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坂本龍馬の開国論のその先に — ブラジル移民の祖、水野龍 ~その2

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明治の開国論から海外移住へ

年を経し醜(しこ)の醜草(しこぐさ)根をたえて
移し植えなん大和撫子(やまとなでしこ)

洋装に身を包んだ壮年期の水野龍(水野家所蔵)

スザノ福博村の大浦文雄さん宅には、水野の最晩年の直筆の、そんな短歌が額に入れて飾られている。大浦さんは、スザノ市の陸橋に水野龍の功績を顕彰してその名を付けた。そのお礼にと、水野龍の未亡人、万亀夫人が置いていったものだ。

古い伝統を持つ日本を「醜い草」に譬えるあたりに、切ない故郷の良い面、悪い面への愛憎の想いが120%込められている。その根を絶ち切って、新しい大地に移し植え、美しい大和ナデシコとして咲かせよう―そんな気持ちが込められている。

龍三郎さんの自宅を訪ねて、わかったことがある。屋台でヤキソバを作って売り、日々の生計を立てている質素な暮らしぶりだ。

あの水野龍の息子が「売り上げがよくない月には電気代が払えず止められたりするんです」とボヤく。その事実ひとつとっても、水野が子孫に財産を残さずに生涯を閉じたことが伺われる。水野は移民事業でボロもうけした人物ではない。

鹿児島大学(当時)の原口泉教授は、2010年10月20日にサンパウロ市で行った講演会「なぜ今、竜馬なのか」で、「もし龍馬が生きていれば移住や開拓に人生を費やしていた可能性がある。海外雄飛の想いが水野龍と共鳴しあっていたかもしれない」との見方をした。

「笠戸丸の時は、龍馬が生きていれば73歳」と原口教授。年齢的に渡伯はしなくても、移住事業にはなんらかの形で関わっていた可能性は否定できないという。

原口泉教授は著書『「龍馬の声」が聞こえる手紙』(三笠書房、2011年)の162ページで、龍馬が暗殺される年の3月に書いた手紙の《此度(こたび)ハ既に北行の船も借受(かりうけ)申候(もうしそうろう)》という部分を、意訳して《去年から始めようと思っていた北海道開拓の件、今度はすでに船も借りてあります》と紹介している。

龍馬は、日本の将来を左右するのは蝦夷地開発だと考え、《神戸海軍操練所時代には、すでに浪士を蝦夷に移して開発と防衛にあたる計画を立てていた》と解説する。

もし暗殺されていなければ、翌年の3月中旬から4月1日には出帆したいと傭船の段取りをしていた。それがうまくいっていれば、龍馬本人も時間の問題で、北海道へ渡っていただろう。

龍馬は暗殺される8日前、陸奥宗光宛に《世界に出るという話、うまくいくかわかりませんが、話は聞きました。最近はおもしろい話が山ほどあります》(同176ページ)と胸をときめかすように書いている。

蝦夷地開発、開国論の先には、海外移住という方向性があったに違いない。水野龍という土佐の侍は、そんな明治の獅子たちの一人だった。


坂本家は北海道、水野はブラジルへ

北添佶磨や、神戸海軍操練所の塾生であった望月亀弥太(もちづき・かめやた)などと共に、龍馬の蝦夷地(北海道)開拓への夢は1864年頃からあり、死ぬまで宿願だったようだ。

多くの人が死ぬ「戦の道」ではなく、蝦夷地に新しい世界(移住地)を作って新天地にするという平和的な解決法こそが、龍馬らしい考え方だったと原口教授は力説する。「もし彼が移住していればアイヌなどへの先住民差別もなく、より平和な世界になったかも」。

だが1867年11月15日に龍馬は京都・近江屋で暗殺され、翌年に明治政府成立。〝元年者〟と呼ばれるハワイ移民が海を渡った。原口教授は「当時、蝦夷へ行くのもハワイもグアムも、同じような感覚だった」という。

坂本家自体は1897(明治30)年、5代当主の直寛が一族を挙げて北海道に移住したため、高知には同家の人間はないという。

高知新聞の富尾和方記者は著書『南へ(高知県人中南米移住100年)』(高知新聞社、2009年)の中で、こう書く。

「同じ民権家で、北海道に渡った坂本直寛(なおひろ)は水野龍より六歳上。坂本の北光社開拓団は、水野のブラジル渡航より前に、浦戸湾を出て日本海ルートで北の大地に入植した。水野の伝記に坂本の記述はないが、坂本の挑戦を彼が知らなかったはずはないのではないか」

事実、龍三郎に尋ねると「親父から坂本龍馬の話はよく聞かされた」と答えた。直接に手紙のやり取りなどがあった証拠はないが、同じ時代に土佐藩に生まれた者同士であり、少なくとも水野龍の側が坂本龍馬から強い影響を受けていたことは間違いない。

ちなみに坂本直寛は、土佐藩郷士坂本家5代目当主であり、坂本龍馬は叔父にあたる。やはり自由民権運動家であり、キリスト教牧師でもあった。龍馬が目指そうとした蝦夷地開拓への想いは、龍馬の跡目を継いだ甥の坂本直(高松太郎)から、この坂本直寛へと引き継がれ、北海道に根付いていった。

きっと「開国論」「蝦夷地開拓」の先には、「海外移住」があったに違いない。ブラジルに移し植えられた美しい大和ナデシコは、社会の各分野で見事な華を咲かせている。

水野龍という人物は、偉人というには毀誉褒貶が多過ぎる。だが、明治維新の志士たちもけっして聖人君子ぞろいではない。むしろ、水野龍は「常識はずれな男」だったからこそ、当時、誰もやらなかったブラジル移民を始められたのだろう。

 

© 2016 Masayuki Fukaawa

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