Discover Nikkei

https://www.discovernikkei.org/en/journal/2010/12/07/

移住地開設から50周年を迎えるピラポ

アルトパラナ移住地の開設

1952年に再開されたパラグアイ国への戦後日本人移住により、戦後開設されたチャベス・フラム移住地がすぐに満植となりました。移住希望者が急増する日本の社会事情に応え、海外移住振興会社と海協連は、新たな移住地の開設が急務とされ、イタプア県中東部に位置するパラナ川沿岸のピラポ地区に巾20km 奥行き40km 約85,000haの大原生林を購入し、1959年アルトパラナ移住地と命名され造成を開始した。当時、振興会社は4年間で2,000家族、12,000人の入植を計画し、世界最大の日本人移住地として国内外から脚光をあびた。それは、戦後経済の低迷に悩む日本国にとって、画期的な失業者対策であり、民族移動計画であり、その成功と将来が期待された。

1959年9月アルトパラナ移住地に第1号抗が打ち立てられる。

入植開始と初期の状況

1960年8月2日、高知県からアルトパラナ移住地に第一陣26家族が入植し、1965年までの第28次まで、延べ331家族が入植した。日本では東京オリンピック開催以降、高度経済成長が続き、移住希望者は激減の一途をたどり、28次船は最後の移住船となった。一方、移住地では入植地は30haに区画割りされ、道路の造成がされ、収容施設や学校、購買所等が準備されていた。入植者は自分の土地を決め、原生林を切り倒し、火をつけ焼き、仮小屋を建て言語、風土、習慣の違う未知の大原始林開拓に遠大な夢を抱き、家族一丸となった戦いが始まった。この戦いは、開拓をしながら生活基盤をつくり、永住を目的とし暗中模索の状況の中、長い長い未知の理想郷に向かって進んで行くのである。

開拓時の入植者の様子

入植10年目のアルトパラナ移住地

移住事業団の指導に従い、入植者は自給野菜を作り、ニワトリやブタを飼育し、拓いた焼き畑に永年作のツングを植え、その間作にトウモロコシや綿、大豆等の短期作物を作り、短期作物の販売で生活し、また開発投資資金を作りツングが成木になるのを待った。並行して移住地全体の環境整備にも力を注ぎ、1966年11月23日、現日本人会の前身、アルトパラナ移住地運営協議会を発足させ、教育、治安、道路等の運営管理業務を進めていった。しかし、入植者の中には、あまりにも過酷な開拓生活に見切りをつけ、国内外の都市や、母国に帰国する者も出始めた。

1966年アルトパラナ運営協議会仮事務所

明るい兆しに向かって

永年作のツングが実を付け、移住地に搾油工場が建設され、エンカルナシオンにも搾油工場が建ち、つくった作物が有利に販売が出来る兆しが見えて来た。養蚕が盛んになり日本企業が進出し、繭の乾燥工場ISEPSA社(Industria de Seda Paraguaya SA)が設立され、養蚕が急速に普及し移住地は活気に満ちて来た。しかし期待されたツングは低価格が続き、それで生計を立てる事は難しかった。繭価も中国産の繭に押され、わずか10数年で工場は閉鎖され、移住地農業の大豆への転換が始まった。1980年代に入ると、大豆を中心とした営農に、裏作の小麦栽培が始まり、本格的な機械化農業へと転換していった。また、ブルドーザーを駆使した農地開発が進み、90年代に開発はピークに達し、移住地は60,000haの穀物生産地帯へと変貌し、安定期に入っていく。

20周年を迎えたピラポ移住地上空から中央  

21世紀に入って

40周年を迎えた移住地は農業を中心とした成熟期に入り、市行政、日本人会、農協それぞれの構想が定着され、先人が築いた基礎の上に、初期の開拓精神が受け継がれ、現在は、農地の土壌保全、環境対策を軸に、移住地を次世代に引き継ぐための、新たな取組みが始まっている。

入植50周年に向かって

2009年に建立した草木塔

2010年8月2日に挙行される入植50周年記念祭に向かい、市役所、日本人会、農協が共同で準備を進めている。昨年はこれに先立ち、今日までこの大原始林の草木を倒し、焼き払い、自然の恩典により、我々が生活させていただいている事に感謝し、また、このピラポが末永く今後も発展を続ける事を願って、「草木塔」を建立した。

また、50周年記念事業として市役所、農協と提携し「入植50周年記念碑」の建立と、墓地の環境整備も着工している。日本人会の独自事業では移住史料展示室を開設し、大使館草の根資金援助によるリハビリセンター建設も進んでいる。

今後の課題として「地域住民との協調、融和」を掲げ、世界の多くの民族が移動しその歴史を造ったように、南米大陸に移住した先人開拓者の歴史を学びながら、同胞日系社会と歩調を合わせ、来る100周年に向かって新たなスタート地点に立つ、50周年になる事を願っている。

*本稿はパラグアイ日本人会連合会会報「力をあわせて新たなるパラグアイ日系社会の創造」(2010年7月)からの転載です。

© 2010 Seiko Nishidate

agriculture Paraguay Pirapó
About the Author

Born in Iwate Prefecture in 1948. In 1964, he and his family of five settled in the Alto Paraná settlement (now the Pirapo settlement) in Paraguay, and have been engaged in agriculture ever since. Currently, they mainly cultivate soybeans, corn, wheat, etc., and the cultivated area is about 300 hectares. Part of the farm has been left as a virgin forest and opened as a park. He serves as vice president of the Pirapo Japanese Association and president of the Pirapo Iwate Prefectural Association. He was the central figure in collecting and organizing the materials for the Pirapo Migration Museum, which was opened to commemorate the 50th anniversary of the Pirapo settlement. His hobbies are painting and historical research.

(Updated December 2010)

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