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https://www.discovernikkei.org/en/journal/2011/1/12/aso-naohira/

リベラルタのニッポン人 (4) -麻生 直衡-

43歳。沖縄県出身。

那覇市在住の頃、友人であるペルー出身の日系家族と共にボランティアグループに参加していたときに、偶然何かで「リベラルタの沖縄出身日系人が、沖縄のことをしりたがっている。」という記事を見た。

それなら自分も役にたてるかもしれないと思った。

これがリベラルタを知るきっかけだった。

* * *

ボランティア活動を通して知り合ったボリビア人が帰国したのを機に、自身もボリビアを初めて訪れた。

その後、日本語教育の勉強をしたのち、2004年から2006年にかけて、日系社会青年ボランティアとしてラパス日本語学校の日本語教師となった。ラパスでの2年間が初めての教師経験だった。この間、初めてボリビア北部のリベラルタを訪れる機会があった。

2年間のボランティア活動のあと、荷物をボリビアに置いたまま、日本へ一時帰国した。

ボリビアに戻ったあと、サンタクルス日本語学校で7ヶ月間働いた。その後、サンタクルスで購入した自家用車で3日間かけて、リベラルタへ。

ボリビア北部、グアヤラメリンの日系社会にはボランティアが入ったことがなかった。
グアヤラメリンとリベラルタを行き来する生活が約2年続いた。

リベラルタのジャイカボランティア、またグアヤラメリン、リベラルタの日系人と協力して、ローカルテレビ『Hola Japon!』という番組制作を行った。

日系人会の存在を知ってもらいたい。
日系人には父祖の地・日本を感じてもらいたい。
非日系社会には周囲に住んでいる日系人に対する理解につなげてもらいたい。

この3つを目標に始めたものだった。そしてその番組は誰が観ても楽しめるように心がけた。
これによって、多少なりとも日系人会や日本文化を知ってもらうことができた。
あの番組はおもしろい!と反響もあった。うれしかった。

他にも、踊りの指導を行い、街のイベントでパレードに日系人会として参加した。
現地で買える食材だけを使って料理教室をした。
焼きそば、オムライス、照り焼き、豚肉の生姜焼き、タコライス。

グアヤラ、リベラルタで大変だと思ったことはないが、グアヤラメリンの住居に強盗が入り、カメラ、パソコン、服などを盗られたときは困った。

それと前後して弟とおじの病気のことを聞かされ、帰国することにした。

テレビ番組も最終回を放送した。2008年のことであった。


帰国してからしばらくは頭の中が真っ白で、どこで何をすればいいのかわからずにいた。

しばらく沖縄にいたが、日本本土の工場地帯で働こうと決めた。昔、自分がボリビアから送り出した彼らが、日本でどんな生活をしているのかを知りたかったし、自分も出稼ぎ労働者として働けばそれがいつか何かの形で役立つだろうと考えたから。

再び南米のフィールドに戻ろうと思ったのは、海外での活動を応援してくれていたおじの死に直面したこと。

現在、ブラジルの地方都市の小規模な日系人会8カ所をまわり、踊りの紹介・指導をしている。日本文化祭のときには、自分たちの会のはっぴを着て100人の踊り手が舞台発表を行った。

今後も日系人社会に貢献していきたいと考えている。

* * *

同じ日系社会といっても、ベニとサンタクルスでは出発点が違う。
サンタクルスの移住地は家族で入っている。
ベニは、独身男性がひとりで出稼ぎ労働者として入って、現地の女性と結婚した人が多い。それで2世の時代から日本語や日本文化が継承されなくなっていった。

戦前・戦後の違いもあり、戦争中は日・ボ両国は敵同士になったので日本に関するものは極力排除するより他なかった。1世から2世への移行期にボリビアには日本の公館がなく、ペルーの大使館が兼轄していた。このようなこともあって戸籍問題はさらに複雑になってしまった。

日系社会のこれから

まずは、日系人会の存在をしってもらうことからはじめてみたほうがいいと思う。日本語教育はとても重要だが、それにこだわってしまうと、勉強したい人しか集まらない。空手教室、折り紙教室、他、どんな人でも来られるようなことから始めるのがいいのではないか。直接日本語を教えなくても、日本人がいつもいるというのも大事なことだと思う。

まずみんなで集まって、日本の何かを通して楽しく遊ぶ。そして「日系人ってなかなかいいものだな」と思ってもらえればいいのではないかと思う。 

リベラルタでの日々が今の自分に一番活かされている。

いつかまた、仲間たちとの再会を心待ちにして。

*JICA隊員によるブログ「アンデスを越えたニッポン人」からの転載。

© 2011 Shoko Hibino

Bolivia British Columbia Burnaby Canada Nikkei National Museum & Cultural Centre Riberalta volunteerism
About this series

They crossed the Andes on foot, then traveled down the Amazon River by canoe into Bolivia. It was a hellish journey, enduring illnesses caused by extremes of heat and cold, and fear of wild animals in the jungle, and the people who made this journey were later called "Peru Down." When about 100 "Peru Down" people were cast ashore in Riberalta, Bolivia, the population was less than 3,000. Now, 100 years later, it has become a city of over 100,000 people.

In this column, we will introduce the story of a Japanese person in Liberalta that was introduced in the blog "Japanese Who Crossed the Andes" written by a JICA volunteer.

Japanese people who crossed the Andes>>

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About the Author

Born in Shiga Prefecture in 1983. Since April 2009, he has been working as a Japan Overseas Cooperation Volunteer in Riberalta, Beni Department, Republic of Bolivia. After arriving, he learned that Riberalta was the place where Japanese people first settled about a hundred years ago. He became interested in the fact that although over 600 Japanese people once lived there, there is currently little inheritance of Japanese culture, and he traveled around to talk to immigrants. During that time, he learned about the history of Riberalta's development and the contributions of Japanese people through the few documents available.

(Updated December 2010)

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