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日系アメリカ移民一世の新聞と文学 -その4

>>その3

担い手たち

文学の担い手たちについても考えておこう。先に移民地の文学空間を占めた作品を三種類に分類したが、これに従えば「書き手」にも三種類が存在したと言えるだろう。(1)日本国内の作家、(2)主として国内で活動したが移民地での生活体験も持つ作家、(3)移民文士たち、である。このうち、移民地の文学空間を創造し、維持していくための主体となったのは(3)の人々である。読者の側を考えたときにも、次の事が言える。(A)まったく文学になど興味をもたなかった層、(B)読むとしても軽いもの--講談や通俗小説程度だった層、(C)文学に深い関心を寄せていた層があったと想定すれば、最後の層こそが文学空間の核となった層である。そして(3)と(C)とはほとんど重なると見ていい。熱心な文学読者たちが、移民地の書き手たちでもあった。文学作品の書き手として、また熱心な読者として、批評家として、あるいは新聞雑誌社の編集者として、書店の店員として、彼ら異郷の文学青年たちが核となって移民地文壇を形成していったのである。

当時の青年達は、夢を抱いてアメリカにやってきたが、現実はあまりにもきびしい。〔・・・〕やはり、精神的なはけ口は文学にむけられた。といっても、誰か大家に師事して本格的に勉強した連中ではない。ヤキマの平原で藷掘りをしながら、あるいはレストランで皿洗いをしながら、満たされぬまま、日本の文学雑誌をよんで、当時、盛んだった、田山花袋、岩野泡鳴らによって唱道された自然主義文学運動に傾倒して、いわば独学で作品をつくりあげた人人だった。人によっては、与謝野晶子に、人によっては石川啄木に、あるいは吉井勇、若山牧水、北原白秋に傾倒した。だから、文学会といっても、特定のリーダーがいるわけではない。気の合った者同士が集まって、文学を論じ、互いの作品を批評しあった。1

引用はシアトルで1910年前後に「文学会」などを作って活動していた西方長平(更風)の回想である。彼らは留学や徴兵逃れなど理由はさまざまであれ、日本で相応の教育を受け、勉強するべくアメリカへやってきた書生たちだった。この回想を紹介した『続・北米百年桜』には、西方らの回顧にもとづく当時のシアトル文学青年たち22人のプロフィールが紹介されている(101-103頁)。國學院大学卒、早稲田大学国文科卒、東京美術学校卒、早稲田大学哲学科卒、京都大学哲学科卒という日本での学歴、渡米以後のスタンフォード大学在学、ミシガン大薬学科卒業などの経歴が並ぶ。同書で富田清万(緑風)が振り返るように、アメリカで働きながら勉強を続けようとしてやってきた中学や高校の中途退学者も多かったようだ(89頁)。みな当時としてはかなりの高学歴である。文学に親しみのない出稼ぎの労働者から、通俗的読み物を好む読者、高いリテラシーをもつ移民文学の中核的支持層、日本から一時的に訪問する作家、そして作品のみが新聞紙上に現れる日本在住の作家--一口に移民の文学と言っても、その構成は複層的であった。

まとめ──移民新聞の役割

こうした種々雑多な構成の作品を載せ、さまざまなレベルの読者の要求を引き受けながら日本語新聞は発行されつづけた。移民地で文学のための〈場〉を創りだし、それを維持した移民新聞の重要性はいくら強調しても足りない。手段の是非はともかく日本国内の小説を転載して移民地に最新の作品を届け、短中篇の掲載から百回近くの長篇連載までできうる限り移民地起源の作品も載せ続けた。また個人的な執筆や投稿だけでなく、短歌会や俳句会の成果も頻繁に掲載し、新聞はコミュニティーの文学サークルをつなぐ役割を果たしていたことも見逃せない。自分で創作を行うまでには至らないまでも、掲載される作品に関心をはらっていた読者たちにとっては、投書によるフィードバックの回路としてもあった。

注目したいのは、移民新聞が果たした役割は単なる〈場〉の提供だけではなかったということである。日本語新聞は、「文学」を創出し、循環させていく積極的なアプローチをも行っていた。たとえば懸賞である。『じやぱんへらるど』(サンフランシスコ)をはじめ日本語新聞は、かなり早い時期からコミュニティの潜在的な作者に向けて、詩歌や小説などの「懸賞募集」を行っていた。「夏期懸賞募集」(『じやぱんへらるど』1897年4月19日、1面)は、「一等賞 写真(キヤビネツト)一ダース」などを懸け、「狂詩、狂歌、狂句及び川柳桑港町名よみこみ都々逸」を募集している。1899年10月28日号の『新世界』も「一等本紙一ヶ年」や当選作の掲載などをうたって「懸賞短篇小説募集」を行っている。紅野謙介によれば、『読売新聞』が懸賞小説・脚本募集を行ったのが一1893年10月、『万朝報』が「毎週募集」の懸賞小説を募りはじめたのが1897年1月というから2、移民紙の試みもかなり早いといってよいだろう。

日本の最新作の転載、文学愛好者への〈場〉の提供、創作を促進させる懸賞などさまざまな役割を日本語新聞は果たしていた。新聞社そのものが文士のたまり場でもあった。移民新聞は、移民地において「文学」を可能にした環境の、まさに一つの中核であったといえるだろう。(了)

注釈:
1. 前掲『続・北米百年桜』、88頁。

2. 紅野謙介「懸賞小説の時代」(『投機としての文学』新曜社、2003年3月)。

※ 本論文は、カリフォルニア大学ロサンゼルス校において客員研究員(文部科学省在外研究員)として行った研究の一部である。また本研究は、明治期の文学青年に関する研究プロジェクトを構成する一部であり、これに関しては学術振興会科学研究費助成金(課題番号15720031)の助成をうけている。

*『日本文学』第53巻第11号(No.617), 2004年11月,pp.23-34に掲載。

© 2004 Yoshitaka Hibi

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