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ブラジル水泳界の英雄・岡本哲夫:日伯交流から生まれた奇跡

第4回 反ヴァルガス主義的なスポーツ振興策

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戦前からの意外な繋がり

調べてみると、確かにパジーリャは戦前からスポーツ局の仕事をしていた。ヴァルガス独裁政権からサンパウロ州執政官(1938~41年)に任命されたアデマール・バーロスからの信任が厚く、パジーリャはサンパウロ市アグア・ブランカ区のベイビ・バリオニ体育複合施設、イビラプエラ体育複合施設コンスタンチノ・ヴァス・ギマランエスなどの建設を開始していた。

前者は今も全伯相撲大会の会場として使われ、後者には「南米の講道館」と言われる大柔道場がある。日系スポーツとも縁の深い施設を作っていた。

ESPNサイトの「五輪のB面」特集2015年3月24日電子版によれば、体育教師などスポーツを職業とする専門家の待遇を保証する州条例を、パジーリャは作った。その仕事ぶりに注目したヴァルガスは、その法律を国全体に適用させる手筈をパジーリャに命令するが、なんと拒否した。独裁政権時代のヴァルガスに反抗する人物など、当時ほぼ居なかったはずだ。

激怒したヴァルガスは、軍人パジーリャをリオの奥地パッソ・フンドに左遷した。当時、電気も通っていない場所だった。パジーリャは知り合いだったドゥットラ軍事大臣に相談し、「大統領の命令に従えないから、不服従の罪で自分を逮捕してくれ」と申し出た。ドゥットラは1年間の無給勤務の特別処置で穏便に済ませようとしたが、パジーリャはその後、自分から陸軍を辞めた。

選手として、最後のメダルの希望は1940年に予定されていた東京五輪だった。もちろん、それは第2次大戦勃発で中止。これは皇紀2600年祭の一環として誘致され、1936年に決定していた。しかし日中戦争の勃発により、日本政府が返上した〃幻の五輪〃だった。

山本貴誉司から日本刀を受け取るパジーリャ(左、『Padilha, quase uma lenda』36頁)

Padilha, quase uma lenda』(『パジーリャ、ほぼ伝説』カエターノ・カルロス・パイオリ著、1987年)の35~36頁には意外な逸話が書かれていた。パジーリャが《生涯に受けた顕彰の中でも最も刺激的なものが、日系コロニアから1941年3月20日にもらった「サムライの刀」だった》というのだ。

しかも、渡したのはコロニア陸上クラブ(Clube Stletico Colonial)名誉会長だった山本喜誉司からだという。すでにサンパウロ州スポーツ局長だったパジーリャは、山本の自宅に招待され、赴くと、コロニアの主要人物やブラジル人運動選手らがズラリと勢ぞろい。

前年の皇紀2600年(1940年)に日本で開催された体育行事に渡航するコロニア選手への助力を惜しまなかったとの理由で顕彰された。自分が行けなかった「東京」への願いを託したのかもしれない。それにしても戦後、サンパウロ市文協を創立し、初代会長になる山本貴誉司の人脈の広さには驚かされる。

このような流れの中で、岡本が泳ぎ始めたマリリアの「日本人プール」は戦時中に書類が不備で一時使用禁止にされたにも関わらず、結局は異例の許可が出されたようだ。


反ヴァルガス的な飛魚招へい

戦争中にパジーリャの選手生命はピークを越え、1947年に現役引退。同時に、ブラジル五輪委員会にスポーツ振興の手腕をかわれて委員に就任した。48年ロンドン五輪ではブラジル代表の旗手として参加。ある意味、そこからが彼の本領発揮だった。

戦後もヴァルガスとの確執は続いた。ヴァルガスは1951年1月に、今度は選挙で選ばれて大統領に返り咲いた。前任のドゥットラ大統領(PSD、1946年―51年1月)は、ヴァルガス独裁政権時代の軍事大臣であり、基本的体制はヴァルガス時代のものを引き継いでいた。PSDとPTBが「プロ・ジェツリスタ」と呼ばれる政治連合を作り、それに対抗するUDNと共に戦後2大勢力となった。

一方、アデマール・バーロスは1945年11月の大統領選挙で、UDNに所属してヴァルガスと、たもとを分かった。むしろドゥットラの対抗馬であるエドゥアルド・ゴメス候補を応援した。

1939年の共和制宣言50周年式典でヴァルガス大統領(前列中央)の右肩後ろに控えるバーロス聖州執政官(By Desconhecido. Colorida por Djalma Gomes Netto. (DIP) [Public domain], via Wikimedia Commons)

ここから、反ヴァルガス陣営の重鎮としてのパジーリャの活躍が始まる。

バーロスはサンパウロ州知事に選挙で選ばれ1947年3月から51年1月まで辣腕を振るった。この時に、パジーリャは再びサンパウロ州体育局長に招へいされた。

その流れの中で、彼はあえてヴァルガスが嫌がる方法でスポーツ振興する策を考えた。戦争中に連合国の敵だった日本人選手を招へいしてブラジル選手権大会に参加させることだ。ドゥットラ政権にはヴァルガスの影響は強く、それを強引にはねのけて1950年に日本水泳団を招へいしたのだ。

ESPNサイトの「五輪のB面」特集15年3月24日電子版によれば、《ヴァルガスとの確執は続く。シルビオ(パジーリャのこと)サンパウロ州スポーツ局長はサンパウロ州で模範競技を見せるよう、世界最速だった「トビウオ」を招へいした。彼らは日本のチームであり、大戦の結果を受け、世界と外交関係がなく、一般的には招へい禁止と思われていた。ヴァルガスはそのアイデアを辞めさせたかった。でもパジーリャは「これは州の問題であって、連邦とは関係がない。彼らは政治的な使節団ではなく、競技者たちだ」と蹴った。一行が到着した後も、大統領は日章旗と国歌斉唱を禁じるように要請したが、シルビオは日本人たちへの顕彰としてのイベントであるから当然だと、さらに一蹴した。彼らの訪問先の一つマリリアで、岡本哲夫が彼らのやり方を学び、この競技のブラジル五輪界の最初のメダリストになった》と書かれている。

つまり、反ヴァルガス主義的なスポーツ振興策として、日本水泳選手団はサンパウロ州政府のお金で招へいされ、敢えて日本移民がたくさん集まる目の前で日章旗を掲げ、君が代を歌わせた。

戦前戦中にヴァルガス独裁政権に敵性国民として迫害された日本移民にとって、夢の様な光景だった。そこには、こんな政治的背景があった。

パジーリャは1947年からブラジル五輪委員会のメンバーとなり、奇しくも1964年東京五輪の時からブラジル五輪委員会の委員長になり、以来、88年ソウル五輪まで7大会のブラジル代表団を率いた超大物になった。

ヴァルガスの影響の強い政権下、そんな反骨精神のある人物でなければ、資金を負担して日本の水泳団を招へいするなど、ありえないことだった。

でもその想いが通じて、52年ヘルシンキでは岡本がついに表彰台に上がった。これは護憲革命で連邦政府軍に踏みにじられたサンパウロ州民の復讐でもあったのかもしれない。岡本の快挙を一番喜んだのは、きっとパジーリャだろう。

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* 本稿は、『ニッケイ新聞』(2016年8月18日19日)からの転載です。

 

© 2016 Masayuki Fukasawa, Nikkey Shimbun

Brazil sao paulo swimming Sylvio de Magalhaes Padillha Tetsuo Okamoto

Sobre esta série

このシリーズでは、ブラジル水泳界および日系社会共に初の五輪メダルをもたらした二世・岡本哲夫(1932年生まれ~2007年没)の歴史を振り返る。ブラジルの「ニッケイ新聞」(2016年)からの転載

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