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アジア系アメリカ人研究―その誕生から現在まで

2009年5月26日、長年にわたって多発性硬化症と闘ってきたロナルド・タカキ先生が、自らの命を絶ちました。彼がおよそ四半世紀にわたって闘病生活をしていたことはすでに人々の知るところではありましたが、突然の訃報に、多くの人々が驚かされました。

タカキ先生(JAリビングレガシーによるトリビュートビデオより)

タカキ先生は、アメリカ社会におけるアジアや大洋州につながりをもつ人々ついて研究する学問、アジア系アメリカ人研究(Asian American Studies)の発展・確立に貢献した人物のひとりです。そして、彼の発表した“Strangers from a Different Shore”(1989年発表)と“A Different Mirror”(1993年発表)は、アメリカの歴史学における重要な研究成果であると同時に、アメリカ社会の多様性を理解する教材として、多くの学生に読まれています。

アジア系アメリカ人研究が誕生した背景には、1960年代の公民権運動が挙げられます。当時、キング牧師のリーダーシップのもと、アフリカ系の社会的地位向上のための運動が全米で繰り広げられました。アフリカ系に触発されたアジアにつながりを持つ人々が、おたがいに手を取りあい、連帯を強め、みずからの社会的地位を向上しようと立ちあがったのが、アジア系アメリカ人研究誕生のきっかけとなりました。

1963年、キング牧師が中心になって、人種差別撤廃を求めるデモ更新を行った。(写真:ウィキぺディア)

さらには、この運動のさなか、加州大学で歴史学を教えていたユウジ・イチオカ先生が、アジア系アメリカ人(Asian Americans)という概念を提唱し、これがこの運動における追い風となりました。アジア系という概念をとおして、日系、中国系、韓国系、フィリピン系、インド系など、国境や宗教、文化習慣の垣根を越え、人々は団結し、人種差別や、積年のネグレクトに立ち向かいました。

アジア系アメリカ人研究が生まれた直接のきっかけは、1968年の桑港州立大学での学生運動でした。当時の学生や若い研究者たちは、マイノリティ事情を研究するための学部の創設を、大学に要求しました。運動にかかわった人々は、マイノリティの、マイノリティによる、マイノリティのための学問をつくることによって、みずからの歴史に目覚め、アメリカ社会に、先人たちの「貢献」を伝えることが必要だと考えていました。

サミュエル・ハヤカワ(写真:ウィキぺディア)

当時、州立大学の学長をつとめていたのは、日系カナダ人の言語学者サムエル・イチエ・ハヤカワ(Samuel Ichiye Hayakawa)でした。著名な共和党員であり、強硬なタカ派として知られた彼は、若い学生や研究者らの要求に断固反対の態度をとったことから、多くの人々の反感をかったのみならず、日系人社会において「憎まれ者」となりました。日系人の敵が、じつは、同じ日系人であったことは、さらなる皮肉でもありました。

桑港州立大学での学生運動は、ついにはバークレーの加州大学など、近隣の大学に広がり、1969年、大学側はエスニック・スタディーズ(Ethnic Studies、民族研究)学部の創設を認めるにいたりました。アジア系学生による運動は、学生側の勝利に終わりました。

そして、最初の学部長には、人類学者のジェームス・ヒラバヤシ先生が任命されました。アジア系アメリカ人研究は、新しく誕生したエスニック・スタディーズから枝分かれするようにして誕生し、研究者や学生らによって、今まで光が当てられることのなかったアジア系の歴史を広めるための運動がはじまりました。

また、アジア系アメリカ人研究では、過去の歴史の再評価のみならず、学生や研究者の教育にも、熱心に取りくみました。先述のタカキ先生、イチオカ先生、ヒラバヤシ先生のみならず、長年にわたって羅府の加州大学で社会学を教えていたハリー・キタノ先生、東海岸の大学で教鞭をとっているゲイリー・オキヒロ先生など、多くの著名な先生方の貢献によって、アジア系アメリカ人研究は、学問としての基礎を堅固なものにすることができました。

その結果、アジア系アメリカ人研究は、近隣の大学のみならず、全米の主要な大学にも広まりました。加州大学ではバークレーと羅府のキャンパスにおいて学部が創設され、さらには、1987年には東海岸のコーネル大学にも、学部が創設されました。

1980年代になると、アメリカ社会において人種や民族のサラダボールという考え方が人々のあいだに浸透し、多様性が尊重されるようになりました。このころになって、アジア系アメリカ人研究は、アメリカの学界にその地位を確立することができたといえるでしょう。

ところが、1990年代になると、アジア系アメリカ人研究をとりまく環境が大きく変化しました。多様性を尊重する社会を認める人々が増える一方で、宗教が規定する厳格な道徳観や保守的な考え方に傾倒する人々の一部から、エスニック・スタディーズの本質は、意図的に差別の構造を深刻なものにするもので、いわゆる逆差別をもたらすなどという、根拠に乏しい主張がでてきました。

(写真:ウィキぺディア)

さらには、2001年9月11日に米国中枢同時多発テロ事件が起こり、アジア系アメリカ人研究は、新たな時代に直面しました。中東系やイスラム系のみならず、シク教徒にたいするヘイト・クライム、ヘイト・スピーチに続き、レイシャル・プロファイリングの是非が問われました。さらには、いわゆる愛国法(US Patriot Act)が施行され、国家の安全保障を大義名分に、人々の権利を制限すべきだという考えに賛同する人々が増え、マイノリティ寄りであるというレッテルの貼られたアジア系アメリカ人研究は、その意義が大きく問われました。

また、アジア系アメリカ人研究をはじめとするマイノリティ研究は、アメリカ社会に深刻な分裂をもたらすという、極端な考えを主張する人々がでてきました。その背景には、ヨーロッパやオーストラリアにおける多文化政策の問題に代表される、国際規模でのマイノリティ問題がありました。

依然として、アジア系アメリカ人研究をとりまく環境は、非常に厳しいものです。近年の不況により、アジア系アメリカ人研究をはじめとするマイノリティ研究は、大学への予算削減のあおりをうけています。そのような状況であっても、アジア系アメリカ人研究にたずさわる人々は、過去のアジア系アメリカ人の歴史を伝えていくことで、アメリカ社会に自由、正義、平等などの大切さを発信することを続けています。

最後に

多様性の時代をむかえたとはいえ、単一民族や島国根性という言葉に代表される日本社会においては、アジア系アメリカ人研究という学問は、アメリカ社会特有のものであると受けとめれがちです。しかしながら、アジア系アメリカ人研究は、多様性にたいして寛容な精神をつくり、人々の社会参加と社会的包摂を促すことで、持続可能性のある社会をつくるための「教訓」を日本社会にもたらすものであると、わたしは思います。

 

追記:JAリビングレガシーが制作したタカキ先生への感謝の気持ちをこめた動画をご覧ください>>

© 2013 Takamichi Go

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