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https://www.discovernikkei.org/en/journal/2008/3/13/brazil-nippon-dayori/

出稼ぎにまつわる話

2008年にちょうど100年になるブラジル日本移民史を、まずおおざっぱに頭に入れるために知っておいてよい数字は、約25万、約150万のふたつだろうか。

約25万というのはブラジルに移民した日本人の総数だ。戦前と戦後に分けると約19万人と約6万人ということになる。

約150万というのも人の数で、こちらは現在ブラジルにいる日系人の人口ということになっている。ということになっているというのは、しっかりとし た調査が行われていないからだ。150万人というのは日本で言えば山口県の人口に匹敵するが、ブラジル総人口の1パーセントにも満たない。ちなみに今もっ とも世代の進んだ日系人は、6世の少年だとされている。

そのほか最近よく話題になる数字に、約30万―これも人数である―というのがある。「出稼ぎ」に行って日本にいる日系ブラジル人の数である。移民としてブラジルに渡った数をはるかに上回る人数が現在日本で働いています、というのは近頃よく耳にする表現だ。

見た目は日本人と変わらないのに生活様式はすっかりブラジル式の日系ブラジル人たちと日本人との間には軋轢も生じる。ひとつの地区にどんどん集まる 日系ブラジル人に不安を感じる日本人もいる。そんなことから対立や騒ぎが起きることも珍しくない。何しろ30万人いるのだから犯罪も起きる。メディアはと くにそのなかから凶悪事件や事故に焦点を当て、日系ブラジル人の犯罪として報道する。出稼ぎ現象は、ブラジルと日本にとって大きな問題となっている。

一方、当然のことだが、一家で海外に引っ越したり、家族が長期間ばらばらに暮らす出稼ぎは、ひとつの家族にとって家族史上の大事件である。新聞記事 になるようなものではないが、出稼ぎにまつわるエピソードも、家族それぞれに持っている。残念な話もあるが、いい話もある。これから紹介したいのは、 ちょっとしたドラマのような話である。

KAさんには、定年したらすぐやろうと考えていたことがあった。日本に行き、行方不明になった息子を探すことだ。

10年ほど前、KAさんと息子はふたりで日本に出稼ぎに行った。何年かして、さあブラジルに戻ろうかというときになって、ほかの町を見がてらもうひと稼ぎして帰りたいと言い出して息子だけ日本に残ることになった。

出稼ぎで日本にいる日系ブラジル人の間には、今どこでどのような条件の仕事があるという情報交換のネットワークがある。そのネットワークで得た情報 を頼ってより好条件の職場に移る人も多い。ブラジルに戻り、故郷の田舎町で新しい商売をはじめたKAさんは、あるとき息子から西日本のある町に移るという 知らせを受け取った。そこでいい仕事が見つかりそうだと。

その知らせを最後に息子からの音信は途絶えた。半年たち、1年、2年たち、便りが無いのがいい知らせなどと暢気なことは言っていられない年月がた ち、知り合いに連絡をとって消息を尋ねもしたが手がかりすら得られなかった。おそらく前の仕事を辞め、次の仕事が決まる前に何かあったのだ。身一つで日本 にいるということはそういうことだった。日本がどんなに狭かろうが、はじめての町で、仲間ができる前に事件にでも巻き込まれてしまえば、人間一人の痕跡な ど容易に消えてなくなる。

裏社会とつながりのある事件に巻き込まれてしまったのではないか。KAさんの周囲の人はそう考えるようになっていた。ありえない話ではない。KAさんはその話を聞き流したが、月日はさらにたち、とうとうKAさんの奥さんがその話を受け容れ、そのときから病気がちになった。

KAさんにもそれほど強い信念があったわけではなかった。息子が生きている可能性は高くないかも知れない。それでも定年して時間ができたら、とにかく一度日本へ息子を探しに行くことに決めていた。

10年たった。元気でいれば息子は30歳を越えている。KAさんの定年もそう遠くない。

州都からKAさんの田舎町まではバスで約7時間。長距離バスの発着場は、KAさんの家から歩いて10分ほどのところにある。

ある日、町で用事を済ませたKAさんは、発着場の横を通って家に向かった。州都から着いたばかりのバスから乗客が降りるのが遠目に見えた。再会を抱 き合って喜ぶ人たちがいる。ありふれた光景だ。日本から帰ったばかりの青年が降りてくる。そういうのは服装をみれば一目瞭然だ。

発着場のところから家のある住宅街に向けて歩き出すと、さっきバスから降りた出稼ぎ帰りらしい青年が後ろからやってくるのに気がついた。出迎えはな かったらしい、というよりそもそもこの町に馴染みが無い様子であちこち風景を確かめるようにして歩いている。KAさんと似たような歩みで、どうやら同じ方 向を目指しているらしい。KAさんは、近づいていって「どちらに行かれるのですか」と尋ねてみた。その青年の答えは、「この辺に私の家があったと思うので すが」という奇妙なものだった。

「そうやってすぐ側で話しているのに私には息子がわからなかったんだ。でもあっちも同じ。息子のほうも親父だとわからなかった」その青年が探しているという家に行ってみたら自分の家だった、というのがこの話のオチである。

KAさんの息子は、新しく暮らし始めた町の近くで、知り合ったばかりの仲間の車で事故を起こした。ふた昔前のサスペンス小説のような話になるが、頭 を強打したせいで記憶喪失となり、怪我は治ったものの自分の身元は思い出せないまま日本で仕事について暮らすようになったのだという。それでも時間がたつ と、少しずつ記憶が戻ってきた。そうしてどうにかこうにか故郷の町のたどりつけそうな気になったところで休暇をとり、ここまでたどりついたのだった。

KAさんは、この話をいろんな人に、もう何度もしたに違いない。いつもこんな風にしみじみと満ち足りた表情で語っているのだろうと思わせる話しぶりだ。

日本では責任を持たされた仕事をしているという息子は、わずか2週間たらずでまた日本に戻った。

もちろんKAさんは、定年したらすぐ息子のところへ遊びに行くつもりだ。

© 2008 Shigeo Nakamura

About this series

This is a 15-part column that introduces the lives and thoughts of the Japanese community in a small town in the interior of the Brazilian state of Sao Paulo, interweaving the history of Japanese immigration to Brazil.

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About the Author

Researcher at Rikkyo University Institute of Asian Studies. From 2005, he served as a curator at a historical museum in a town in the interior of the state of São Paulo, Brazil, as a youth volunteer dispatched by JICA for two years. This was his first encounter with the Japanese community, and since then, he has been deeply interested in the 100-year history of Japanese immigration to Brazil and the future of the Japanese community.

(Updated February 1, 2007)

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