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朝鮮戦争を戦った帰米二世

朝鮮戦争に従軍した日系兵士は意外と多く、第100大隊、422部隊、MISの先輩に続けとばかり勇敢に戦い、246名もの尊い命を祖国に捧げた。この中に第2次大戦を日本で経験し、戦後米国に戻ってきた帰米二世達がいる。 その1人、鹿児島の万世町で幼少期を過ごした阿久根四郎氏に、スポットを当ててみたい。

阿久根四郎氏 

1930年8月2日、万世村小湊出身の阿久根一郎・ユキエ夫妻の四男としてターラック市で生まれ、3才のおり家族と両親の故郷に渡る。終戦の年の4月、三田尻にあった海軍通信学校に入学。卒業と同時に佐世保第2海兵団に配属、ここで終戦を迎え万世に帰る。50年6月20日の朝鮮戦争勃発のニュースを帰米途上の東京で知り、横浜から船で桑港向け発つ。

この時期の四郎(以下敬称略)の心理状態はどうであったのか?

-- 終戦で危ない命をとりとめたのに、徴兵義務のある米国に渡ったら、又戦争に参加する破目になる。それに僅かの5年で旧敵国の軍服を抵抗なく着れたのか...。

「米軍の兵士として太平洋戦線で戦った長兄と次兄が敗戦直後の日本にやって来た。ハリー(長兄)が父を訪ねてきたのが、万世が初めて見た米兵であった。この夜、日露戦争の勇士である父を囲んで、日本海軍の三郎(三兄)と私は敵であった兄を相手に、戦争の是非、日米の正邪をめぐって大激論になった。2対1であったが日米両方を識る兄に説得されたと言うよりも、談じている間の敗戦の重たさ空しさはどうしようもなかった。父は始終無言のままであった。

勿論私の廻りにも身内を前線や空襲で失った人々が沢山いたし、復員軍人も多かった。それでも颯爽とした米兵や、兄たちが語るアメリカの魅力にはどうしても勝てず、ただただ一筋に帰米の実現を希った」

1948年から52年にかけて大挙海を渡った在日2世(戦後帰米と呼ばれる)は、約2万人とも言われているが、大戦中に市民権を凍結されていたため、旅券入手には種々の手続きが必要であった。

米領事館で、四郎は若い領事から激しい言葉を浴びることになる。「君は祖国に銃を向けた一人。帰りたいなどとよく言えたものだ。」だが、15才前後での志願,復員。選挙権はない。万世の田舎では官職にもつけない。年齢が想いもしなかった味方になった。しかし、万世の横浜―桑港―羅府への旅は、やがて韓国へと繋がってゆくことになる。

念願の地に着いた四郎は、トーレンスのカーネーション栽培大手の「サンロレンゾ花卉園」で働くことになるが、米国様式や英語がいまだ身につかぬ51年2月21日に徴兵されFORT ORDに出頭する。

-- 通知を受け取ったときは?米軍生活の日々はどうだったか。

「長、次兄に口喧しく日系人としての心構えを言われ続けられたが、差別や実戦を体験しただけに迫力があり、お陰で慌てることはなかった。それに、1度は日本軍人として捨てた命ではないかと、そんな開きなおりもあったと思う。

そうそう、訓練中にマーチをやっている時だったが、脚の短い吾々は前についていくのに大変。それが逆になって後ろから追いつめられる。教官の軍曹が「ダブル・タイム」と号令するが訳が判らない。2度目の大声で立ち止まった私は「バブル・タイムとはなんですか?」と、やったものだから大変。行進は止まった上に白人兵たちは笑いだし、口笛まで吹く奴もでた。一大事になったと青くなったが別に何事もなく済んだ。これが日本海軍だったら半殺しにされただろうね」

僅か4ヶ月余の海軍だったが、例の精神棒の痛さ、辛さ。それに訳もなく上官に殴られた理不尽さに比べれば、言いかたは悪いかも知れぬがアメリカの方はピクニック並み。食事は豊富だし給料もくれた。ベーシック・トレーニングは何の苦労もなかったそうだ。

 6週間の基礎訓練をおえた時点の戦局は緊迫しており空路日本へ。そして佐世保から釜山に上陸する。米国陸軍第2師団歩兵9連隊第1大隊B中隊に配属された四郎は、朝鮮戦争の最大激戦地の1つ、38度線中東部の「ハート・ブレーキヒル」の戦闘に参加、全滅に瀕した中隊生き残りの1人になる。

「日本の軍隊で、「要領」と言う言葉を習った。なにしろ痛棒の恐怖から逃げるのに必死だったからね。」

前線へ出発の折り、上官から色々な注意、命令があった。その1つに、ここは暑いが山頂の夜は寒い。支給品は全部携帯しろ。だが、韓国の夏は暑く湿度も高い。おまけに急阪である。それに大半は新兵たちである。イの一番に四郎は毛布など余分の重みをほりだし、絶対品の武器と水だけの身軽になった。同僚たちは一斉に注意し不届きぶりを指摘したが、中途あたりから次々四郎に習いだした。体力の消耗は戦闘で死に繋がると気付いたからだ。それを眺めながら最後の一兵を待って、四郎は毛布を拾い寒い山頂の夜をぬくぬくと寝、体力を保存した。

やがて、B中隊は完全に敵に包囲され、3日3晩塹壕の中で援軍を待つことになる。梅雨時とあって全身水浸し。それに身動きも赦されぬ。

「当時の韓、朝両軍には旧日本軍兵士が多く、風に乗って敵側の声が届いてくる。『明日の総攻撃では皆殺しにしてやる』日本語だから意味が判る。可笑しなもので、かえって落ち着いてくる。今夜は大丈夫だ。明日に備えて良く睡ろうとね。これがベトナム語や中国語だったら、さぞ不安になったに違いない。ビクビクしながら質ねてくる白人兵に、この時ばかりは優位に立ったと変な気持ちだった。でもね。北鮮軍の万歳チャージは本当に怖かったよ。」

-- 夜は永い。この3晩何を考えていたか?

「色々なことが、本当に色んな事がね、次から次にね。不思議なんだが日本での事よりも,1年にも足りぬアメリカでの出来事が多く、加藤さん兄弟や山口さん達、ガーデナ、ロミタ、トーレンス在住の県人会の有志が開いて下さった出征壮行会。ガーデナ平原に当時1軒しかなかった奥田チャプスイで『勝って来るぞと勇ましく…』と、6年前に万世を出る日にも唄った歌を、送る方も送られる方も一緒に大声だした事とか。戦場で知りあったガーデナ出身の二世兵Aさん、英語に不自由していると知って、実に親切にしてもらい何度も助けられた。そのAさんが数日前に戦死。この刻ほど敵を恨んだことはない。きっと仇は討つとね。そしたら、真赤な顔で怒鳴った米領事の顔も浮かんでくる。万世で訣れてきた女性が、兄弟大激論になった夜の父の黙り込んだままに終始した姿が…」

実弾3発を残すぎりぎりのところで援軍到着。鉄兜で沸かした珈琲がこんなにも美味しかったのか。敵が置き去りにした米で炊いたご飯の旨さ。そこに届けられたLA在住の一世の小母さんからの慰問袋、ラッキョウ漬に涙が止まらなかった。と、静かに語ってくれる四郎にも45年の歳月が経った。

彼の目の優しさが印象的である。

因みに、朝鮮戦争時、前線で戦った鹿児島系帰米二世には、山口昭二(知覧町・「シルバースター」受領者)、岩元隆男(隼人町)、西義男(東市来)、大原JOE(加世田)の諸氏がいる。

長兄ハリー・正実氏の殿堂入りを祝う阿久根一家。左より、次男ケン、四女よし、長男ハリー、四男四郎、三女菊子、三男三郎、五男ロイ

 

*本稿は、『南加鹿児島県人会史:創立百周年記念』からの転載です。

 

© 1999 Nanka Kagoshima Kenjinkai / Edward Horikiri

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