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https://www.discovernikkei.org/en/journal/2007/7/26/brazil-nippon-dayori/

日本人移住地の話(2)― 学校生活

前回集合写真を紹介した移住地の小学校は、移住地に最初の住民がやってきてからほんの数年で完成している(日本人移住地の話(1)―どっちを向いても日本人より)。当時としては壮麗といってもよいぐらいの立派な建物で、ちょうど向いあわせの位置に建てられた病院と並んで、移住地のシンボルになった。

この学校で行われたのは、「日本の尋常小学校と同じ教育」だったと移民の歴史の本には書かれている。

実際、授業の大半は、日本人教師が、日本語を使って、日本から取り寄せた教科書で教えていた。ポルトガル語の教師としてブラジル人を何度か呼んだけれどもいつかなかったのだという。

「ブラジルに来ているのにねえ、今から思えばまったくおかしな話よね」と卒業生KMさんが苦笑まじりに言うように、日本の地理をおぼえさせられ、歴史は、「国史」として日本史を学んだ。

学科だけが日本式ではない。卒業生が「うさぎ追いしかの山♪」などの日本の歌を今でもきちんと歌えるのは、家で親たちが歌ったからだけではなく、学校に唱歌の時間があったからだ。体操の時間には、軍隊風の行進もあったそうだ。

運動会や学芸会ももちろんあった。舞台のある講堂、トラックのあるグラウンドはきちんと整っていた。

移住地をあげて行われる運動会は、一大イベントだった。その光景は、地域全体で祭りのようにして楽しまれた、戦前日本の小学校で見られた運動会のそれと、きっと同じようなものだったに違いない。

学芸会では、女子は「茶摘み踊り」などの日本の舞踊を披露した。男子が「肉弾三勇士」の劇をやったこともあった。日本ではちょうどそういう時代だったのだ。

図書室もあった。授業を終えた読書好きの子供たちは、そこで『キング』や『少年倶楽部』といった日本の雑誌に読みふけった。

日本の尋常小学校には御真影と呼ばれた天皇の肖像写真があって、紀元節、天長節などには、特別な保管場所から恭しく取り出されて飾られた。また、節目には 教育勅語が奉読され、生徒たちはそれを諳んじていたものだ。どのようにして下賜されたものかわからないが、日本人移住地の「尋常小学校」にも御真影があっ た。教育勅語を今でも空で言える卒業生がいる。ちなみに運動会が行われたのは、天長節である。

移住地の学校のこんな様子を知ると、まるで日本人移民はブラジルに日本の飛び地でも作ろうとしていたかのように思える。しかし実際にそんな非現実的 な企てがあったわけではなく、教育熱心な日本人移民が公立学校の開設を待ち切れずに自力で学校を建設し、つくってみたもののブラジル政府や州政府がすんな り教師を派遣してくれるわけでもないからとりあえず日本の教育を始めてみた、というようなことでもあったらしい。

ちょうど日本でも教育熱が盛んになった頃である。外国に来たからといって自分の子供が学校にも行かずにいる状況を受け容れられない親も多かったろう。定住 を前提として開拓された移住地にも少なくなかった、いずれ日本に帰るつもりでいた移民たちはなおさらそうだったろうし、それなら日本式教育は好都合だった だろう。

しかし移民先の外国で子供たちに祖国の教育を施すというのは、あまりにも目立ちすぎたようだ。ブラジル政府や州政府もこれを見過ごすことはできなかった。

日本人移住地の学校ができたころ、ブラジルではナショナリズム運動が盛んになりつつあった。国土がべらぼうに広く、州同士で戦争になるほど強烈な対 抗意識を燃やしているなかでひとつの「ブラジル人」をつくろうというのだから、相当な力業が必要だった。そんな状況で、移民が、母国語で、母国式の教育を することが見逃されるはずはなかった。

移民を「ブラジル人」にしようとする計画は、子供に外国語教育を施してはいけない(つまりポルトガル語以外だめ)という法令などによって徐々に形になり、 戦争の影が色濃くなるなかで強化されていった。移住地の小学校は、開校してわずか数年で日本語による日本式教育を断念せざるを得なくなった。ブラジルの日 本人移住地の「尋常小学校」の命脈は意外と早く尽きた。

KMさんは、「尋常小学校」時代の移住地の小学校に6年間通った。学校自体の存続期間の短さもあって、全課程で日本式教育を受けた生徒はそれほど多くはない。

KMさんが大切な書類を入れてある箱には、小学校6年間の修了証、通信簿、皆勤賞や精勤賞、成績優秀賞などの賞状などがきちんと収められてる。

6年の課程のうち、最初の4年間が「尋常科」、あとの2年間は「高等科」である。「日本の尋常小学校と同じ教育」と、話には聞いていても、修了証書に「尋常科1年」などと記されているのをみると改めて驚いてしまう。

小学校6年間、見事な成績をとり続けたKMさんに、学校にまつわる思い出話をねだると、いつも少し恥ずかしそうに、つまらない話だからとことわりな がら、いったんしゃべりはじめると次々と愉快なエピソードを披露してくれる。日本人移民にとって難しい時代にあっても、小学生たちはそれなりに楽しい、か けがえのない学校生活を送ったようだ。

80歳を越えた元移住地小学校同窓生たちは、今でも毎月サンパウロで集まりをもっている。

© 2007 Shigeo Nakamura

About this series

This is a 15-part column that introduces the lives and thoughts of the Japanese community in a small town in the interior of the Brazilian state of Sao Paulo, interweaving the history of Japanese immigration to Brazil.

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About the Author

Researcher at Rikkyo University Institute of Asian Studies. From 2005, he served as a curator at a historical museum in a town in the interior of the state of São Paulo, Brazil, as a youth volunteer dispatched by JICA for two years. This was his first encounter with the Japanese community, and since then, he has been deeply interested in the 100-year history of Japanese immigration to Brazil and the future of the Japanese community.

(Updated February 1, 2007)

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