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https://www.discovernikkei.org/en/journal/2011/4/14/davao-philippines/

番外編1-フィリピン・ダバオ

「ミンダナオの山の中でね、いきなりその人にばったり出会って、「私はアイノコです」なんて日本語で言うんだもん。びっくりしちゃったよ」
 
フィリピン・ダバオ在住の日本人実業家のYA氏は、Aさんという一人のフィリピン日系人との突然の出会いをそう語る。当時はジャーナリストで、ミンダナオ島山岳部に出没する新人民軍(NPA)などゲリラの活動を追っていた。YA氏は、その時はじめてフィリピン日系人なるものの存在を知ったという。

ダバオは、ミンダナオ島にあるフィリピン共和国第三の都市。フィリピン南部の政治・経済の中心であり、周辺のリゾート地へ向かう観光基地でもある。20世紀のはじめ、太田恭三郎に率いられた日本人移民労働者たちがここに入り、アバカ(マニラ麻)栽培を発展させた。太平洋戦争直前の1940年には、在留日本人は約2万人。外南洋最大の日系社会を形成し、13の日系小学校が存在していたとされる(天野, 1990, p.64; 小島,1999, p.181)。ダバオ日本人移民とその子どもたちの大戦をはさんだ想像を絶する苦難の物語は、多くのドキュメンタリーに描かれている1。戦後日本に引き揚げた移民たちのナマの証言は、『金武町史』や『宜野座村誌』など沖縄県の市町村史に採録されており、そちらを参照されたい。

今年2011年2月、筆者はダバオを訪れた。今回は、「海を渡った日本の教育」番外編として、ブラジルとパラレルに進行したフィリピン日系教育史のほんの一コマを、筆者が接触し得たダバオ日系の人びとの体験を通じて紹介したい。

ダバオの麻栽培に従事した移民たちは、まず何年もの過酷な労働を体験しなければならなかった(天野, 1990, pp.32-38)。やがて、それを耐え忍んだ者たちは土地を獲得し、家庭を築いていった。ある程度の経済的余裕ができると、子どもに「日本人」としての教育を施すことを考えるのは、ブラジルもフィリピンも同じである。ここでも「移民たちは教育熱心」であった。太田たちの入植の約20年後、1924年には、ダバオ市内にダバオ日本人尋常小学校、郊外にミンタル日本人尋常小学校が開校している。

番外1-1:Mさん姉弟の父母の結婚式。独身日本人移民の多くがバゴボ族など現地部族の女性と結婚し家庭を築いた(YM氏提供)

「移民たちは教育熱心だった。日本教育を受けさせたい、中学校や女学校にも進学させたいと強く願っていたようだ。私が通っていたフィリピンのミンタル小学校は、一、二年と三、四年の複式の二学級だった。金武の人もいたしヤマトンチューもいた。現地の女先生が一年から英語も教えていた」(金武町史編纂委員会, 1996, p.112)これはミンタル小学校に学んだ一移民子弟の証言である。

番外1-2:現在養護老人施設に住むMYさん(2011年2月筆者撮影)

ダバオでの一日、現地日本商工会議所のYA氏、S氏の案内で、ダバオ市内から車で約1時間のロス・アミーゴスの養老施設へMY氏を訪ねた。氏は足が不自由で車椅子生活だが、生年月日を訊ねると、「昭和7年2月29日生まれ」とはっきりとした日本語で話した(写真番外1-2)。父は沖縄本部村出身、母は現地のバゴボ族だった。

「父はしつけに厳しかった。朝早く起きると、「お早うございマース」って、おじぎしてゆっくりと頭をあげる。学校に行く時は「行ってきまーす」と言う。それで父は「行け」って言うんだね。兄弟でもフィリピンの言葉でしゃべっていると、「日本語で話せ」って言ってぶんなぐられた。悪いことをすると、二階から放り投げられた。お母さんも時々なぐられていた」

「バギオの家から学校まで6キロぐらい。歩いて通った。近所の子、大きい子といっしょになって通った。雨の日は、ジャガイモの葉を傘の替わりにして通った。アバカの葉を切ると怒られるからね。靴ははかずに裸足。何回も石に当って爪が離れて痛かったよ」

何キロもの道を裸足で通う。舗装道路なんかないから、晴れた日は土埃で、雨の日はドロドロ。大きな葉を傘がわりにして、ずぶ濡れになりながら歩く。でも、みんな似たり寄ったりだから、貧しいという感覚はない。ブラジル農村の移民子弟にも見られた通学風景である。先のAさんの「アイノコ」という言葉のように、混血児童が多かったのがブラジルや米国との違いであろう。前掲の天野氏の著作では、混血は「黒ん坊」「土人」と呼ばれ、子どもたちの間でいじめがあった記述があるが、MY氏は「(混血ということで)いじめられた記憶はない」という。子どもたちの人間関係(力関係)も、大人に負けず微妙で複雑ある。

学校でよかったこと、嫌だったことは何ですかとの質問に対して、「(学校で)厳しくされたのがよかった。厳しかったから、悪坊にならなかった」とMY氏は何度も繰り返した。

別の一日、戦後日本人が収容されたトリルを訪ねた。今もトリルに住み続けるATさんは、1931年生まれの79歳。日本からやってくる慰霊団などの通訳をしていたというだけに、日本語はしっかりとしている。

「その頃、バラカタンの家に住んでいてね、山(=麻農場のこと)に学校がなかったから、ダバオ小学校の寄宿舎に入りました。父は熊本県八代郡宇土の出身。厳しい人で、いつも「学校がいちばん大事」と言っていました。だから私は、一度も学校を休まなかった。弟と妹は(通学の)途中、馬に襲われて学校に行けなかった。家に帰ったら、学校から連絡が来ていてね。お父さんが怒って、夜になっても家に入れてもらえなかった。お母さん?お母さんはとてもやさしかった。でも、お父さんの言うことは、ハイ、ハイっていつも聞いていました」

「5年生になって、家の近くのカテガン小学校に移った。毎日お母さんに会えるし、こっちの小学校の方がよかった。家から学校まで7キロぐらい。朝5時に出て、いつも(学校に着くのは)ギリギリでした。」

「お裁縫が大好きでした。でも、キレイなお気に入りの裁縫道具を机の中においておいたら、その夜戦争が始まって、日本人は(収容所に)集められた。裁縫道具はそのまま。(1942年の)1月に日本軍が上陸してやっと解放されました」

1945年4月の米軍進攻前後からの日本人とその家族たちの悲劇は、いくつもの証言に明らかにされている。ATさん一家もこの地獄のような避難行を体験、父や弟を失った。いちばん下の弟の名は「ヨシカツ」といった。「日本の軍隊が助けに来た時に生まれたから、ヨシカツ。日本が負けたときに亡くなっちゃった」と、ATさんがしんみりと語るのに、かける言葉がなかった。そんなATさんは今、自分たちが収容された町で娘さんたちと幼稚園を経営している。

カリナンの村では、Mさん一家の三姉弟にインタビューをした。3人とも日本語はほとんど忘れてしまっているようだ。言葉が通じないところは、同行のミンダナオ国際大学のI先生が英語やビサヤ語をまじえて通訳してくれる。Mさん一家が住んでいたスバスタというところにも日本人学校があったという。日本にいるという長兄のKMさんはカリナンの小学校に通ったが、長姉のTMさん、四男のSMさんはこのスバスタに小学校ができたので、そこに入ったという2。子どもは「日本人ばかり」で、ヨシダ先生という男性が一人で教えていたそうだ。

番外1-3:Mさん一家、左からTMさんの娘さん、IM先生、YMさん、TMさん、筆者、TMさんのお孫さん(2011年2月筆者撮影)

このスバスタの小学校は、Mさん姉弟のお父さんがお金を集めて建てたのだという。末弟のYMさんの語る学校建設の顛末というのは以下のようだ。

「最初いちばん貧乏な日本人のところへ行って、いくら出せるかって聞いて、それから全員のサインをもらうんだ。あとは材木屋を呼んできて、学校を建てはじめる。そうなるとみんなお金を出さざるを得なくなるんだよ」

いかにも戦時下、開拓最前線での手作りの学校建設の情景が伝わってくる。30人ほどの子どもがいたというから、それなりの規模の学校だったことがわかる。小林(2010)によると、ダバオ地区に軍政が施行された1943年前後、日系移民子弟教育も大東亜共栄圏建設の一環として位置づけられるようになり、教育内容も変化したという(p.289-296)。この山の中の学校でも、毎月曜朝には宮城遥拝を行ない、教育勅語を奉読していたらしい。ただ、せっかくつくった学校も、TMさんが2年生の時、ゲリラがやってきたので、(怖くなって)子どもたちが通わなくなったという。

こうした話題が出た後、TMさんに、「何でもいいですから覚えていることはないですか」とさらに訊ねてみた。彼女は何度もfogot(忘れた)と困った様子だったが、突然、意を決したように、「夕焼け小焼けで日が暮れて~、山のお寺の鐘が鳴る~」と歌い始めた。音楽好きのI先生が引き取って、「お手てつないで」と続け、私もあわてて「みな帰ろ~」と唱和した。最後にYMさん、TMさんの娘さん、お孫さんもいっしょになって、「カラスもいっしょに帰りましょう~」とみんなで合唱になった。少々調子っぱずれな合唱だったが、フィリピンと日本、70年前と現在を隔てた壁が一瞬崩れ、みんなが子どもに戻って無心に歌った心あたたまる合唱となった。「この人たちは間違いなく、同じ日本人の子どもなのだ」と感じた瞬間だった(写真番外1-3)。

カリナンの里に夕闇が迫り、私たちもダバオの町に引き上げることにした(写真番外1-4)。フィリピン、ダバオ―ここにもブラジルと同じように、近代日本とパラレルな時代を生きた移民たちの歴史があった。

番外1-4:夕暮れのカリナンの小道。かつて日系人の子どもたちの歌声がこだましていたのだろうか(2011年2月筆者撮影)

注釈
1. 柴田(1979)、城田(1980)、天野(1990)、大野(1991)、丸山(2008)など。
2. このスバスタの日本人小学校というのは、先のダバオ地区の13校中には名前が見えない。城田(1980)によると、「十二校あった在外日本人小学校」が「戦時中も授業を続け、昭和十九年(1944)米軍機による空襲がひどくなったため、各校それぞれ分散授業の止むなきに至った」(p.193)とあり、いくつかの「学校」が各地で開かれていたようだ。

参考文献
天野洋一(1990)『ダバオ国の末裔たち-フィリピン日系棄民-』風媒社
大野俊(1991)『ハポン-フィリピン日系人の長い戦後-』第三書館
金武町史編纂委員会(1996)『金武町史』第1巻(移民・証言編)金武町教育委員会
小島勝(1999)『日本人学校の研究-異文化間教育史的考察-』玉川大学出版部
小林茂子(2010)『「国民国家」日本と移民の軌跡-沖縄・フィリピン移民教育史-』学文社
柴田賢一(1979)『ダバオ戦記-南洋開拓の栄光と悲惨の歴史-』大陸書房
城田吉六(1980)『ダバオ移民の栄光と挫折-在留邦人の手記より-』長崎出版文化教会
丸山忠次(2008)『ダバオに消えた父』風媒社

【謝辞】今回のダバオ調査は、人間文化研究機構「日本関連在外資料の調査研究」の助成により可能となった。現地では、ミンダナオ国際大学の三宅一道氏、ミンダナオ日本商工会議所の天野洋一氏、住川氏、ダバオ日系人会のネルマ・サイトウさんらのご助力を得た。また、本稿執筆に当っては、多くの資料を宮城県在住の佐々木厚氏からご提供いただいた。文中紹介したインフォーマントの方々の他、多くの方々にインタビューにご協力いただいた。ここに記して厚く御礼を申し上げたい。

 

© 2011 Sachio Negawa

Asia Davao education Philippines
About this series

The second installment of the Discover Nikkei column by Yukio Negawa of the University of Brasilia. As an example of the overseas expansion of "Japanese culture," particularly in Latin America, this report examines the trends and realities of Japanese education in Brazil, home to the world's largest Nikkei community, from the prewar and wartime periods to the present day.

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About the Author

Sachio Negawa is an assistant professor in the departments of Translations and Foreign Languages at the University of Brasília. An expert on Immigration History and Cultural Comparative Studies, he has lived in Brazil since 1996. He has fully dedicated himself to the study of learning institutions in Japanese and other Asian communities.

Last Updated March 2007

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