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在日ブラジル人に感謝の言葉を贈りたい

「日本人として心より感謝の言葉を贈りたい」。この人にひとこと言葉をかけるとしたら、私はこう言うだろう。

神奈川県藤沢市で解体工事などを請け負う会社を経営する茂木真二・ノルベルトさん。3・11東日本大震災の被災地の惨状を伝える報道にいてもたっていられず、6月末までに計5回、日系ブラジル人の仲間と現地入りした。重機を駆使してのガレキの除去、そしてブラジルの肉料理シュラスコなどの炊き出し……。茂木さんは日系ブラジル人を「デカセギ」でなく「生活者」として見てほしいと言うが、被災者にとって日系人は、すでに「よりよき隣人」だ。

茂木さんのボランティア活動は地方紙の報道で知っていたが、6月30日、東京都新宿区の上智大学で開かれた講演会「在日ブラジル人と東日本大震災―被災地支援の取り組み」でご本人の話を直接聞いた。

ブラジルの国旗を手に被災地に駆けつけた茂木さん(右端)ら日系人

法務省入管局の調べによると、被災地の日系ブラジル人は、岩手県97人、宮城県147人、福島県262人の計506人。上智大外国語学部助教のアナ・エリーザ・ヤマグチさんが冒頭、全国各地の日系ブラジル人による被災者支援の様々な取り組みを紹介したが、ボランティアとして現地入りした日系ブラジル人の延べ人数の方が被災地の定住者より多いかもしれない。

茂木さんは1989年に初来日し、日本の生活がほぼ20年になる日系ブラジル人。サンパウロ大学電子工学科卒というから、かなりのエリートだ。来日してまもなく起業した。工場労働者が多い日系人の中にあっては、数少ない成功者である。

3・11の大震災。「在日ブラジル人として、日本のために何かをしなければ」。現地の状況について情報を収集し、1週間後の18日に支援物資と重機を積みブラジル国旗を掲げたトラックを宮城県石巻市に走らせた。

津波で大きな被害を受けた現地では、自衛隊員が人海戦術でがれきのかたづけにあたっていた。まだ生存者がいるかもしれない。遺体を損傷させては。そんな配慮から自衛隊の活動では重機を使っていなかった。

しかし、解体業で重機の扱いに手慣れた茂木さんは、小型の重機を使ってスクラップ化した車や家の屋根などをかたづけた。「ビール瓶をはさんでも壊さないアタッチメントをアームの先に付ければ作業はできる」と自信を持って言う茂木さん。当初は市役所から重機の使用に待ったをかけられたが、お役所仕事に付き合っていては生存者がいても助けられないと市の規制を無視して作業を続けた。

被災者の表情は日を追って疲労の色を濃くしていった。ストレスがたまっているのがよく分かった。「被災地で必要なのは、人間と人間のふれあいだ」と考えた茂木さんは2回目以降のボランティアも石巻に行くことを決めた。1回だけでなく2回、3回と行くと、被災者は本当に自分たちのことを心配してくれていると感じる。自分たちの「気持ち」が被災者に必ず伝わると思ったのだ。支援物資は自分たちが直接、必要な人に配り、助けを求めてきた家のガレキを撤去した。

実際、トラックのブラジル国旗を見つけた警察官が手を振ってくれた。知らない人が「茂木さん、茂木さん」と声をかけてくれるようになった。精肉店を経営する老人から「店の隣の駐車場にあるガレキを撤去してくれないか」と頼まれた。市役所に頼んだら半年後になるといわれたという。駐車場の空き地にプレハブの仮設店舗を建てたいということだった。さっそく廃材を撤去すると、その妻は「半年待っていたら、私の人生はなかった」と涙を流して喜んでくれた。

被災者の中で自殺する人が増え出した時期だった。政府はこうした人たちをどうして救えないのか。

南三陸町の避難所に支援物資を届けようと、足を伸ばしたことがあった。外は雨がしとしと降っていた。「おじいちゃん、おじいちゃん、早く逃げて」という子ども叫び声が聞こえた。おじいさんが津波に飲み込まれた夢を見たようだった。被災者の心の中にいかに大きな傷があるのか。それが痛いほどよくわかった。

原発事故で住民が憔悴した福島を訪れた時には、行政の対応にがっかりさせられた。バーベキューの炊き出しをしたいという申し出に対し、「予約をしてもらわないとできません」。トラックに積んだ支援物資を贈ろうとしたところ、「倉庫がいっぱいで受け取ることができない」と拒否された。宙に浮きそうになった善意は、そこから車を300キロ走らせた宮城県のある地域に運ばれた。

それでも、東北の人たちは総じて前向きの姿勢を持っていた。「ひとりひとりの力」が素晴らしいと思った。茂木さんは「感動した」と力を込めた。
 
そして、茂木さんは「日系ブラジル人には、日本の社会ではなおトラブルメーカーというマイナスイメージがある。日本の中で今回、何ができるかを考えて活動し、それを変えるつもりでボランティアを続けている」と話す。

日系ブラジル人は2008年秋のリーマンショックで多くの人が仕事を失い、帰国を余儀なくされた。彼らにとって、雇用情勢が好転したとは言い難い。一時は30万人越えていたが、2010年末の統計では23万にまで減少した。3・11後、さらにその数を減らしているはずだ。残っている人の多くがすでに生活の基盤を日本に置き、多文化共生社会の一翼を担っている。

リーマンショック後の同胞の窮状に手をたずさえようと、在日ブラジル人の有志が全国在日ブラジル人ネットワーク(NNBJ)を発足させた。今回、NNBJから「連帯ブラジル」という新たな組織が誕生し、彼らを中心に被災地でボランティア活動が展開されている。その中のリーダーの1人が茂木さんだ。

在日ブラジル人に限らず、アジアや欧米の外国人もボランティアに参加し、被災地の人たちを支援し、励ましている。被災者の中にはもちろん、在日外国人もいる。混乱する被災地で、日本語の不自由な彼らにも支援の手は差し伸べられたのだろうか。我々日本人自身も問われているのだ。

* 本稿は、『多文化情報誌・イミグランツ』Vol.4からの転載です。

© 2011 Immigrants

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In Japanese, kizuna means strong emotional bonds.

This series shares stories about Nikkei individual and/or community reaction and perspectives on the Great Tohoku Kanto earthquake on March 11, 2011 and the resulting tsunami and other impacts—either about supporting relief efforts or how what has happened has affected them and their feeling of connection to Japan.

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About the Author

Representative director of Immigration Information Organization Co., Ltd. Editor-in-chief of Immigrants, a multicultural information magazine published by the company. Joined the Mainichi Shimbun in 1974. Served as a reporter in the city affairs department at the Osaka headquarters, a reporter in the political department, editorial writer, etc. Retired in March 2007 as deputy editorial director. Served as an advisor to Wakayama Broadcasting System and a media consultant to the International Organization for Migration (IOM).

(Updated October 2009)

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