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The Nikkei of Latin America and Latino Nikkei

ウルグアイ日系社会の111年の足跡 — 第1部 日本人移住の特徴

「ウルグアイ〜日系人の歩み」の表紙、2019年モンテビデオ訪問、「平成苑」

南米にあるウルグアイ(正式名称:ウルグアイ東方共和国)は、面積は17万平方キロメートル(日本の約半分)ほどの小さな国で、人口は横浜市とほぼ同じ350万人である。この国が最近日本で話題になったのは、2016年にホセ・ムヒカ元大統領が来日したときであろう。この時ムヒカ元大統領は、東京外国語大学で講演をし1、テレビで「世界でいちばん貧しい大統領2」としてとても質素で気さくなところを紹介された。また最近では、赤身の「ウルグアイ産牛肉」が焼肉チェーン店や肉専門店に提供されていることでも注目を浴びている3。 

しかしこの国にも、現在350人前後の小さな日系社会が存在していることはあまり知られていない。しかも日本人が最初にウルグアイへ移住したのはブラジルと同じ1908年で、すでに113年の歴史を持っていることになる。また、日本人移住110周年の2018年12月には、安倍総理が日本の内閣総理大臣として初めてウルグアイを公式訪問し、現地の日系人らと懇談の機会をもった4

ブラジルとウルグアイへの日本人移民の歴史の始まった年が同じなのは、偶然であってもその背景には繋がりがある。20世紀の初頭、ウルグアイとアルゼンチンは東洋系の移民の受け入れにはかなり慎重で、法で禁止されていた5。1908年6月、隣国ブラジルのサントス港に約800人の日本人移住者(集団移住)を乗せた笠戸丸が到着し、ブラジルへの日本人移住が始まった。その数か月後、笠戸丸移住者の中の沖縄県出身者の一部がアルゼンチンに転住し、ブエノスアイレスの沖縄県民移住もこの年に始まったことになる。一方、当時のアルゼンチンは先進国で世界有数の購買力を持っていたため、ビジネス拡大を狙っていた日本の商社マンにとっても見逃せない大きなチャンスであった。

その笠戸丸には、サンパウロやブエノスアイレスですでに輸入雑貨店を営んでいた瀧波文平氏が乗船していた6。瀧波氏が最初に南米を訪れたのは1905年で、この時、後にウルグアイに派遣される坪田静仁氏も同伴していた。瀧波氏は日本の陶器や絹織物、絵画や東洋美術品の販売店をサンパウロとブエノスアイレスに開店しており、1908年に笠戸丸に乗船したのも、自身の貿易ビジネスのためであった。瀧波氏は、ビジネスをウルグアイの首都モンテビデオへ広げるため、当時ブエノスアイレスの「瀧波文平商店」で既に働いていた坪田氏をウルグアイのモンテビデオ支店長として派遣したのである。今でいえば「企業転勤」であるが、坪田氏はその後ウルグアイに留まりウルグアイ人女性と結婚し、家庭を築いたので、ウルグアイ移住者第1号ということになる。

私がウルグアイをはじめて訪れたのは2009年、第15回パンアメリカン日系人大会(COPANI)に参加したときである7。それ以来、日本で知り合ったJICA日系研修生などを通じてウルグアイの日系人と親交を深めてきた。昨年、モンテビデオの友人が2019年発行の「ウルグアイ〜日系人の歩み111(Trayectoria de la Comunidad Japonesa en el Uruguay - 111 Años de la Inmigración Japonesa en el Uruguay)」という記念史(以下「日系人の歩み」)を送ってくれた。この本には、53名の日本人および日系人のインタビューや、いくつかの突出したエピソードが紹介されており、戦前から戦後にかけての日系人の生き様を垣間見ることができる。

この53名の証言をみると、戦前、戦後にかかわらず、ブラジル、パラグアイ、そしてアルゼンチン等からウルグアイへ転住してきた者がかなり多いことが分かる。近年は、国際結婚やサッカー、ビジネスゆえにウルグアイに定住したケースが多い。戦前・戦後の移住者の多くは、花の栽培で生計を立ていたようで、ウルグアイの日本人移住者による花卉栽培とアルゼンチンとの繋がりが記されたものもありとても興味深く思えた。

花弁栽培に携わる移民の多くは、はじめはイタリア人等の小作人「メディアネロ(medianero)」として働き、次第に首都モンテビデオから16キロ西にあるパソ・デラ・アレーナ(Paso de la Arena)に集住し、花卉栽培を行うようになった。農園の広さは平均5ヘクタール前後で、ブエノスアイレスと同様に、戦前から切り花の販売に力を入れていたようだ。

戦後は、1980年くらいにコロンビアからの輸入花が入ってくる前までは、水木忠雄氏をはじめとする大規模花卉栽培者もいた。水木氏は、100棟の温室をもち、16ヘクタールの小菊を生産していた8。最も有名なのが高田直記氏経営の高田園で、ここには日本語学校もあり、運動会など日本の行事もあったという。

戦前から成功していた多数の先駆者がいたおかげで、日本から農業実習生として日系の花卉園で修行をするために移住しに来るものもいた。そして栽培方法を習得すると、多くは独立し自らの農園を始めたり、ブラジルやアルゼンチンから新たなカーネション、グラジオラス等の品種を持ってきたものもいる。日本に戻ったものも当然いるが、多くは南米に残った。

日本人会は1933年5月に発足し、初代会長として中村正介氏が選任された。発足当時の邦人会員数は10名だったが、翌年には22名まで増えたとある。1941年、移住者第1号の坪田静仁氏が日本人会会長として就任し、その年の11月にパソ・デラ・アレーナにあった三佐川氏園で第1回目の運動会が開かれている9。戦時中は、日本とウルグアイの2国間関係が中断されていたが、パラグアイやブラジルに行って結婚し、ウルグアイへ戻ってきたという日本人もいたようた。「日系人の歩み(2019年4月発行)」には「奇跡的にウルグアイに戻れた」との証言もあった。 

 終戦直後は日本人会の再開に慎重な声が多かったようで、当初は一部の日本人有力者だけが集まって行事や式典を行い、花束を送ったり寄付をするだけにとどまっていた。1952年、リゾート地として知られるプンタ・デル・エステで国際映画祭が開催され、日本の「羅生門」が上映された。この時、日本からたくさんの俳優がウルグアイを訪れたため、日本人会の会員とその家族が歓迎会を催し、これが戦後日本人会の再開につながった。この時期から農業実習生や新規の日本人もウルグアイに来るようになり、日本人会の活動も少しづつ増えていった。戦前から花卉栽培で成功していた山本久夫氏らが中心となり、日本人会の発展に尽力をつくした。

第2部 >>

注釈:

1. 東京外国語大学での公演映像:ムヒカ前ウルグアイ大統領講演会(同時通訳付) (2016年4月7日)

2.ホセ・ムヒカ氏は若いころ、妻と共に極左過激グループ「トゥパマロス」でゲリラ活動をしていた。ムヒカ氏は軍との武力衝突を繰り返し負傷、逮捕され、13年間以上投獄された。その後恩赦を受け釈放された。1985年から政治活動に従事し、2009年に左派連合から大統領職に就いた。「世界でいちばん貧しい大統領」といわれてはいるが、実際は貧しいわけではない。ムヒカ氏の妻ルシアさんも政治家で、上院議長及び副大統領職を務めた。そのため、彼女の給与だけで十分に暮らしていけたので、大統領に就任した2010年からは、ムヒカ氏は自身の報酬のほとんどを所属政党の財団に寄付し、社会福祉事業に充てることを臨んだ。また公邸には住まず、古い車に乗り、モンテビデオ郊外にある家で質素な暮らしを送っていたので、このように言われるようになった。2020年に二人とも政界を引退しのどかな老後生活を送っている。

3. 2019年5月チェーン店での初紹介: 「牛肉大国ウルグアイ産『超厚・熟成』サーロインの魅力を徹底紹介!(ブロンコビリー、2019年5月20日)

Natural Beefの紹介(脳畜産業機構) 「『Natural Beef』と形容されるウルグアイ産牛肉の特徴と対日輸出見通し

4. 安倍総理大臣と在ウルグアイ日系人・在留邦人との懇談 (外務省)

 タバレ・バスケス大統領との首脳会議 (外務省)

 ウルグアイ在留邦人・日系人 (在ウルグアイ日本国大使館)

5. アルゼンチンも東洋系の移住にはかなり慎重で、1905年に日本が日露戦争で勝利した後は日本人の存在を警戒する保守派政治家の言動も見られる。とはいえ、日本への関心と憧れも高まり、インテリ層や商人の一部が日本との関係を試みる時期でもあり、逆に日本から単独でやってくる商社マンも増えるのである。

6. 瀧波文平氏はブエノスに定住したことはないが、合計8回訪れている。長男の文雄氏はアルゼンチンに留まりその子孫は今もブエノスアイレスに在住している。1904年、ブエノスには15人の日本人が住んでおり、その10年後には1007人増えた。その後も隣国からの転住者が増え、小規模商社だけではなく都市部でカフェ経営などを行うものが多かった。

7. アルベルト松本、「モンテビデオCOPANIとウルグアイの動向に注目」(ディスカバーニッケイ、2010年5月20日)

8. 「日系人の歩み〜111年に移住史 Trayectoria de la Comunidad Japonesa del Uruguay, 2019.4)」(水木(田中)良子さんの証言、58ページ)

9.在ウルグアイ日本人会(編集:山本久夫、大野鬼生、梅木一男等)、「在ウルグアイ日本人会発展史」昭和48年(1973年)発行

 

© 2021 Alberto Matsumoto

argentine floriculture history Japan migration Uruguay

About this series

Lic. Alberto Matsumoto examines the many different aspects of the Nikkei in Japan, from migration politics regarding the labor market for immigrants to acculturation with Japanese language and customs by way of primary and higher education.  He analyzes the internal experiences of Latino Nikkei in their country of origin, including their identity and personal, cultural, and social coexistence in the changing context of globalization.