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https://www.discovernikkei.org/en/journal/2010/8/12/kangiku-sanjo/

文化の深さに誘われ -三條勘菊さん-

今年(2009年)の第69回二世週日本祭のパレードが行われた日、踊りのグループを先導してリトル東京を一巡した三條勘菊さんは、パレードの終点となる一街とセントラル通りの角を曲がったところで、大勢の一般参加者に囲まれて、大きな笑みを顔いっぱいに浮かべていました。パレードには子供ころから何度も参加していたし、師匠の三條勘弥さんが振り付けるのを長年手伝っていましたが、自ら音頭の振り付けを担当したのは今回が初めて。その責任から、やはり「何事もなく、無事に終わってほしい」という気持ちは強かったと言います。

三條勘菊さん(写真提供:三條勘菊)

「私は先に終わって、そこであとからくる人たちを待っていたら、みんなスマイルしているんです。だれもがいいフィーリングで踊れたんだなと思って、本当にうれしくなりました。振り付けを飲み込んでくれて、楽しく踊ったということ。一つの大きな舞台を終えた時のような感じでした」

その後、社中の名取や生徒ら30人以上に囲まれ、小さな子どもたちも含めて、一人ひとりの労をねぎらっていた勘菊さん。そこには、日本の踊りに長年携わり、その指導にあたってきた人の深い満足感のようなものがうかがえました。

ロサンゼルス・ダウンタウン東のボイルハイツ生まれ。4歳で日本舞踊を習い始め、9歳の時に五代目家元・三條勘弥さん(当時の坂東三春さん)について本格的に日本舞踊と長唄の勉強を始めました。日系二世の母親は「ここはアメリカだから、日本語や日本の踊りの勉強は必要ない」という考えでしたが、三重県四日市出身の父親が勧めたのでした。

その後、中学生になると、踊りよりも友達と一緒に遊ぶ時間の方が楽しくなり、踊りは止めたいとも思うようになるのですが、その時期を過ぎると、踊りそのものや踊りにまつわるいろいろなことにおもしろみを感じられるようになっていきます。そして19歳の時、三條勘弥さんの内弟子となることで、その後の人生の道筋が決まったのでした。

勘弥さんはその時までに、渡米して長唄を指導していた杵屋弥十郎さんと結婚。二人は長唄と踊りの指導でフレスノやサンフランシスコなども回るようになり、1956年にはロサンゼルスで「歌舞伎舞踊」の催しを始めました。勘菊さんはその稽古や、新しい踊りの習得などで、1968年から毎年のように日本を訪れるようになります。翌69年には二代目尾上松禄さんと三條勘弥さんとの三人で、国立劇場で「獅子の夢」を披露。また米国の映画に出演するなど、舞踊家としての歩を順調に進めていきました。指導は勘弥さんを手伝う形で、すでに20代で始めていました。

その後、勘弥さんのアイデアで、「歌謡舞踊シリーズ」も始めましたが、これは、もっと気軽に大勢の人たちに日本舞踊に親しんでもらおうという企画でした。「ラジオ小東京」の上手又男さんの司会で、最初は西本願寺別院のホールで、それから会場はホテルニューオータニに変え、日米劇場ができてからは、同劇場に移りました。

しかし、88年に病魔が勘菊さんを襲います。左の膝の裏に腫瘍ができたのです。がんでした。手術をして、化学療法(キモセラピー)と放射線療法を続けました。最初は何でもなかった化学療法も、回を重ねていくごとに辛いものになっていきます。嘔吐したり、頭髪が抜けたり。それでも、翌89年5月の歌舞伎舞踊のステージは欠かしませんでした。舞台の袖で、勘弥さんが心配してくれていました。

その翌月、勘菊さんが11回目の化学療法を受けている時でした。フレスノから帰って心臓検査の後、手術を受けた勘弥さんが、術後の容体悪化から急死したのです。みんな大きなショックに打たれました。それでも、10月の歌謡舞踊シリーズの舞台は、勘菊さんが中心になって務め、その後、翌年の勘弥さん追悼公演について相談するため日本にも行きました。

2003年から2005年までの3年間は日本に住んで、いろいろなことを学びました。それまでの訪日時は、約一カ月間のホテル住まいでしたが、それとは大きな違いです。学んだことは技巧的なことに加え、鳴り物、歌舞伎舞踊の歴史、舞台裏の作業、振り付け、衣装、小道具など、多々あります。そして何よりも、踊りを生んだ日本の生活を肌で感じて体で知ったことが、大きな収穫でした。

モントレーパークの自宅にて (写真提供:長島幸和)

隅田川が舞台になっている踊りがあります。隅田川の川の幅はどれほどか、川の流れの早さは…。住んでいたアパートの近くに朝顔を植えている家がありました。その前を通りながら「あー、これが夏。そういう気持ちが実感として湧いてきました」。そして、虫の音、雪の風景。そうした細かいこと一つひとつが踊りに役に立つ。

「日本文化って、習えば習うほど、まだまだ習うことがある。小さいことでも、あーっと思うことがたくさんあります」。勘菊さんは結婚もせず、日本の文化の奥の深さに誘われるように、長年修行に修行を重ねてきました。こうした話を聞きながら、その生涯が実感として、私に伝わってきました。

今年は勘弥さんが死去してからちょうど20年。二世週祭開催前には「三條勘弥の名を汚さないように」と肝に命じていた勘菊さんですが、どうやら、それ以上の成果が得られたことは確かなようです。何よりも、パレード直後の勘菊さん本人の笑顔が、すべてを物語っていました。今でも足のリハビリを週2回続けていますが、それをおくびにも出さず、日本文化の奥の深さを伝えるため、これからも幅広い指導を続けていくことでしょう。日本人街の繁栄を期す祭りへの関与も、今後さらに深めていくのは確実と思われます。

*本稿は『TV Fan』 (2009年10月)からの転載です。

© 2009 Yukikazu Nagashima

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About the Author

Born in Chiba City and graduated from Waseda University. In 1979, he moved the U.S. He worked at California Daily Newspaper and joined the Japanese editorial team at The Rafu Shimpo in 1984. In 1991, he became Editor of the Japanese department. He left the company in August, 2007. In September of the same year, he received an award by the Consulate-General of Japan in Los Angeles. He has published a series of articles titled “Profile of Nikkei Contemporary History” in TV Fan introducing the Japanese and nikkei in America. Currently he works as an editor of “J-Town Guide Little Tokyo,” a community magazine in English which introduces Little Tokyo.

Updated August 2014

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