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おばあさんの手紙 ~日系人強制収容所での子どもと本~

第五章 戦後の新たな出発:1945年以降(3)

第五章(2)を読む >>

2. 閉じた記憶をひもとき始めて <1960年後半から>

『マンザナールよ さらば』———ジャンヌ・ワカツキ

「ねぇ、おばさん、僕マンザナーってところで産まれたんだけど、どんなところだったの?」と、唐突に甥っ子に聞かれたの。実家の家族以外の者から聞いたはじめての「マンザナー」だった。そこでキャンプのこと、すごい砂嵐、まずい食事、どんな遊びをしてたか……を話していると、「おばさんたら刑務所にいれられたのに、何でもなかったように話して。強制収容されたことは、どう感じているの?」と。甥っ子にどう感じているのかと聞かれて、あれ以来抑えていた気持ちを、初めて感じることを自分にゆるした途端に、色々な思いがこみあげてきて、わっと泣き出してしまったの。1

この時大学で創造的作文法を教えていたご主人のジェイムス・ヒューストンに、「ジム、家族のために回顧録を書こうと思っているんだけど……」と相談すると、「え、なんの回顧録?」と。「すでに結婚して14、5年たっていたのに、あ、まだあのことは主人にも話していなかったんだ」とその時気づいたそうです。「それは家族のためだけじゃなくて、アメリカ人みんなが読むべき話だ。手伝うよ」とのジェイムスの励ましでうまれたのが『マンザナールよ さらば』です。1973年のことです。

自書『マンザナールよ さらば』を書くきっかけを話すジャンヌ・ワカツキ・ヒューストン(2012年)


『荒野に追われた人々』———ヨシコ・ウチダ

私はいつも子供たちに、なぜ、私が日系アメリカ人の戦時中の体験を述べた『トパーズへの旅』と『故郷に帰る』を書いたと思うかと尋ねることにしている。「収容所のことを知らせるためでしょう?」「自分がどんなふうに感じたか話すためじゃなくて? 日系の人たちに何が起こったのかを知らせようとしているんでしょう?」と、子供たちも尋ねてくる。

「そうなのよ」と答えるが、子供たちの一人が次のように言うまで話し合いをやめない。「これらの本を書いたのは、もう二度とこんなことが起きないようにということなんでしょう?」と。2


『引き裂かれたアイデンティティ』———ジーン・オオイシ

1941年12月7日、真珠湾に向って落とされた爆弾は、一連の事件を引き起こし、それがぼくから、ぼくの過去を、ぼくの両親、家族、そして子供らしさを奪ってしまった。ぼくから切り離された子供の部分は、ぼくの本質的な部分である。ぼくはその子供にヒロシという名をつけ、何とか彼を探し出そうと、これまで小説やノンフィクションの中で彼のことを書いてきたのだが、いつもするりと身をかわされる。

ヒロシのことを書き始めたのは1965年ごろで、第二次大戦によってぼくが真っ二つにされたのではないかと感じたからだった。アメリカ人としての半分は生き残り、日本人としての半分は衰弱し、やがて死んだと思っていた。ヒロシというのは、双方が一体化していた子供のころの最後のイメージだ。… ぼくの願いは、彼を自分の中に見ることなのだ… 3


『月のうさぎ』———エミ・オオモリ

どうして私が子供をうまなかったのか?

いままでは一人の人と安定した関係を続けられなかったからとか、お金がなかったからだと思っていた。

しかし、子供を産む年齢を過ぎた今となっては、もう一つの答えが浮かびあがってくる。

私のように、私の生んだ子どもはアメリカ人だ。

欲しくもない敵国の人種の身体に捕われたアメリカ人だ。

ただ顔かたちがちがうというだけで、わたしが受けた差別を受けないように、我が子がもう少し白い皮膚であってくれたらと願う、こんな気持ちを自分の子どもから隠し通せただろうか。4

エミ・オオモリが監督を務めたドキュメンタリー映画の冒頭です。オオモリは収容所に入れられた時、1歳でした。その位の年だった多くの子どもたちは「楽しかった」と語り監禁生活の影響は余りないようですが、エミの場合は違います。母親の死が大きく関わっているようです。

姉のチズはこう語ります。

うちの家族になにが起こったか、知っていますか?母は収容所をでて1年後、34歳で、突然、潰瘍出血で死んだのです。その時に、私たちの中で、すべての収容所の章の扉がとじられ、何年もそれを開くことができませんでした。なんだか母の死が、いままで受けたすべての惨い出来事に通じているような気がして。母は私たちのもとからいなくなった。母のこと、収容所のことに関しては一切話さないと心に決め、実際そうしてきました。父は、家の中に母のための仏壇を整えることも、写真をかざることもしなかった。母は消えた。母は火葬にされ、違灰は小さな壷に入れられた。私たち家族は母の骨壺とともに、収容所での思い出を意識の深淵にうめこんだ。あれから50年たち、母の骨壺はいくえがわからなくなった。5

第五章(4) >>

注釈:

1. http://www.calhum.org/experiences/interview-with-jeanne-wakatsuki-houston

2. ヨシコ・ウチダ著、波多野和夫訳「荒野に追われた人々—戦時下日系米人家族の記録」岩波書店 1985

3. ジーン・オオイシ著、染谷清一郎役「引き裂かれたアイデンティティ———ある日系ジャーナリストの半生」岩波書店 1989

4. Omori, Emi. (Director/Producer). (1999). Rabbit in the Moon [Documentary Film]. Wabi-Sabi Production.

5. Omori, Emi. (Director/Producer). (1999). Rabbit in the Moon [Documentary Film]. Wabi-Sabi Production.
母親の死が収容所生活のストレスに起因しているのは理解できても、父親の反応はどうにも理解しがたいものでした。しかし、カシマ教授の「収容所でなにかあったのかもしれない」との指摘で、そう考えれば父親のしたことにも少しは納得がいくような気がします。もう一つ興味深いのはエミとチズの見た、収容所経験を挟んでの、日系社会と父親の変化です。「姉のチズとは10歳しか離れていないのに、歴史は私たちを一生涯離れているように引き離した。戦争前の日系コミュニティは、戦後の私の知っているコミュニティではない。私の育ったコミュニティはばらばらで、刺々しくて、父は、もの静かで近寄りがたかった。戦前姉を育てた父は、生き生きとしていて、夢と希望に満ちていた。」

 

* 子ども文庫の会による季刊誌「子どもと本」第137号(2014年4月)からの転載です。

 

© 2014 Yuri Brockett

camps. Jeanne Wakatsuki Houston Emi Omori farewell to manzanar post-war Rabbit in the Moon

About this series

東京にある、子ども文庫の会の青木祥子さんから、今から10年か20年前に日本の新聞に掲載された日系の方の手紙のことをお聞きしました。その方は、第二次世界大戦中アメリカの日系人強制収容所で過ごされたのですが、「収容所に本をもってきてくださった図書館員の方のことが忘れられない」とあったそうです。この手紙に背中を押されるように調べ始めた、収容所での子どもの生活と収容所のなかでの本とのかかわりをお届けします。

* 子ども文庫の会による季刊誌「子どもと本」第133号~137号(2013年4月~2014年4月)からの転載です。