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「あなたの親切を忘れない」:カー知事没後70周年、日系住民擁護し立ち上がった人々—その2

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「祖父は自身が育った小さな町で行われていたリンチ(私刑)を見て育ちました。大人たちの間で何か問題が起こると、法廷で争われることなく、有罪か無罪か決められる。町の人々はただその人を有罪と決めつけ、リンチしていたそうです。祖父は子どもの頃、木によじ登り、狂った町の様子を見てきたのです。その時に見た恐ろしい光景から祖父には強い道徳観が芽生え、法曹界を目指し、『人として何が大切か』を考えるようになったといいます」。そう話すのはカー氏の孫で現在南カリフォルニアに住むキット・リンチさんだ(旧姓カー、以下キットさん)。

今回、キットさんがカー氏との思い出、そして彼の信念について語ってくれた。

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秘書に日系女性採用: 収容所から来た「ワカ」

祖父カー氏の写真の切り抜きを持つ孫のキットさん。今回、祖父との思い出を語ってくれた(写真=吉田純子)

キットさんはカー氏の長男ロバート氏の長女だ。「祖父は初孫だった私をとても可愛がってくれました。そして私も祖父が大好きだった。世界で一番の祖父です。祖父とはよく一緒に踊りそして歌も歌ったの」

キットさんが生まれて間もない43年、カー氏が知事職を離れ弁護士に戻った頃、彼はコロラド州アミチ収容所に行き、そこに収容されていた日系人のワカコ・ドウモトさんを秘書として採用した。

ワカコさんはカリフォルニア州オークランドで育ち、収容所に行く前はスタンフォード大学で学び、家業の造園業の事務を手伝っていた。採用後、ワカコさんは収容所を離れデンバーにあるカー氏の自宅で6カ月間、秘書として働くことになった。

しかしワカコさんがカー氏の自宅で働き始めるやいなや、周囲の人々はこう言った。「彼女は日本人だ。赤ちゃんを絞め殺すかもしれないぞ」。こうした声にカー氏は一喝した。「ナンセンスだ!」

「ワカはとても優しく思いやりのある女の子だった。まるで桜の花のようだったの。でも彼女が日系人だというだけで、周囲の人々はワカが赤ちゃんだった私を殺すと思ったのです」

カー氏は女性は家にいるより、社会に進出して活躍すべきとの考えの持ち主だった。そしてワカコさんにもこう告げた。「家のことはしなくてよいのです。それより私はあなたに学校に行ってもらいたい。教育を受け、専門性を身に付けてもらいたいのです」。カー氏のもとで働いている間、ワカコさんは秘書学校に通い、文字通り専門性を身に付けた。

終戦後、家族とともにカリフォルニアに戻ったワカコさんは、サクラメントの政府機関で秘書として働いた。

「祖父は当時としては画期的な考え方の持ち主だった。決して人種にとらわれることなく、ワカのほかにも知事時代にはアフリカ系米国人を知事執務室の受付係として採用しました。知事執務室の受付係は知事に会いにくる人が最初に顔を合わせる人物。そうした重要なポジションも人種を問わず採用したのです」

さらにこんなエピソードも残されている。ある時、カー氏がレストランで食事をしていると、アフリカ系米国人のカップルが来店した。すると店側が入店を拒否。その光景を見ていたカー氏と友人たちは席を立ち、そのまま店から出て行ってしまったそうだ。「祖父は『もしアフリカ系米国人を差別するなら、私たちはそんな店では食事はしない』ということを行動を通して示したかったのです」

人を先祖で判断しない

残念ながら顔の一部が欠けてしまっているが初孫のキットさん(右)とカー氏。写真の下は知事時代にカー氏が使用していた用紙(キット・リンチさん提供)

なぜカー氏はこれほどまでに日系住民を擁護したのだろう。

「祖父は日本人、日系人が特別好きだったというわけではないのです。ただ人を先祖(ヘリテージ)で判断してはいけないと信じていた。だから当時の日系住民に対する敵意は間違っていると思っていた。その人がとった行動や性格で人を判断すべきだとする強い信念があったのです」とキットさんは語る。

「(日系住民への擁護が)政治的に自殺行為だったと言う人もいます。しかし祖父は決して自らの行動に後悔などしていなかった。その後アメリカは日系人に対して謝罪しました。これが本来アメリカがとるべき正当な道だったのです。彼はただ正しいことをしていただけなのです」

カー氏の主張が正しかったということは、自らが生まれた国アメリカへの忠誠心と愛国心をもって闘った日系人部隊の功績によっても証明されることとなる。


祖父の教え:「正しいことをしなさい」

今の移民政策に思うこと

「私は常に祖父と行動していました。日系の人々は農業にたけていて素晴らしい農作物を作っていた。祖父は日系人の果物や野菜のマーケットによく私を連れて行ってくれました」

キットさんは幼い時から日系農家が作ったさくらんぼやブドウ、スイカなどの果物を食べて育ったという。「戦後、私が4歳くらいの時でした。日系の市場に行った時、市場のオーナーが自宅を何者かに燃やされたと祖父に言ってきました。犯人は分かりませんが、当時日系人に対し差別的な感情を持った人物による犯行の可能性もあり、祖父と私はオーナーの燃やされた家をすぐ見に行きました」

現場に行くと残っていたのは煙突だけ。カー氏はその時、保険会社に連絡し、日系人一家の家が再建できるか確認していたという。

「祖父は面倒見がよかった。『正しいことをしなさい』というのが祖父の心情だったのです」

そんな祖父カー氏の遺伝子はキットさんにも受け継がれている。キットさんはこれまで全米中の市民権運動に参加してきたという。今の移民政策に関して「中南米から来た人々は日系人と同じ体験をしている。同じ過ちは繰り返してはいけない。4年間は我慢できた。でも8年続いたら、もう我慢できない」と語気を強めた。


正義のために闘った生涯

連邦上院議員選挙での敗退後、カー氏は弁護士に戻る一方、母校コロラド大学の評議員に就任。そして50年の州知事選で再び州知事に返り咲こうと挑むが、投票日の1カ月前に病に倒れ、同年9月22日、62年の人生の幕を降ろした。正義のために闘った生涯だった。

今コロラド州では至る所でカー氏の名前を見ることができる。コロラド州最高裁判所にはカー氏の功績をたたえる銅像が飾られ、州議会堂にはカー氏の記念プレートが埋め込まれている。2008年にはハイウエー#285の一部区間が「ラルフ・カー・メモリアル・ハイウエー」と名付けられた。この道はかつて、カリフォルニア州から日系住民たちがコロラド州に入ってくる時に通った道だった。

キットさんは言う。「私は日系社会に感謝の思いを伝えたい。皆さんは決して祖父のことを忘れなかった。日系社会はデンバーの日本町の桜スクエアに祖父の胸像を作り功績をたたえてくえた。現在、州都の政府機関の建物の至る所にも祖父の名が刻まれている。こうして祖父の名は朽ちることなく今に生き続けているのです」

カリフォルニア州から日系住民たちがコロラド州に入ってくる時に通ったハイウエー#285の一部区間が「ラルフ・カー・メモリアル・ハイウエー」と名付けられた。写真は道沿いに設置されたカー氏をたたえる記念碑(アメリカ議会図書館提供)

その3 >>

 

* 本稿は、『羅府新報』(2020年1月3日付)からの転載です。

 

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