で病気になったことです。多くの人が下痢でたいへんでした。毒をもられたと思った人もいたくらいです。どうしてこんなことになったかというと、後でわかったのですが、キッチンの仕事をする人たちも慣れてなくて、使い始めだったお皿を随分つよい洗剤であらった後、すすぎが十分じゃなかったということでした。その頃、トイレはまだ完成していませんし、便器も洗い場も使えない状態で…… 順番を待つおなかをこわした人々の長い列ができました。なんというひどい第一日目。

どうしてウォルトが高校生のポールをレポーターにしたと思いますか?だんだん書く事がなくなったポールが締め切りを数回すっぽかし、記事のかわりに収容所内の新聞マンザナー・フリー・プレスを送った時、ウォルトから来た手紙の中にその答えがありました。

親愛なる怠け者へ、

おい、おい、マンザナー・フリー・プレスはとてもいい読み物だったが……一体全体、おれのマンザナー通信員はどこにいっちゃたんだ?

まじめな話だが、おいタフガイ、そちらのいろんな世間話を島に送ってくるのをやめたら、君は日系の人々にたいへんな損害をあたえることになるだろう。この戦争のごたごたが終わって、みんながまた家に帰ってきたいと思った時に、島の大多数の人は、諸手を上げて歓迎するだろう。しかし、そう思わない人や理解出来ない人は歓迎しないだろうし、実際に問題を巻き起こすだろう。

しかし、もし、毎週毎週、レビュー紙上で、君が、日系人はほんの少しの間そこにいて、まだこの島が家だと思っているという印象を与え続けておけば、問題を巻き起こすのはすごく難しくなる。そして、どんなに小さいことでもいいから、日系人のみんなが島のことを思い出しているということを、探して書いてくれたら、もっと難しくなる。僕の考えていること、わかるだろう?

だから……怠け者のレポートはこれまで。オオタキを第一線に戻そうじゃないか。7

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注釈:

1. 第一次世界大戦中、アメリカにおいて、4千人以上のドイツ系アメリカ人が収容所に入れられています。

2. Frank Yamasaki, interview by Lori Hoshino and Stephen Fugita, August 18, 1997, Densho Visual History Collection, Densho.

3. この全米図書館協会の会議で日系人の強制収容について話しあったのは、児童図書部が行ったシンポジウムだけでした。このシンポジウムにおいても、強制収容する国の方針に真剣に疑問を持つものから、国の安全のためには必要だ、とするものまで、意見はわかれ、全米図書館協会としての公式見解は出せませんでした。プラマー・アルストン・ジョーンズ・ジュニアは、論文の中で 「第二次世界大戦中、公立図書館コミュニティは、日系アメリカ人の強制収容に関し、不思議なことに沈黙を守っていた」としています。多くの場合収容所に本を届けたのは、個人の司書が、個人の責任で勇気をもってしていたということです。

Freeman, Robert S. & Hovde, David M.(Eds.), Libraries to the People: Histories of Outreach. Jefferson: McFarland & Co. Inc., 2003.

また、この会議では、コルデコット賞の受賞式もありました。毎年もっとも優れた絵本にあたえられる賞ですが、1942年はロバート・マックロスキーの『かもさんおとおり』が受賞しました。この年の選考委員の中にはブリードもいましたので、『かもさんおとおり』をとおして、わたしたちもブリードとつながっていると思うとうれしいですね。

4. 前掲「親愛なるブリードさま」

5. 前掲「親愛なるブリードさま」

6. Seigel, Shizue. In Good …

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