昨年、日伯外交関係が結ばれて120年目を迎えたことを記念し、両国で様々なイベントが行われた。ここアマゾンでも各地でいろいろな行事が催され、ブラジル社会にも日本のことがこれまで以上に知られたのではないだろうか。任期中にこのような節目の年が迎えられたことで、私も多くの行事に参加することができてラッキーだった。そして、任地ベレンでは、節目の年はこれだけに限らなかった。
アマゾン日本人移住85周年(2014年)、アマゾニア日伯援護協会50周年(2015年)、パラー日系商工会議所30周年(2015年)と、この1年半で三つの記念式典に参加した。私にとってこれらは派遣先でのイベントというだけでなく、人との出会いにも関係し、強く印象に残っている行事である。
ベレンに着いて1か月ほどたったころ、初めて、郊外の町トメアスーへ日本語学校の授業を見るために出張に行ったときのこと。アマゾン第1回移民の山田元さんと偶然お会いし、お話を伺うという機会に恵まれた。山田さんは、1929年に移住された中の数少ない生存者のお一人である。
第1回移民(山田さん一家を含む43家族189人)が到着したのは、トメアスー移住地(旧アカラ植民地)である。戦前に2104人が入植したが、当初の目的だったカカオ栽培はうまくいかず、マラリアの蔓延などにより大半が転出。戦後は胡椒栽培で移住地は大きく発展した。1950年代後半の全盛期には、山田さんもかなりの収穫があったそうだ。しかし1970 年代の病害で、転作した。山田さんに限らず、良くも悪くも胡椒で生活が大きく変わった方は、非常に多い。1950年代から1970年代にかけては、トメアスー以外にもベレンをはじめ北部の各地域に多くの日本人が入植、現在のアマゾン日系人人口は約5万人と言われている。
その半数以上が居住する北東部は、日系の医療機関も充実しており、日本語が話せる医師やスタッフを揃える病院や老人ホームがある。総括するのが、昨年、発足50周年を迎えたアマゾニア日伯援護協会。1965年に日伯協会事務所の一室を借りて、「アマゾニア日本人移民援護協会」という小さな診療所からスタート。1972年に公益団体として認可された後、1974年に現在の名前になった。ベレン市内でアマゾニア病院、トメアスーで十字路アマゾニア病院、ベレンの隣町アナニンデウア市で厚生ホーム(老人ホーム)を運営する。慣れない土地で暮らしていると、病気になったときほど心細いことはないが、日本語の通じる病院があると安心だ。
アマゾニア病院の医師で汎アマゾニア日伯協会の会長でもある生田勇治先生には、何度か診察をしていただいた。協会事務所と私の配属先が同じ建物にあり、先生とはよくお会いし、事務所内で薬を紹介していただくこともある。以前、息子さんが日本へ研修に行かれたとき、日本語の授業を私が担当したこともあり、生田先生には特別な縁を感じている。
パラー州には、どこの町へ行っても必ず見かけるものがある。“Y.YAMADA”というスーパーだ。山田フェルナンドさんが経営されており、彼で三代目となる。その彼が2009年から会頭を務めるのがパラー日系商工会議所。1985年に創立され、初代会頭は父の純一郎さん。当時の会員数は30社だったが、現在は55社。会員のために、政府とのコンタクトの仲介役となったり、経済情報を送信したり、講演会・セミナーを実施したりするのが、主な活動である。
フェルナンドさんには赴任当初からお目にかかることはよくあったが、あのスーパーヤマダの社長で、全伯スーパー協会の会長でもある方に話しかけるのは気後れし、何度もそのチャンスを逃していた。勇気を出して話しかけたのは、こちらへ来て半年ほどたってからである。それからは、いつも穏やかな笑みを浮かべて声をかけてくださるようになり、30周年記念式典にも招待していただいた。歩み寄ることが人間関係を築く第一歩だと、今、改めて思う。
こちらへ来ていろいろな行事に参加してきたが、なかでもとくにこれら三つの式典参加は、縁があって出会った方たちと一緒に、長い歴史の節目の年を祝ったことで、私にとって特別な意味を持つものとなった。と同時に、これらの行事を通して、みなさんとの縁を再認識させていただくことができた。
こういう場でまた新たな出会いが生まれ、人と場が重なり合っていくことで絆は広がっていく。あと半年の任期でどこまで広がりを見せるのか、それが楽しみだ。