Select a primary language to get the most out of our Journal pages:
English 日本語 Español Português

We have made a lot of improvements to our Journal section pages. Please send your feedback to editor@DiscoverNikkei.org!

日系史は私の「パートナー」

私の日系史研究は、今年で7年目を迎えました。この7年間、私はマンザナーやツール・レイクに足を運び、オーラル・ヒストリーに取り組み、JAリビングレガシーの活動に参加するようになりました。さらには、ディスカバーニッケイのユーザー、ニマ会の一員としてエッセイを書いてきました。

日系史研究をやっていると、そのきっかけに関する質問を受けることがあります。その度に私は、「『さらばマンザナー(Farewell to Manzanar)』を読んだのがきっかけです。」と答えています。

しかし、もっと大切な理由があるのです。これには、私自身のアイデンティティが関係しています。今回はそのことについて書いてみたいと思います。

私はハパです!そして、私は日本人です!私は、日本の国籍を持っています。

私は、日本人です。
私は、日本語を話します。
私の名前は、日本名です。
私の父親は、日本人です。
そして、私の母親は、漢民族で、内省人の台湾人です。

日本社会では、私のように外国出身の親を持つ人々は、ハーフ、あいのこ、さらには混血児と呼ばれています。しかし、差別や偏見の意味が含まれていることが多いこれらの言葉が使われることに、私は強い抵抗感を感じます。そのため、私が自己紹介をするときは、「ハパの日本人」、「台湾系の日本人」、「台湾にルーツをもつ日本人」、という表現を使います。特に、私はハワイ語を使ったハパを好んで使います。ハパはハーフのように差別や偏見を意味した言葉ではないからです。

子供の頃、私は学校で「唯一のハパ」でした。学校では、他の生徒たちからとても異質な存在としてみられ、よくいじめの標的にされました。先生の中にも、私を奇異の目で見る人がいて、他の子と同じように私に接してくれたのは、ほんのひと握りの先生たちだけでした。この背景には、管理教育という当時の日本の子供たちに対する教育方針、かつての日本の帝国主義や植民地政策、そして一部の日本人による、台湾に対するネガティヴな印象があったことは言うまでもありません。かつての日本社会においては、国際結婚やそれによって生まれた子供たちに対するネガティヴな印象があったのです。

私は何も知らない小さな子供でしたが、このような冷遇を受けるのは、私がハパであるがための、ある種の宿命のようなもの、変えることのできない運命であると感じていました。

「ココロの武器」としての歴史の勉強を起点にして

そんな幼少時代を送った私ですが、好きなものが二つありました。ひとつは音楽です。子供の頃から音楽の勉強をしていて、ピアノが得意でした。ちなみに、今でも私はピアノを弾くことがあります。そしてもうひとつが、社会科の勉強でした。社会科は私の得意科目で、公開模擬試験では常に優秀な成績を修めていました。勉強の面において、得意分野を持つことで自分に自信を持つことができるようになりました。

しかし、楽器が演奏できるとか、社会科の成績が良かったからというだけで、自分に自信を持てるようになったというわけではありません。私は日本史を学ぶことで、日本人のことや、日本社会の成り立ちをよりよく理解できるようになり、自分のルーツに関わる疑問点が少しずつ解けるようになったからです。私はハパであっても、他の日本人と同じ存在、すなわち自分も日本人であることを認識できるようになりました。ハパの日本人である私にとって、日本史の勉強が自己確立、つまり日本人としてのアイデンティティを育てるのに大きな役割を果たしたのです。

渡米とアイデンティティの確立へ

日本では音楽と歴史の勉強に時間とエネルギーを注ぎ、自己確立に努めてきた私は、2002年にアメリカに渡りました。渡米当初は英語の勉強が大変で、自分のアイデンティティについて特に意識していたわけではありませんが、自己紹介するときはいつも「私は日本から来ました。父親は日本人ですが、母親は台湾人です。」と言うようにしていました。

私が、ハパのアイデンティティと真剣に向きあうようになったのは、当時お世話になっていたハパの講義を担当する人類学の先生にゲストスピーカーを依頼されたことがきっかけでした。それまで、私は自分自身の経験を話す機会がなかったので、どのような話をすればよいのか迷ってしまいました。結局、ハパであるがゆえに受けた日本の学校での差別体験などについて話しました。講義に参加していた学生たちは、私の話を熱心に聴いてくれました。それは、私にとっては、非常にうれしいことでした。そのクラスには、ハパの学生たちもいて、授業後にいろいろと話をしました。

その日のことは、今でもよく覚えています。私はハパであることを歓迎されたのです。個人的な経験も含めた見解ですが、日本社会では、ハパは恥ずかしい存在、または認知されていない存在であり、ハパに対して「言うべからず、問うべからず」という風潮があると私は感じていました。しかし、この日、私はアメリカ社会のハパに対する寛容さを実感したのです。そして、この日を境に私は自分自身がハパであることを、はっきりと表明できるようになりました。

日系史との出会い

私は、しばらくは英語の勉強に明け暮れていました。私が「さらばマンザナー」を読んだのは渡米後1年ほど経った頃でした。それまでは、私は日系史について学ぶことは一切ありませんでした。そのため、「さらばマンザナー」によって、私自身の目を開かされたことは非常に新鮮なことでした。それと同時に、日系人の歴史の中に自分の体験と共感できる何かを見出せるのではと思うようになりました。

私が初めてマンザナーに足を運んだときに、「マンザナーを憶えつづける(Remembering Manzanar)」というドキュメンタリーを観ました。その冒頭で、「マンザナーにいる理由を母親に聞いたら、私たちは日系人だから(マンザナーにいるのだ)、という単純な答えだけが返ってきた」というジーン・ワカツキ‐ヒューストンさんのせりふを聞き、その瞬間、何か心の中にひっかるものを感じました。そのせりふには、私の幼少時代―私がハパであったから、他の子供たちや先生たちによる嫌がらせにあった―に通じるものがあったからです。アメリカでの日系人の社会的地位と、ハパの日本人としての私の日本での立場が重なったのです。

それ以来、私はまたたく間に日系史研究のとりこになりました。私が特に興味を持ったのが、オーラル・ヒストリーです。さまざまな日系人―帰米と呼ばれる日本で教育を受けた二世の皆様や、従軍の経験のある二世の皆様など―の話に耳を傾けることは、日系史を理解することだけではなく、自分自身のアイデンティティに関する良い問題提起にもなりました。

日系史の「インプット」から「アウトプット」へ

フラトンの大学を卒業し、日本への帰国後も、私の日系史への熱意は変わりません。今年の4月からは、横浜市立大学に籍をおいて、滝田祥子先生の指導のもとで研究を続けています。また、研究だけに時間を割くのではなく、日系史に関する情報や知識を日本人に向けて発信することも積極的に実践しています。ディスカバー・ニッケイへの投稿もその活動のひとつです。また、日本国内の学会のイベントにも参加するようになりました。

日系史研究を重ねていくうちに、「このような歴史は、自分自身だけではなく、多くの日本人にも知ってもらいたい、なんとかして日本人に日系史を理解してもらいたい」と私は考えるようになりました。そうすることによって、日本人がエスニシティというプリズムを通して歴史を理解できること、さらには日本人のアイデンティティについてさらに理解できるのではと思うようになったからです。今では、日本人に日系史を伝えていくことが私の目標になりました。それは、全く信仰をもたない人が、何らかの信仰をもつようになり、その良さを広めるため、布教活動をはじめるのと同じようなものかもしれません。

また先日、滝田先生が「故郷(くに)を失った人々の物語(Caught in Between)」、というドキュメンタリーを紹介してくれました。それは、私と同じように台湾人の親を持つ星野利奈さんが製作したドキュメンタリーでした。これは私にとってひとつ衝撃でした。星野さんはアメリカで生まれたとのことですが、同じような境遇を持つ人々の中に、私と同じように日系史に対する情熱を持っている人がいるということは、大変興味深いことです。

今では、私は毎日のように日系史のことを考えていて、さらには、日本人と日系人の橋渡しのことを考えている生活を送るようになりました。タイトルに書いた通り、日系史は私にとって、まさに「パートナー」なのです。

感謝の気持ちを込めて

私の日系史研究はまだまだ始まったばかりです。それは自分探しのひとつとしてスタートしましたが、今ではこの素晴らしさと魅力を日本人にもどんどん伝えていきたい、また日系史の研究を通して何らかの社会貢献をしたいという気持ちでいっぱいです。それはまるで、谷川俊太郎さんの「春に」という詩の文句に何度も出てくる「この気持ち」のようなものです。

日系史の研究は、日系社会に生きる方々とその社会を支える皆様の協力と支援なしではできません。私の研究をサポートしてくれている、カリフォルニア州立大学名誉教授アート・ハンセン先生とクレイグ・ケイ・イハラ先生、そしてロサンゼルスの歯科医のアーネスト・ナガマツ先生、JAリビングレガシーのスタッフの皆様、日系人の話を日本語で紹介する機会を与えてくれた全米日系人博物館のディスカバーニッケイのスタッフの皆様、私のオーラル・ヒストリーにご協力してくださった皆様、そして各地の日系社会に生きる皆様に、私は深い感謝の意を表します。今現在、私が日系史の研究を続けることができるのも、彼らのような素晴らしい人々のおかげだからです。

私は、今まで出会ってきた皆様とのつながりを大切にするだけではなく、これから出会うだろう人々との間にも、素晴らしいつながりをつくるための精進をしながら、これからも日系史研究を続けていきたいと思っています。

© 2010 Takamichi Go

hapa identity japanese american taiwan