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https://www.discovernikkei.org/en/journal/2009/8/6/nihon-no-kyoiku/

第6回 女子教育(2)

前回は、戦前のブラジルにおける日系女子教育の開花について述べた(本連載第5回参照)。こうした女子教育機関の教育内容として特筆されるのは、知識・教養の教授とともに、日系女子としてのしつけ、礼儀作法の教育が重視された点であろう(写真6-1)。日伯実科女学校の創立者郷原ますえもサンパウロ女学院創立者の赤間みちへも、ブラジルで発行されたいくつかの著書があり、礼儀作法についてそれぞれ健筆をふるっている。

写真6-1:日伯実科女学校の天長節記念写真(1954年)。前列中央郷原ますえ校長。天長節には全員制服で記念撮影するのが慣わしであった (作本登美子さん提供)

たとえば、筆者の手元にある郷原の著書『生活の知恵―礼法―』は、1959年に日伯実科女学校から発行された戦後のものだが、しつけ教育の傾向をよく表しているといえる。同書の「まえがき」には、まず、「本書は当国生まれの二世の方々の日常生活の手引をするために編集いたしました」とし、日系二世子女が対象であることを規定している。次に、「学校の生活」、「家庭の生活」、「社会の生活」、「およろこび及びかなしみ」、「男女交際の心得」の5項目に大別し、「あらゆる日常生活の実際に結びつけ、すぐ役立つことを主眼とし、またこれまでのような固ぐるしい礼法の形式にとらわれず、修身書の一部をもかねて編集してみました」(同「まえがき」)としている。

また、同書の内容を見ると、たとえば、親子関係について、「たらちねの親につかへてまめなるが人のまことの始めなりけり」という明治天皇御製歌を引き、「この限りなきご恩にむくいようとするのは子たるもののつとめ」(p.59)と説いているように、日本では戦後ほぼ完全に否定されていた修身教育の影響がほのみえる。ただ、知識(サベドリア)、青年期(モシダーデ)、感謝(アグラデッシメント)など、多くの漢字語にカタカナでポ語訳が付され、本文中にもポルトガル語が混じるなど、日本語書き言葉の一種のクレオール化が見られる点が興味深い。

私は未見であるが、赤間には、「ブラジル生活のエチケット」と題した帝国書院刊の書籍もあるようで(赤間, 1999, 「はじめに」)、しばしば日系婦人会などのエチケット講習会の講師を務め、礼儀作法にはなみなみならぬこだわりがあったことが知られる。彼女は講演録の中で、「エチケット、昔は礼儀作法と申しました。礼儀とは心の問題であり、作法とは形の問題で要するに身のこなしですね、つまり心と体を正しくするというのがその目的であります」(p.53)と定義し、その重要性について繰り返し言及している。

また、同書の中で、「今日の娘たちはどうかすると働く事をきらう傾向があります」と指摘し、それに対して以下のように自説を述べている。

私の学校の寄宿舎では便所掃除から庭はきコジンニャのプラット洗い1でもなんでも当番でやらせます。中にはこんなことをさせられると不平をいうものも居りますがそう云う人はほかのペンソンに行ってもらいましょうと云い渡しますとしまいにはなんでもちゃんと責任をもってやる様になります、こうした事は学校の様な団体生活でなければやり終わらせることの出来ないものだと思います(赤間, 1999, pp.120-121)

「私は三十年余り年頃の娘たちをあつかって参りまして」とあるから、1960年代頃の講演であろうか。ここにも日本語書き言葉の一種のクレオール化が見られるが、それはさておき、知識・教養の伝達だけでなく、掃除・炊事といった日常生活に即した日系女子としてのしつけが重視されているのがわかる。こうしたしつけ教育には、教育者それぞれの思いとともに、エスニック集団の持つ文化がもっとも濃厚に現れたと考えられる。

以前述べた大正小学校が規模を縮小し(本連載第3回参照)、聖州義塾が1942年に立ち退きに追い込まれた(本連載第4回参照)のに対して、両女学校は第二次世界大戦中にも発展を続けていた。例えば、サンパウロ女学院は、1944年には在校生300名を数え、ナショナリゼーション政策をとる当局にたびたび問題視された(佐藤, 1985, p.74)。また、日伯実科女学校が戦時中も日本語教育を継続していたことは、前回ふれた通りである(本連載第5回参照)。

戦中・戦後の混乱期を生きのびた後も、両女学校は順調に発展していったといえる。日伯実科女学校は、1983年には、創立50周年記念祝典を盛大に祝った。同学園は、現在、日伯ますえ保育学園、むつみ幼稚園として改組されているが、両者は1965年に相次いで創設されている。ただ、女学校の方は、「時代の変化」から、1980年代前半に縮小、やがて閉鎖し、幼児教育に特化する方向をめざすようになった。

郷原の長女で二代目校長だった作本登美子さんによると、女子教育の衰退は次のようになる。「昔は家族の服はみんな主婦が縫ったものでした。ミシンは嫁入り道具としてなくてはならないものでした。1970年代ぐらいからでしょうか、既製服が出回るようになり、お裁縫を学ぶ人も少なくなってきました。それでも、1980年頃まで、夜学ということで、私が教えてまいりました。その頃、学校の先生方が、子どもがいるので、仕事を続けられないという人が出てきました。そういう先生方のお子さんを私の方でお預かりすることにしたんです。一人預かるのも二人預かるのもいっしょということで、そういうお子さんがどんどん増えていったんです。それが保育所のはじまりです」。

また、1970年代から80年代初頭にかけては、サンパウロに進出してきた日本企業がもっとも多かった時期であった2。作本によると、むつみ幼稚園のはじまりは、「同じ頃、企業駐在員のお子さんたちをお預かりするようになりました。むつみ幼稚園は、当時ほとんどが駐在員のお子さんたちでした」ということになる。

こうして、むつみ幼稚園、日伯ますえ保育学園がはじまった。両校とも、現在、幼児から小学生までの約100人ほどの児童が在籍している。ますえ保育学園は、乳幼児も受け入れており、4歳までは日本語で教え、その後、ポ語、英語などで教えていくバイリンガル教育を行っている。もちろん男女共学であるが、カリキュラムには、女学校時代からの伝統である珠算も取り入れられている。むつみ幼稚園も、日本語を中心に、ポ語、英語での教育を実践しており、日系児童のほかに、現在も日本企業駐在員の子弟が多く在籍している(写真6-2)。

写真6-2:日伯ますえ学園のソロバンの授業(2009年5月筆者撮影)

一方、サンパウロ女学院の方は、財団法人赤間学院セントロ・エドカシオナル・ピオネイロ校として、幼稚園から高等部まで約800名の生徒を有する男女共学の有力校に発展している(写真6-3)。日系人の間では、現在も「赤間学院」の名の方が通りがいい。日本語を各学年の正課としているほかに、特に数学教育に力を入れ、在校生はサンパウロ州内で行われる数学オリンピックで優秀な成績を残している。たとえば、2004年のサンパウロ州数学オリンピック大会の決勝で、同学院は中学・高校部門において、金メダルなど6個獲得した。特に高校1年生のモリヤマ・ハルオ・エンゾ君が、高校生部門で銀メダルを獲得して注目された(ニッケイ新聞WEB版2004/12/04)。同学院では、折り紙で幾何学、ソロバンを使った計算トレーニングを実践しており、これが数学教育に貢献しているという。また、いわゆるデカセギで日本の教育を受けた後ブラジルに戻った帰国子女の受け入れにも積極的である。

写真6-3:赤間学院の女子バレーボールチーム(赤間アントニオ氏提供)

ブラジル日系社会に女子教育が花開いて約80年、日本も変わり、ブラジルも変わった。「花嫁学校」あるいは「女の園」は「時代の変化」に応じてとだえたが、ブラジル日系女子教育で培われた「思い」は、世代を経て受け継がれ、形を変えつつも今に伝えられている。

注釈

1.「コジンニャ」(cozinha)はポルトガル語で「台所」、「プラット」(prato)は皿のこと。「コジンニャのプラット洗い」とは、台所での皿洗いのこと。

2.一つの指標として、サンパウロ日本人学校の児童・生徒数は71年に100人前後だったものが、74年には500人を超え、80~81年には900人とピークに達し、82~83年には850人前後と下降しはじめている(サンパウロ日本人学校, p.12)。

参考文献

赤間みちへ(1999)『移民生活の中での教育誌・講演の旅』

郷原満寿恵編(1959)『生活の知恵―礼法―』日伯実科女学校

郷原満寿恵編(1983)『姉妹-創立五十周年記念』第6号日伯実科女学校

佐藤皓一編(1985)『財団法人赤間学院創立五十年史』財団法人赤間学院

ブラジル日本移民70年史編纂委員会(1980)『ブラジル日本移民70年史』ブラジル日本文化協会

サンパウロ日本人学校(1999)『学校要覧』サンパウロ日本人学校

「赤間学院=今年も数学オリンピックで金メダル」ニッケイ新聞WEB版2004/12/04: http://www.nikkeyshimbun.com.br/2004/041202-75colonia.html

* 本稿の無断転載・複製を禁じます。引用の際はお知らせください。editor@discovernikkei.org

© 2009 Sachio Negawa

Brazil education women
About this series

The second installment of the Discover Nikkei column by Yukio Negawa of the University of Brasilia. As an example of the overseas expansion of "Japanese culture," particularly in Latin America, this report examines the trends and realities of Japanese education in Brazil, home to the world's largest Nikkei community, from the prewar and wartime periods to the present day.

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About the Author

Sachio Negawa is an assistant professor in the departments of Translations and Foreign Languages at the University of Brasília. An expert on Immigration History and Cultural Comparative Studies, he has lived in Brazil since 1996. He has fully dedicated himself to the study of learning institutions in Japanese and other Asian communities.

Last Updated March 2007

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