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第3回 大正小学校(2)

「大正小学校(1)」を読む>>

大正小学校をはじめ、戦前のブラジル日系教育機関の最盛期は1930年代である。コンデの坂下からサン・ジョアキン通りに移転した大正小学校は、次第に学校としての機能を充実させていった。

信濃海外協会(1922年創立)は1928年頃から長野師範学校卒業生をブラジルに留学させていた(二木, 1996, p.142)が、1933~34年には、柳沢秋雄、坂田忠夫、二木秀人の3人が現地の師範学校留学を命じられた。これは、ブラジル正規教員の資格を取ら せ、日系子弟の教育に任ずるためである(永田, 1996, p.154)。柳沢、坂田、二木の三人は、いずれも20歳を出たばかりで、1935年の両角貫一校長着任前後から大正小学校で教師を勤めた。給料は100 円(約500ミルレース)で、当時の日本の小さな学校の校長と同程度、破格の待遇であったという(パウリスタ新聞, 1975/10/02)。同校では、柳沢は陸上競技、坂田は野球、二木は校庭づくりと、各教師の指導により、課外活動も盛んになっていく。1930年代前 半、サンパウロ州内陸ゴヤンベからサンパウロ市に出、同校に学んだ二世の女性Iさんは、同校の教育について(ゴヤンベに比べて)「ベン・メリョール、ベ ン・システマチコ」(とてもよい、とてもシステマティック)だったと語った。こうして、同校は「コロニア一」と呼ばれ、ブラジルでもっとも充実した日系教 育機関となっていった。

『伯剌西爾年鑑・後編』(1933)の「在伯邦人設立小学校一覧」「日本人小学校児童男女別統計」によると、当時の大正小学校は、経営は大正小学校 後援会に拠り、教員数日本人男性教員2人、ブラジル人女性教員1人の計3人、生徒は男74女58の合計132人となっている(p.110, p.117)。それが、1930年代後半には同校の経営はサンパウロ日本人会連合会へと移管、尋常科、高等科、寄宿舎を有し、教員数9人、生徒数も200 人を数え(パウリスタ新聞, 1975/10/02)、1938年にはサンパウロ市ピネイロス地区に分校も開かれた。コンデの頃と比べると、たいへんな飛躍である。また、サンパウロ日 本人学校父兄会の本部が校内に置かれこともあって、同校はブラジル日系子弟教育の中心的機関となっていった(写真3-1)。

よく指摘されるように、日系教育機関が発展した1930年代はまた、ヴァルガス政権のもとブラジル・ナショナリズムが高揚した時代であり、移民とそ の子弟に対して強力な同化政策が推進された。特に、1938年8月以降、連邦政府や州政府によって制定された諸法令によって、事実上組織的な外国語教育が 不可能となり、多くの日系教育機関が閉鎖された。この時期に閉鎖された外国系私立学校は全部で774校、サンパウロ州ではドイツ系やイタリア系も含めて、 284校に上っている(DALBEY, 1969, p.234)。この時期、子弟を日本に留学させる者も多かった。

また、満州事変以降、日本国外各地で遠隔地ナショナリズムが発展し、ブラジル日系コミュニティもその影響を受け、多くの日系移民とその子弟が二つの ナショナリズムの間で動揺することとなった。サンパウロ日本人学校父兄会は、「在伯二世」の教育について、その会報で「留同胞は奮励一番、教育勅語の真諦 を体得し、真に在伯二世として、優秀なる民族としての実績を挙ぐるやう全努力を捧ぐべきである」と謳い(サンパウロ日本人学校父兄会, 1934, 「はじめに」)、これを読む限りは勇ましい臣民教育的傾向を示しているといえる。このサンパウロ日本人学校父兄会は、1938年10月に文教普及会に改組 されたが、ブラジル最初の体系的日本語教科書『日本語読本』8巻を編纂する古野菊男のような自由主義的傾向を持つ人物がいた反面、「時流に投じて全コロニ ヤを数年の間に徹底的に反動国粋色にぬりつぶしてしまつた」(安藤, 1949, p.307)石井繁美ような人物が外務省を通じてこの会に派遣された。

大正小学校は、こうしたナショナリゼーションの嵐を耐えぬいて継続した数少ない日系教育機関の一つである。では、実際の学校生活はどうだったのだろ うか。同校出身者にインタビューすると、口をそろえて学習内容は日本と同じだったと言う。30年代に入ってからの教授科目は、国語(日本語)・修身・算 術・地理・歴史・理科・体操・唱歌・ポルトガル語で、ポルトガル語やブラジル史以外の教科書は日本の国定教科書を使用し、日本国内の小学校に準ずる教育内 容を有していたことが知られる。修身科ももちろん行われていたが、卒業生や就学経験者へのインタビューでは、「それほど厳しかったという記憶はない」と答 える人が多かった。他地域に比べると地理的にも遠く、ブラジル当局への遠慮もあってか、かなりリベラルな教育が行われていたような印象を受ける。

当時の学校生活でもっとも楽しかった思い出として、唱歌を挙げる人も多い。ブラジルでの唱歌については、1931年に岩本巌という人物が『童謡唱歌 教材集』という上・下二巻の小冊子を手書きで編集しており、上巻の「序にかへて」には、「私の所有してゐます曲中から、在伯邦人子弟に適当と思はれる曲を 選ひ出したものです」(岩本, 1931)と記され、「君が代」をはじめ、「勅語報答」「天長節」といった臣民教育色の強いものから、「靴が鳴る」「ちんちん千鳥」「青い目の人形」「椰 子の実」など、ポピュラーなものも含めて、学年別に104曲が収録されている。筆者は下巻をまだ見ていないが、同じく「序にかへて」に「下巻には伯国祝祭 歌を巻頭にのせました」(前掲岩本同書)とあり、ブラジル国歌などが収録されていたことが知られる。

大正小学校は、政府公認私立学校として、コンデ時代からポルトガル語はブラジル人教師によって教授されていたが、30年代後半になると、日系二世の 教師が教えるようになっている。また、先のIさんや後述のS氏など、午前中は大正小、午後からは近くのカンポス・サーレス小学校(あるいはその逆)などブ ラジル公立学校に学んだという人びとが多く、都市に住む日系子弟はほとんど一日学業で過ごすことも多かった。

1930年代の中頃、同校で学んだS氏は、「修身?やってかかねえ。どっちにしても、それほど厳しくはなかったねえ」と首をひねる。野球少年だった 氏にとっては、強豪アリアンサやバストスとの試合の思い出の方が鮮明だ。大正小は課外活動も充実しており、野球部、陸上部、相撲部などが活発であった。中 でも野球は少年スポーツの花形であった。当時の野球チームの写真を見ると、「TAISHO」と書かれたおそろいのユニフォームを着た少年たちが整列してい る(写真3-2)。S氏によると、この写真は1939年6月、第4回全伯少年野球大会出場前に大正小学校の校庭で記念撮影したもの。当時のS氏は高等科2 年の最高学年。準決勝では5対4で辛勝したが、決勝の対アリアンサ戦では0対7で苦杯をなめたという。

その他の課外活動として、学芸会において、狂言や寸劇、コーラスが催された(写真3-3)。また、サンパウロ郊外への遠足やリオ・デ・ジャネイロへ の修学旅行も行われている。この小学校で学んだWさんは1939年にリオへの修学旅行に参加している。この時の帰途、大阪商船の新造船あるぜんちな丸に乗 船、同じく南米訪問中のテノール歌手藤原義江が同船し、藤原はこの縁で同校を訪問、その美声を生徒たちに披露し喝采を浴びた(写真3-4)。このような課 外活動や情操教育は、当時ブラジルの学校ではめずらしかった。同校は、後に3人の日系連邦下院議員のほか、閣僚、ブラジル中央銀行理事、実業家、大学教 授、学校創立者などを送り出すことになる。また、総領事はじめ同館職員の子女なども在学しており、まさに「コロニア一」と呼ばれるにふさわしい教育機関で あった。

戦争の足音がしだいに近づく中、大正小学校では、1941年10月に新校舎が増築されている。太平洋戦争勃発後、同校は、ただちにブラジル国籍の二 世3名へ名義変更を行っている。戦中は西江米子校長と同校の卒業生であった山田ルイザの二世女性教師2人で、240人余の生徒たちを教えることとなった。 2人の女性教師は、午前と午後に分け、一クラス60人の生徒たちを分け持った。2人は月謝なしで授業をしていたため、本校舎は薬品研究所に貸与。校内に は、常に牛の肝臓の匂いが漂ってきたという(パウリスタ新聞, 1975/10/08)。

戦後は教育令が改正され、1947年11月に日本語教育は一応解禁された。大正小学校に戻った、かつて教員留学生であった坂田が革新的な「ひらが な」教育を始めたりした。坂田は戦時中同校を守った西江校長と結婚しており、結局この2人が同校の終焉を看取ることとなった。1957年頃は戦後の最盛期 で、50人余の卒業生を送り出している。しかし、多くの日系移民がブラジル永住に転換する中で、日系教育機関の存在理由は大きく後退することとなった。

大正小学校は、1966年、日本文化協会に(現在のブラジル日本文化福祉協会)校舎・校地を譲渡・売却し、廃校と決定する。廃校前は生徒数百人、先 の坂田教諭夫妻が分担して教えていたという。数百人も生徒がいながら、なぜ校舎・校地を譲渡・売却しなければならなかったのか。当時の『パウリスタ新聞』 には、文化協会側がセンター建設のためにこの敷地を強く求めたこと、小学校校舎が老朽化し、破損が激しく、生徒たちを収容するのに危険をともなうように なっていたこと、万一生徒たちに被害が及んだ場合も学校側が責任を取れる保証がなかったこと、などが挙げられている(パウリスタ新聞, 1975/10/17)。校舎敷地の、譲渡交渉はスムーズでなく、40年以上経った今となってはわからないことが多い。文化協会敷地内に残っていた校舎 も、1976年に取り壊されたという。「コロニア一」と呼ばれた名門校の最後としては、さびしい限りである。

開校から51年、ひっそりとその幕を閉じた大正小学校。現在の日本文化福祉協会センターの地に、かつてブラジル日系コミュニティ最初の教育機関があったことを、今は知る人も少ない。

参考文献

安藤潔(1949)「邦人社会の言論・思潮史編」香山六郎編著『移民四十年史』pp.301-322

岩本巌(1931)『童謡唱歌教材集上巻』在伯唱歌研究会

サンパウロ日本人学校父兄会(1934)『サンパウロ日本人学校父兄会々報告』第2号

永田久(1996)「長野県と力行会の先輩たち」『信州人のあゆみ』在伯長野県人会pp.150-155

二木秀人(1996)「日系社会の日語教育-教育者として尽した県人-」『信州人のあゆみ』在伯長野県人会pp.141-147

伯剌西爾時報社編(1933)『伯剌西爾年鑑・後編』伯剌西爾時報社

「大正小学校、その“歩み”」①~⑫『パウリスタ新聞』6649~6663号(1975/09/30~10/18)

DALBEY, Richard. The German Private Schools of Southern Brazil during Vargas Years. Indiana University, 1970 1969, p.234

* 本稿の無断転載・複製を禁じます。引用の際はお知らせください。editor@discovernikkei.org

© 2009 Sachio Negawa

Brazil education elementary schools Japantowns Liberdade São Paulo schools Taisho Shogakko
About this series

The second installment of the Discover Nikkei column by Yukio Negawa of the University of Brasilia. As an example of the overseas expansion of "Japanese culture," particularly in Latin America, this report examines the trends and realities of Japanese education in Brazil, home to the world's largest Nikkei community, from the prewar and wartime periods to the present day.

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About the Author

Sachio Negawa is an assistant professor in the departments of Translations and Foreign Languages at the University of Brasília. An expert on Immigration History and Cultural Comparative Studies, he has lived in Brazil since 1996. He has fully dedicated himself to the study of learning institutions in Japanese and other Asian communities.

Last Updated March 2007

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