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タイムスリップ・リベラルタ 1999年 -日系3世に生まれて- その2

>> その1

ところで私の祖父林田両太郎は、1908年4月7日に、第5回航海船「厳島丸」で横浜港を出発しました。当時、22歳という若さでした。5月21日にペルーのカリャオ港に到着し、オルヤで汽車を降りた後、徒歩でチャンチャマヨのナランハル耕地へ向いました。

その頃、アマゾン川流域は空前のゴム景気にわき、ペルー移住者の多くはアンデス山脈を超えてボリビアに向いました。しかし日本とボリビアの通商条約締結前であったので、日本政府の保護などはなく、日本人たちは丸裸同然の状態で入国したのです。祖父もその後リベラルタに再移住しました。私は、祖父をはじめとする当時の移住者の方々は大変だったであろうと思いました。今でこそいろいろな情報がありますが、その頃はアンデス山脈を超えてアマゾン川流域に向かうにしても、リベラルタの町についても、何もしらなかったのですから。祖父が再移住したリベララルタは、一時期、700名以上の日本人が住み、日本人社会を形成して町の発展に大きく寄与しました。また祖父は55歳の時、リベラルタ日本人協会の評議員を務めました。

さて、いま日本へ出稼ぎに行っているボリビアの日系人がたくさんいます。約10年前から日系人は日本へ仕事をしに行くことが簡単になりました。リベラルタからも大勢の日系人が日本へ出稼ぎにいきました。私は日本で実際に、出稼ぎにきていた人たちと話をすることができました。彼らの目的は、ボリビアでの生活水準を向上させることでした。しかり彼らは日本に対する知識があまりにも乏しかったため、まるで祖父たちがボリビアへ移住した時のようでした。彼らが4人で一つの狭い部屋を借りて窮屈そうに生活しているのを見て、もし彼らがそのままボリビアに住んでいれば、そのような生活はしなくてもいいのにと驚きました。聞くところによると、もっと大勢で一つの部屋に住んでいる人もいるそうでうす。お金を稼ぐためとはいえ、彼らのこのような生活をみてやる瀬ない思いをさせられました。彼らは日本の生活に慣れるまで日本人とコミュニケーションがとれず、大変な思いをしたという話しを聞きました。このことを考えたとき、出稼ぎには良い面と悪い面があると思いました。良い点はお金を貯めてボリビアに帰り、裕福な生活をできるということです。悪い点は先に述べたことのほかに、家族と離れて寂しい生活をしなければならないということです。彼らも覚悟の上とはいえ、大変であると思いました。お金を稼ぐことは大変なことです。

私は今まで自分の体の中に日本人の血が流れていることは知っていましたが、ボリビア人として生きてきましたし、自分はボリビア人だと思っていました。それに日系人のアイデンティティというものは意識したことがありません。しかし日本での生活を通して、自分が日本人的な一面を持っていることに気がつきました。例えば、ボリビア人は物事を頭で考えずに心で考えて行動しますが、私は一度立ち止まってよく考えてから行動をする方です。また女性はミニスカートや半ズボンで外を歩き回ることは恥ずかしいことだと私は考えます。そのようなことはリベラルタにいる時は気づきませんでしたが、日本で生活をして日本人と触れ合ってみて、自分と似ている部分を感じました。日本滞在中も同じ研修生のブラジルの日系人に「あなたは日本人みたいね」と言われたこともありました。今思い起こしてみると、父もそのようでとてもまじめな人なのです。私の知らないところで日本人的なものが受け継がれていることに大変驚きました。幼い頃になんとなく日本語を学んでみたいと思った気持も、おそらく心のどこかで祖父を意識していたのでしょうか。

ボリビア人である私が見た日本の姿でとても印象的だったのは、日本人はとても働き者であるということです。埼玉県でホームステイをした時の受け入れ先のお父さんや私の先生方は夜遅くまで仕事をしていました。公園でお父さんたちが子供と遊んでいる姿を見かけたことはありませんでした。日本は物質的に恵まれているけれども、家族間における絆が薄いように見え、淋しく思いました。

しかし日本にはボリビアにない良さがたくさんあります。交通も時間に正確で遠くまで行くことができて、とても便利です。人々は良い教育をうけて、正直です。私のいう教育とは学校教育に限りません。例えば、財布を道で拾ってもそのまま、つまりお金の入ったまま交番へ届けるといったことです。ボリビアでは残念ながら、財布のみが届けられることが多いのです。

日本に行く前、私はリベラルタで日本語教師の助手として働きましたが、これからはそれ以上に正確な日本語を教え、日本での体験も含めて日本の文化や生活を伝えたいと思います。さらに日本の良い点も伝えたいと思います。例えば、時間に正確であること、人々が正直であること、年上の人を敬うことなどです。また同じ品物でも質の良いものをつくることや日本人が実行しているリサイクルの大切さも、ボリビアの人たちに伝えたいと思います。そして私はこれからも自分の研究課題である森林学や地域開発学の勉強に力を入れて、日本で学んだことをボリビアの人々に伝え、ボリビアをより良い国に築いていきたいと思います。

*初典 『日本人移住100周年誌 -ボリビアに生きる- 』

© 2010 Yasukara Hayashida

Bolivia culture education generations Japanese language languages Riberalta Sansei
About this series

They crossed the Andes on foot, then traveled down the Amazon River by canoe into Bolivia. It was a hellish journey, enduring illnesses caused by extremes of heat and cold, and fear of wild animals in the jungle, and the people who made this journey were later called "Peru Down." When about 100 "Peru Down" people were cast ashore in Riberalta, Bolivia, the population was less than 3,000. Now, 100 years later, it has become a city of over 100,000 people.

In this column, we will introduce the story of a Japanese person in Liberalta that was introduced in the blog "Japanese Who Crossed the Andes" written by a JICA volunteer.

Japanese people who crossed the Andes>>

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About the Author

She was born in Riberalta on September 2, 1969, as the eldest daughter of Oswaldo Hayashida and Teresa Oliver. She is the oldest of six siblings, with three younger sisters and two younger brothers. Her grandfather, Ryotaro Hayashida, was from Akata-gun, Kumamoto Prefecture, and after moving to Peru in 1908, settled in Riberalta in 1910. Her grandfather, Venancia Oyola, was also from Riberalta. The Hayashida family has had roots in Riberalta for 100 years, dating back to her grandfather's generation.

(Updated December 2010)

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