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アメリカ黒人史との関わりでたどる、日系アメリカ人の歴史—その2

戦時中の西海岸からの強制立ち退き令が解除された後、リトルトーキョーに最初にビジネスをオープンした日系人、キイチ・ウエダ(右)。当時、顧客の9割は黒人。キイチは黒人コミュニティーと親しく付き合った。1945年5月14日撮影。(Courtesy of the Bancroft Library, University of California, Berkeley)

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リトルトーキョーからブロンズヴィルへ

1941年に日米が開戦すると、日本人移民や日本人を祖先とする日系アメリカ人らに疑惑の目が向けられます。真珠湾攻撃直後には日本人コミュニティーの指導者的立場にいるとみなされた一世が逮捕され、翌1942年には西海岸に住む日系人約11万人全員が人里離れた荒野や沼地に作られた強制収容所へと送られました。日系人がスパイ行為や破壊行為を行った事実はなく、ただ日本人の血を引いているからというだけで「敵」と同一視されたのです。その3分の2がアメリカに生まれたアメリカ市民でした。一方で同じようにアメリカの敵であったドイツ系、イタリア系に関しては、疑わしいとされた者だけが拘束されました。

戦前は約3万人の日系人が暮らしていたロサンゼルスのリトルトーキョーもゴーストタウンとなりました。そこに新たな住人が現れることになるのです。「第二次大戦中のロサンゼルスは軍需産業の拠点であり、戦闘機や戦艦などの製造において多くの人手を必要としていました。そこで人種隔離や異人種間の結婚禁止など人種差別的な州法『ジム・クロウ法』があった南部から、大勢の黒人が職を求め、また社会的立場の改善に期待をかけて移動してきたのです。しかし彼らもまた住宅の人種差別条項によって白人の住む地域で暮らすことはできませんでした。リトルトーキョーをはじめとする日本人街は、黒人が暮らすことができた数少ない場所の一つでした」(クリステン)。

扉を閉めていた日系の店舗やレストランに次々と黒人のビジネスがオープンし、仏教寺院はキリスト教の教会へと姿を変え、リトルトーキョーは約8万人もの黒人が暮らすブロンズヴィルと呼ばれる活気溢れる街へと変貌するのです。

「ブロンズヴィルには豊かなジャズシーンがあり、コールマン・ホーキンスやチャーリー・パーカー、マイルス・デイヴィスらも演奏しました。しかし大勢がひと所に集まって生活していたことから、公衆衛生の悪化や犯罪率の上昇が起き、当時のロサンゼルス市長のフレッチャー・バウロンらをはじめとする社会的リーダーらはそこを『荒廃地域』とみなし、都市再開発が必要だとして立ち退きを命じ、居住人口を減らそうとしたのです」。

限られた地域でしか暮らすことを許されないために、密集して暮らすしかないのに、そこからも追い出されようとする黒人たちにとって、当初は希望の地に見えたロサンゼルスも決して安住の地ではなかったのです。

そして1945年初頭以降、ようやく西海岸へと戻ってくることが許された日系人らが徐々にかつての故郷へと帰ってきます。白人のメディアや政治家は「黒人と日系人の間に衝突が起きるか」と噂し、また、それを煽りもしましたが、『カリフォルニア・イーグル』をはじめとして黒人コミュニティー内部から、収容という苦難を経た日系人への共感を示し進んで出て行こうと促す声が上がり、多くの場合、ブロンズヴィルからリトルトーキョーへの移行は穏やかに行われたと記録されています。

しかし自らも人種差別を受けていた黒人がそこを出てほかにどこに行く場所があったのでしょうか。彼らは本当に進んで出て行ったのでしょうか。クリステンはこう話します。「日本人は『外国人土地法』によって不動産購入を禁じられていましたので、リトルトーキョーの建物の大半は白人が所有していました。人種差別の対象は一晩のうちに変わっていくもので、戦時中は日系人がその対象でしたが、日本との戦争が終わろうとしている今、白人は『衛生状態が良くなく、問題を起こす』とされた黒人よりも、『清潔で、犯罪を犯さない』日系人に貸す方がよいと考え、それまでの借り手であった黒人との賃貸契約を打ち切ったのも一つの理由でした」。

多様な人種が混在していた戦後のコミュニティー

戦争が終わったと言っても、日本人の米国籍取得を妨げる国籍法や外国人土地法といった差別的な法律はそのまま存在していました(1952年に国籍法は改正、外国人土地法は違憲判決が出て撤廃)。不動産には人種制限条項があり、それが禁止された後も暴力や嫌がらせによって、差別的な習慣は根強く残っていきました。そのため日系人は、戦前同様、黒人やメキシコ系らほかの人種やエスニックグループと混在して、有色人種が住むことができた地域で暮らしていました。

マイク・ムラセさん

リトル東京サービスセンターでサービスプログラムのディレクターを務めるマイク・ムラセさんもそうした地域で育ちました。アメリカに生まれて子どもの頃に日本に戻った帰米二世の父を持ち、日本で生まれた三世のマイクは1956年に家族でアメリカに渡り、労働者階級の黒人や日系人が暮らすクレンショー地区に居を構えます。当時は戦争が終わって10年程度。日系人らは何とかして収容で失った生活を立て直そうとしていた頃です。

「日系三世の子どもたちよりも、黒人の子どもたちとよく遊びました。僕は英語も話せなかったし、三世らにとって僕は日本人過ぎたのです。三世は日本語を話したり、日本人的に振る舞ったりするのでなくて、よりアメリカ的なアメリカ人になることを期待されていましたから」。

共に成長する中でマイクのみならず、ほかの三世もジャズやビバップなど黒人音楽や黒人文化を吸収し、スポーツを通して、同じエリアに住む黒人コミュニティーと親しく交流していました。「子どもには人種はあまり関係ないですからね。しかし大人たちは日系人は日系人だけで、黒人は黒人だけで固まっていることが多かったです。同じレストランに行きはするけど、互いを夕食に家に招くような関係ではありませんでした。文化も社会的な立場も異なっていましたし、何より私たち日系人には黒人が受けている差別が本当の意味では理解できていなかった。そのうちに日系三世らは大人になり、子どもが生まれると教育のために良い学校区へと引っ越していきました。良い学校区とは白人が多く住むエリアでした」。

隣人として交流していた時代は過去のものとなり、それぞれが別の地域で、別々のコミュニティーを作り始めるのです。

「モデルマイノリティー神話」と制度的人種差別

しかし、どうして日系人は経済的に成功してそこから出ていくことができ、一方で黒人はそこに止まったのでしょうか。

「日系人も人種差別に苦しめられてきましたが、黒人がこの国で直面してきた人種差別と不公正はその比ではないほど過酷で、長い間続いてきたものです。どんな差別であれ不公正を乗り越えていくのは簡単ではありませんが、黒人の置かれた環境は全くスタート地点が異なります。奴隷制があり、解放後もジム・クロウ法が続き、その過去から続く差別による経済的格差が存在する上に、公共サービスや教育、医療、警察など社会のあらゆる面において黒人に不利な仕組みになっていて、自助努力ではどうにも悪循環から抜け出せない。その構造的な差別『制度的人種差別』は今も続いているのです」(クリステン)。

「黒人のコミュニティーで働いていた時、最初、若いギャングらがドラッグを売っているのを見て『悪いことばかりして』と思いましたが、彼らを知ると考えが変わりました。彼の母親はドラッグ中毒で、父親は刑務所にいて、彼らは適切な教育や大人の助けなしに、自分でなんとかして生きていかなくてはならない。むしろ『こんな悪い状況にもかかわらず、それでも生きている』わけです。彼らだって私たちと同じようにより良い未来を求めています。でも同じだけのチャンスがないのです」(マイク)。

無論、黒人の中にも経済的・社会的な成功者はいます。しかし全体では他の人種に比べて黒人の貧困率は高く、その所得格差が居住地域や教育機会を制限し、貧困から治安や衛生状態が悪化し、さらにそこから偏見が生まれていく…。この悪循環こそが制度的人種差別によるものなのです。

「それに」とクリステンは続けます。「日系人が皆、成功したかどうかも議論が必要です。私たちは1960年代には『モデルマイノリティー』とレッテルを貼られるようになったわけですが、それによって成功しなかった者や社会の問題点が隠されるようになったのも事実です」。

「モデル(模範的)マイノリティー」とはアジア系アメリカ人に使われたステレオタイプ。この言葉が最初に使われた例の一つは、1966年に社会学者のウィリアム・ピーターソンが発表したエッセイ『成功の物語:日系アメリカ人方式』でした。

「彼は、日系人は戦時中は強制収容所に送られるなど苦難を経たにもかかわらず、終戦から数年後には社会的に成功するようになった。それは勤勉で家族を大事にする価値観のおかげで『問題のあるマイノリティー』とならなかったからだ。この『モデルマイノリティー』には貧困も暴力、犯罪も少ないと記したのです。つまり『モデルマイノリティー』のステレオタイプを提示することで、当時、公民権運動で声を上げていた黒人や、貧困や不公正に苦しむ他のマイノリティーの立場が変わらないのは、制度的人種差別が理由ではなく、彼ら自身の努力が足りないせいだと責任を転嫁したのです。『ほら、差別に声を上げるのではなく、日系人のように黙って努力しろ』と」(クリステン)。

第二次世界大戦中、そのルーツのために、「敵」とみなされて強制収容所に送られた日系アメリカ人にとって、戦後、社会的に成功しモデルマイノリティーとなることによって、まず自らが差別の対象とならないようにすることが急務であったのです。

「二度と収容のようなことが降りかからないように、良きアメリカ人であることを証明し、アメリカ社会に受け入れられなくてはならないという生存戦略であったと言ってもいいと思います。しかし同時に『モデルマイノリティー』に当てはまらない者はコミュニティーの周縁に追いやられることになったのです。問題を起こす者、社会福祉を必要とする貧困者、落伍者はまるで存在しないかのように扱われることになりました」(クリステン)。

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* 本稿は、『ライトハウス』(ロサンゼルス版2020年8月1日号、サンディエゴ版2020年8月号、シアトル/ポートランド版8月号)からの転載です。

 

© 2020 Masako Miki / Lighthouse

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