Escolha o seu idioma de preferência para tirar o máximo proveito das páginas do nosso Jornal:
English 日本語 Español Português

Fizemos muitas melhoras nas seções do nosso Jornal. Por favor, envie-nos a sua opinião ao escrever para editor@DiscoverNikkei.org!

孤独な望郷 ~ フロリダ日系移民森上助次の手紙から

番外編: 森上助次を撮影したカメラマン・諏訪徹 — 庭園の仕事から国際的なフォトジャーナリストに — その2

その1を読む >>

時間をかけて親しくなる

諏訪さんは助次の人柄について「ものすごいいい人だし、親切だ」という印象を抱いた。が、その格好には内心呆れた。薄汚れたシャツと半ズボンで薄くなったぼさぼさの髪に、細い針金のようにもじゃもじゃの顎髭を伸ばしている。四部屋ある細長いトレーラーハウスのなかは、とにかく汚れていた。

その後も何度か、休みのたびにカメラは持たずにただ助次のもとを訪ねては、パイナップル栽培のことなどをきいてみた。トレーラーハウスには扇風機があったがエアコンはなくドアはあけたままだった。普通のベッドがあったが使っていないようで、いつも小さなベッドで寝起きしていた。

汚れたテーブルの上にはインスタントコーヒーのネスカフェの瓶や調味料、アルミの皿などが乱雑に置かれていた。入り口には盆栽風の松らしきものが鉢やバケツにおさまっている。森のなかのような孤立した暮らしだが、そんなところにも畑でとれたパイナップルやバナナを直接買いに来る人がいた。

諏訪さんは、汚い室内や暮らしぶりをみてなんだか助次が哀れに思えた。誰か、面倒を見てあげたらいいのにな、そんな思いに駆られ、せめて掃除をしてあげようと、妻に手伝ってもらい片付けに行くことにした。

助次にそのことを話すと、それでもいいというので妻と4歳になる娘を連れてきて掃除をしてあげた。助次は諏訪さんの妻に対しても愛想はよく、娘には何度も「かわいい男の子だ」といって喜んだ。

こうした訪問を繰り返して4ヵ月ぐらいたったころ諏訪さんは、

「あなたのように、日本からここへ来て、これだけの土地を残したのは珍しいので、ぜひ写真を撮らしてもらえないだろうか」と、切り出した。すると、「オーケー」と、助次はあっさりと気持ちよく承諾してくれた。

撮影がはじまると、諏訪さんはときには明け方4時から助次と一日中行動をともにして、シャッターを押し続けることがあった。朝、ベッドから起きた助次は朝食をとると、フォードのトラクターの荷台に、木箱に入れたパイナップルの苗を積んで、自ら運転して畑に植え付けに行く。そのうしろに諏訪さんも乗っていったが、あるときでこぼこ道でなにかに車輪があたって、大きく揺れた拍子に諏訪さんは後ろ向きに道路に転落した。いっとき、息もできないほど苦しかったが、すぐ前で運転する助次はそんなことにまったく気づかず先に進む。

ようやく起き上がった諏訪さんは、追いかけて行ってなんとかトラクターにとび乗った。目的地に着くと、助次は少し曲がった腰で木箱を運び出し、森を切り拓いたなかにつくったサッカーコートのように広がった畑の中に置いた。木箱をもつ腕は体の割には太く、血管が浮き立ち、葉の縁に棘のある苗木を植える大きな手は、皺が刻まれ関節は盛り上がり、指先は爪を一部隠すほど膨れていた。

ひとり自分のペースで植えていくのだが、砂地での仕事に適しているのか、助次は靴をはかず靴下だけをはいて動き回った。マイペースの仕事ぶりは気楽な感じで、昼になると食事はせずに、「MD-2020」とラベルにある強いウィスキーのボトルを取り出し口にする。そして木陰でごろんと横になって眠ってしまう。その助次の鼻先に、飼っている小さな犬が寄ってきた。

1時間ほどすると、起きてふたたび畑にもどって薄暗くなるまで仕事をして、トラクターで帰っていった。畑の仕事をしていないときは、トレーハウスの応接間で座って本を読んでいた。

助次は、すでに地元パームビーチ郡に自分が所有する広大な土地を寄贈していたこともあり、取材の間に89歳の誕生日を迎えると、パームビーチ郡のコミッショナーらがバースデーケーキをもってお祝いに訪れた。このときはオレンジ色のシャツと茶の長ズボンをはいて迎えた助次は、訪問者との会話の最中でもうたた寝をすることがあった。日本食について熱心に話した助次は、「魚はどんなものでも好きだ」と言った。

諏訪さんは他の仕事で助次の近くを通りかかったときは、ぶらりと立ち寄ってみたりした。こうして撮影取材が終わったのは、最初の訪問から8ヵ月ほどたったころだった。

それから2ヵ月余りたった76年2月29日、森上助次は89歳の生涯を閉じた。助次が亡くなったことをテニスのトーナメントの取材の帰りに知った諏訪さんは、上司にいままで撮った写真を提出した。

砂地の畑にパイナップルの苗を植える姿。ごろりと畑の脇に寝転んでいるところに犬が鼻をつける。トレーラーハウスのなかで小さな扇風機を前にした姿など。助次のさまざまな横顔をとらえたモノクロの組み写真は、まもなく紙面を飾った。

畑作業に出る森上助次(1975年)(撮影:諏訪徹)


フィラデルフィアへはばたく

この直後、諏訪さんはフィラデルフィア・インクワイヤー紙の写真部の編集者から電話をもらった。同紙は東部ペンシルベニア州にある伝統ある新聞社だ。同紙で働かないかという誘いだった。忙しいこともあり、どんな新聞かもわからなかったし、後日送ってきた見本としての新聞の束をみても印刷や写真の扱い、そしてデザイン的にもあまりいい印象はなかった。 

しかし、10月にまた電話があった。

「飛行機の切符をエアポートに置いてあるから、見に来てくれと。よし、フリートリップでバケーションになるから行こう。そうしたら、いいホテルに泊めてくれて、カメラマンたちも親切で。こんなにしてくれるならきてもいいかな。給料ずっと増えるしと思った」と、諏訪さんは言う。

諏訪さんはフロリダを去り、フィラデルフィア・インクワイヤーで働くことに決め、1977年7月に現地に着任した。


いいカメラマンになるにはいい人間になること

湾岸戦争(Gulf War、1991年)取材時の諏訪さん(右)

以来、同紙でカメラマンとしてさまざまな現場にでむき、さまざまな事象をレンズにおさめてきた。長年の取材経験を振り返り、諏訪さんはこう話す。

「むかしは、ヨーロッパ アフリカ、南米、ブラジル、中国、フィリピンなどあちこち取材で行きました。長野のオリンピックもカバーしたし、戦争の取材にも行った。リビアでカダフィの写真を撮ったこともある。米国による爆撃の前で、どういうわけか気に入れられて、カダフィの専用飛行機でチュニジアで秘密会談があってそれに連れて行かれた。びっくりしたね。フィラデルフィア・インクワイアーの単独の仕事です。

コロンビアのドラッグの現場を取材した時は、国警の人間が前と後ろにマシンガンを抱えて乗ってガードされた。アメリカのメディア関係の人間は、誘拐されやすいということだった。 

一番難しかったのは、中国に行ったとき。ビザがおりないから観光ビザで香港に入った。カメラマンは目をつけられるのでグラフィック・アーティストとして入った。すると、尾行されてタクシーを2,3台乗り換えたり、ホテルの前から車にのらなかったりした。北京大学の学生がどんな生活しているかを撮るため、警備員が昼寝している間に女子寮に無断で入ったときはつかまって留置場へ。無理なことしたね。出るときは上海からだったがこわかった。

一番楽しかったのは、アメリカ人の兵隊とベトナム人とのあいだでできた子供を取材したときで、彼らがアメリカに来たときこっちで取材してたどったことがあった。それから何年もたっても電話で話をしたりしました。

いま、新聞社は落ちぶれているから記者を海外へ出さないが、昔はあちこちに飛んでたな。フィラデルフィアでシャガールの展覧会があるというので、フランスでエギジビジョンを撮ったこともある。ぼくは一番新聞社のいいときに働いてきた。

ときどきインターンが来ることがあったので、その時彼らにいうのは、一番いいカメラマンとは腕がいいカメラマンとは限らないということ。一番大切なことはよい人間になること。そうすると、機会が与えられる。技術的にうまくなくても、特ダネの写真を撮ることができる。どんなに腕がよくても嫌われると、そういうチャンスは与えられない。だからいい人間になれと」

諏訪さんは2015年に37年間籍を置いたフィラデルフィア・インクワイヤー紙を退き、フリーランスとしてアメリカで仕事をつづけている。

(敬称一部略)

 

(注)参考:「大和コロニー:フロリダに『日本』を残した男たち」(川井龍介著、旬報社)

 

© 2020 Ryusuke Kawai

Akira Suwa florida journalist Photogragrapher Sukeji Morikami

Sobre esta série

20世紀初頭、フロリダ州南部に出現した日本人村大和コロニー。一農民として、また開拓者として、京都市の宮津から入植した森上助次(ジョージ・モリカミ)は、現在フロリダ州にある「モリカミ博物館・日本庭園」の基礎をつくった人物である。戦前にコロニーが解体、消滅したのちも現地に留まり、戦争を経てたったひとり農業をつづけた。最後は膨大な土地を寄付し地元にその名を残した彼は、生涯独身で日本に帰ることもなかったが、望郷の念のは人一倍で日本へ手紙を書きつづけた。なかでも亡き弟の妻や娘たち岡本一家とは頻繁に文通をした。会ったことはなかったが家族のように接し、現地の様子や思いを届けた。彼が残した手紙から、一世の記録として、その生涯と孤独な望郷の念をたどる。