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https://www.discovernikkei.org/en/journal/2010/11/22/3659/

第5回 マンザナー二日目

マンザナーにきて二日目、わたしは寒くて朝早くに目が覚めてしまいました。時計を見るとまだ6時でした。寒くて目が覚めてしまった経験は、実に数年ぶりでした。

わたしは熱いシャワーを浴びたあと、果物の缶詰を2個ほど開けて、急いで朝食を済ませました。ガスヒーターを点けましたが、部屋は一向に暖まりません。さらに、わたしは外を見てびっくりしてしまいました。なんと、霜が車全体を覆っていたのです。わたしは急いでお湯を沸かし、車全体を覆っている霜をとかし始めました。まもなくして霜をとることはできましたが、案の定、すぐにはエンジンがかかりません。何とかしてエンジンをかけ、エンジンが温まった頃には、すでに7時半になろうとしていました。わたしは、8時の出勤時間には間に合うようにと、エンジンが温かくなったのを確認し、資料館にむけて車を走らせました。

資料館に着いたとき、時計は7時50分を指していました。キャリーさんとポタシンさんはすでに出勤していました。

午前-マンザナー史跡めぐり

その日の午前中、キャリーさんはマンザナー史跡のなかを案内してくれました。最初に紹介してくれたのが、ブロックのなかにあった男女別の便所兼シャワー場、洗濯場、そしてアイロン場の跡でした。

アイロン場の跡(2010年10月、著者撮影)

洗濯場の跡(2010年10月、著者撮影)

便所兼シャワー場で、キャリーさんは、パイプの跡が8カ所あるのは男性用、そして10カ所あるのは女性用であると説明してくれました。

わたしの第一印象は、パイプとパイプの間隔がとても狭いということでした。当時の日本人や日系人は、わたしのような大柄でふくよかな人々は少なく、小柄の人々が多かったのでしょう。それでも、パイプとパイプの間隔の狭さを考えると、使われた便器は小さくて不便なものだったと想像できます。ここが非常に窮屈な空間であったことは明白です。

さらに、キャリーさんは、当時の便所には仕切りがなかったことを教えてくれました。トイレに仕切りがないことは知っていましたが、あらためてその場に立ってみると、仕切りがなかったことに恐怖感のようなものを感じました。トイレを使っていることを他人に見られるという大きな屈辱を、当時の日系人は毎日のように感じていたに違いありません。日系人たちは、このような状況の中で、ストレスに耐えていたのでしょう。

女性用便所兼シャワー場の跡(2010年10月、著者が撮影)

男性用便所兼シャワー場の跡(2010年10月、著者撮影)

次に、キャリーさんが案内してくれたのは日本式庭園跡でした。庭園跡へ向かって歩いている途中、わたしは足元に黒い点のようなものがたくさんあることを発見しました。キャリーさんによると、終戦後マンザナーは閉鎖されたのですが、一部の建造物などを除いて、すべてが「焼却処分」されたそうです。私が見つけたのは、その燃えかすでした。

「焼却処分」された跡の一部(2006年、著者撮影)

わたし自身にとっては、戦争が終わって数十年が経っているのにもかかわらず、収容施設の跡が未だに残っていることは、大きな驚きでしたが、その一方で、足元の黒い燃えかすをじっとにらむようにして、別の考えにふけってしまいました。この燃えかすはアメリカの歴史における、「証拠隠滅の生き証人」なのではないでしょうか。日本における「隠したい歴史」として、第2次世界大戦における戦争犯罪がよく挙げられますが、アメリカにおいては人種差別にかかわる歴史こそ「隠したい歴史」の第1位なのでしょう。わたしにはアメリカの政府が、収容施設を「焼却処分」することは、自国の負の歴史を「抹殺」しようとしたように思えたのです。アメリカに「隠したい歴史」があることを実感した瞬間でした。

そして、日本式庭園にたどり着くと、先ほど見た便所兼シャワー跡地と異なり、なんとなく落ち着いた雰囲気を感じ取ることができました。不思議なことに、わたしにはなんとなくそこだけ時間が遅く流れているように感じたのです。すると、キャリーさんは、「庭をつくったのは、何らかの“癒し”のためだったの」とわたしに教えてくれました。ここに足を運べば、少しくらいは辛いことや、心配事などを忘れることが出来たというのです。ここは、キャリーさんのお気に入りの場所でもありました。

代表的な日本式庭園の跡のひとつ(2010年10月、著者撮影)

その庭の跡は、今では草木も生えていない、石とコンクリートが残っているだけですが、数時間くらいあれば綺麗で魅力的な庭に「変身」できるような状態でした。よく見ると、当時の人々の土木技術の高さを見て取ることができます。これだけ高い技術を持っている人々を、収容施設に送ってしまうことは、非常に残念なことだと思いました。

2010年10月、著者撮影

2010年10月、著者撮影

午後-インタビューの反訳

当時のわたしの作業場(2006年1月、著者撮影)

家で昼食をとった後、ポタシンさんが、1本のカセットテープを持ってきました。オーラル・ヒストリーの反訳(文字起こし)の作業を頼まれたのです。わたしは、パソコンを目の前にして、そして脇にはヘッドフォン付きのテープレコーダーを置いて、反訳をはじめました。

基本的に反訳の作業は、話されている内容をそのまま文字にするだけです。反訳のためのテープレコーダーには、ミシンのようなペダルがついていて、ペダルを踏みながら簡単にテープの巻き戻しができます。しかし、タイピングが苦手なわたしには、話されている内容を注意深く聞いて、文字を打ち込んでいく作業は思ったよりも難しく、数分にわたるスピーチを文字起こしをするのに、30分程度の時間を要してしまいました。

この時反訳したインタビューは、マンザナーに収容されたある二世の方だったと思いますが、反訳の作業にばかり気をとられてしまい、その内容については、あまり覚えてはいません。とにかく「必死に」反訳していたのです。覚えているのは、大変だったことだけです。しかし、あの時のわたしが、今ではオーラル・ヒストリアンとしての道を歩んでいるのですから、人生とはわからないものです。

一日の仕事を終えて

午後5時、わたしはその日の仕事を終え、家に帰る前に夕食の買い物をするためマイヤーズ*という小さなスーパーマーケットに立ち寄りました。レジの店員さんから、「この見慣れない人はどこから来たのかしら?」という視線を向けられたのを覚えています。

現在、アメリカにおけるアジアおよび大洋州系の人口は総人口の約5%です。つまり、アジア人は「規模の小さな少数派」です。そのなかでも、日系人は「さらなる少数派」です。今思うと、おそらくあの定員さんは、アジア人をあまり見たことがなかったのでしょう。アジア人であるわたしが珍しく見えたのも仕方のないことです。

おわりに 

ボランティアスタッフのための住居(2006年1月、著者撮影)

この日、わたしは、「体で歴史を学ぶ」ことの大切さを実感しました。小さな便器の跡や焼却の跡などを、目や耳で感じとり、手で触れることによって、当時の人々の体験の一部を感じ取ることができました。私は、日本へいたときに暗記主体の歴史勉強をしてきましたが、それでは味わうことのできない歴史の楽しさを学ぶことができた一日でした。

注釈:
*インディペンデンスのマイヤーズは残念ながら閉店してしまいました。

© 2010 Takamichi Go

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About this series

This is a column series by Takamichi Go, who studied in the United States in 2002 and became interested in Japanese-American history after reading the book " Farewell to Manzanar." He talks about Japanese-American history based on his own experiences.

(* Signature image from Wikipedia.com by Daniel Mayer.)

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About the Author

He studied American social history and Asian-Ocean American society, including the history of Japanese American society, at Orange Coast College, California State University, Fullerton, and Yokohama City University. Currently, while belonging to several academic societies, he continues to conduct his own research on the history of Japanese American society, particularly in order to "connect" Japanese American society with Japanese society. From his unique position as a Japanese person with "connections" to foreign countries, he also sounds the alarm about the inward-looking and even xenophobic trends in current Japanese society, and actively expresses his opinions about multicultural coexistence in Japanese society.

(Updated December 2016)

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