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一世の記録を拾い集めた男 ~加藤新一の足跡をたどって~

第13回 父に呼ばれてカリフォルニアへ

加藤新一の父、松次郎の渡米後の足跡を追ってみよう。1900年、松次郎が日本のどの港から出て、アメリカのどこに上陸したのかは定かではない。

新一本人が、「米國日系人百年史」のなかで記した自らのプロフィールでは、松次郎は渡米後「中加フレスノで日本飲食店、後ちパレヤで農業を営み、……」とある。しかし、甥の吉田順治さんによれば、「最初は、どこか鉄道工事の飯場のようなところで、コックをしていたと聞いたことがある」という。

その期間が短かったから加藤は、父の経歴を省略したのかもしれないが、日本からの出稼ぎ移民が鉄道工事の現場で働いたのはよくあることで、その中には当然、北米への移民第一県の広島出身者も多く含まれていた。

アメリカでは、1840年代末からのカリフォルニアのゴールドラッシュをきっかけにフロンティアをめざして人々は西部へと流れ込んでいた。そのための交通手段として、大規模な鉄道開発がはじまり、大陸横断鉄道も5つのルートに分かれて建設されていった。

この工事を担ったのが、当初多くの中国系の移民だった。しかし、増加する中国人労働者が排斥されると、彼らに代わる労働力として勤勉で低賃金で働く日本人が注目された。

「日本人労働者を雇用するため、農園労働者より高い賃金を設定するとともに、太平洋沿岸諸港の旅館業者に募集を依頼したり、鉄道会社直属の募集人を沿岸諸港に派遣し、また、会社と契約した人夫請負業者を通じて調達した」(「広島県移民史」より)

請負業者はまた、労働者に同じ郷里の者を勧誘させて渡米させ、人材を集めるという方法もとった。こうして広島からも伝手を頼って鉄道工夫としてアメリカに渡ったものがいた。

松次郎がどういう経緯で鉄道工事の飯場で働くようになったのかはわからないが、そこには多くの同胞、あるいは同郷のものもいたのだろう。


ブドウ園など盛んなフレスノ郡へ 

松次郎は、鉄道工事現場のつぎに、新一も書いているように中部カリフォルニアのフレスノに移ったのだろう。中部カリフォルニアの当時の主要産業は農業で、ブドウや綿、柑橘類、メロン類、野菜、砂糖大根、米麦などあらゆる農産物を産出していた。松次郎はその主要都市であるフレスノでまず「日本飲食店」を営んだ。

フレスノ市(Fresno)は、サンフランシスコとロサンゼルスのほぼ中間に位置するフレスノ郡の中心都市。「米國日系人百年史」によれば、ここに日本人が最初に入ったのは1880年ごろで、日本にいたアメリカ人技師が帰国の際に従僕として連れ帰った二人の日本人男性がその嚆矢だった。二人はブドウ園で働いたのち、いったん帰国したが再びフレスノに来て土地を開拓し、ブドウ園を経営した。

また、広島県人がフレスノに来て商店を営むなどし、やがて同県人がつづき増えていった。日本人全体をみても、サクラメント方面や沿岸地方から入ってくる傾向がつづいた。1929年の現地日本人会の調査では、フレスノ郡の日本人は4,372人で、戸数は940にのぼっている。フレスノ日本人会も1909年に創立し、会員数は707人だった。

1914年にはじまった第一次世界大戦の影響で、ブドウの相場が高騰し、フレスノは経済的に活況を呈した。これだけの数の日本人が生計を営むのだから、日本人は一つのコミュニティーを形成し、さまざまな商業施設が誕生した。そうしたなかに松次郎の飲食店もあったのだろう。

飲食店経営のあと松次郎はパレヤに移って農業に従事する、と新一は書いているが、詳しくは触れていない。パレヤ(Parlier)とは、フレスノ市から30キロほど南東の場所で、この地方は、「中部カリフォルニアの日本村としてその名が高く」、農業の盛んな地だった。品質のいい作物が生産されていて、ブドウの値段では常に最高水準にあるほど、ブドウの産地として有名で、干しブドウも他の地方より土壌が肥沃なため優良品を産出するという。

1918(大正7)年、当地で農業をはじめた松次郎に呼ばれて、新一は広島からこのパレヤに渡った。

加藤父子が農業を営んだパレヤ(Parlier)の仏教会新会堂(米國日系人百年史より)


父の帰国後、進路を変える

パレヤにも広島県出身者は多く、「米國日系人百年史」で紹介されている“成功者”のなかには、たどった道筋と内容が松次郎と新一とよく似た者もいた。広島県安佐郡可部町出身の砂本格一氏は生まれが加藤新一と同じ1900年、また父親が、松次郎と同じ1900年に渡米し、鉄道工事に従事しその後パレヤとリードリー(Reedley)の境に土地を購入して農業経営を行った。

さらに、格一氏は父の呼び寄せにより渡米し父の事業を手伝う一方、勉学に励んだというが、これも新一が父の仕事を助けながら夜学などに通ったという点と似ているし、父母は帰国するが、格一氏だけ残るところも同じだ。あまりにもよく似ているが、呼び寄せによって家族で事業にあたるというのはよくあることだった。

ただ、松次郎が帰国すると、新一はパレヤにはとどまらず南へと移動、ロサンゼルス近郊の高級住宅地となるパサデナで、庭園業を従事する。どうしてパサデナに移ったのかはわからない。そして、この後新一の進路が大きく変わることになる。

本人が書いた経歴によれば、「一九二六年から羅府日米及び加州毎日新聞記者、一九三三年から南加中央農事会幹事、南加農会連盟支配人を勤め、その間朝の羅府農産物市況放送を創始、一九三七年から米国産業日報編集長、一九四〇年に『全米日本人産業総覧』を編集した。」とあるように、ジャーナリズムの世界に足を踏み入れることになった。

それ以後長年日米でペンを握ってきた新一だが、若い日に農業に従事した経験は誇りでもあったようだ。「米國日系人百年史」の新書版である「アメリカ移民百年史」(時事新書)の「はしがき」のなかで、新一は一世の苦労に敬意を表しながら自分自身についてこう書いている。

「内地生活当時、多くの交友と握手を交わしたさい、そのほとんどが私の手をあらためてながめ『君の手は新聞人には珍しい。まるで炭鉱労働者のようだ』といったほど、私の手の皮はこわばり、指はふしくれだち、いまも若い日の労働のなごりをとどめている。しかし、いまも少数ながら米土に生き残る一世パイオニアたちの『松カサ』のような手に比べれば全くものの数ではない。……」

(敬称一部略)

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© 2021 Ryusuke Kawai

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About this series

1960年前後全米を自動車で駆けめぐり、日本人移民一世の足跡を訪ね「米國日系人百年史~発展人士録」にまとめた加藤新一。広島出身でカリフォルニアへ渡り、太平洋戦争前後は日米で記者となった。自身は原爆の難を逃れながらも弟と妹を失い、晩年は平和運動に邁進。日米をまたにかけたその精力的な人生行路を追ってみる。

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