Escolha o seu idioma de preferência para tirar o máximo proveito das páginas do nosso Jornal:
English 日本語 Español Português

Fizemos muitas melhoras nas seções do nosso Jornal. Por favor, envie-nos a sua opinião ao escrever para editor@DiscoverNikkei.org!

南カリフォルニアで日本野菜を育てるグリーンパラダイスファーム・オーナー、西尾貞春さん

ヴィスタのグリーンパラダイスファームの西尾さん。茄子のグリーンハウス内にて。

70年代、農業研修でオレゴンへ

私たちが普段、日系スーパーや日本食レストランで目にする日本野菜。それらが一体どこで誰によって作られているのか、実はあまり気にしたことがなかった。昔から日系人の農家によって作られているのだろうと思い込んでいたが、ロサンゼルスからサンディエゴとの中間にあるオーシャンサイド地域に引っ越しをした知り合いに、「近くに日本野菜を手広く作っている日本人がいる」と聞いた。その人は西尾貞春さん。福岡県福岡市出身の新一世だ。

西尾さんが最初アメリカに渡ったのは、佐賀大学農学部を卒業後の1975年。「2年という期間で、派米協会の農業研修に参加しました。高校で進路を決める時、将来は海外で農業をしたいと思っていたからです。米と野菜を作る農家の末っ子に生まれた私は、父の手伝いで、小学生の頃から野菜売りを手伝っていました。行商ですね。野菜をいっぱい載せたリヤカーを押すのが私の仕事でした。お客さんはいつも決まっていて、かごを持って皆、野菜を買いに来ます。新鮮な野菜をいつもありがとうと、待っていた皆さんが喜んでくれて、リヤカーいっぱいの野菜はいつも売り切れていました。その経験から、自分も野菜を育てたいと思うようになったのです。また、兄の一人が外国航路の航海士で、海外から戻るたびに珍しいお土産を買って来てくれていたのが印象的で、海外に憧れるようになりました」

大学では学問としての農業を修めるが、実務的なことは習わない。海外での実地の農業経験に胸を膨らませ、西尾さんは海を渡った。

「最初は短期実習生として、9月、10月、11月の間、オレゴン州のフットリバーで梨とリンゴの収穫に携わりました。メキシカンの労働者と一緒に働きました。当時の時給は2ドル、ピースワークは縦横1.2メートル、高さ60センチくらいの木箱いっぱいに収穫して6ドルの時代でした。私が1日必死で取っても6箱くらい。一方、メキシカンは10箱分取るんです。高い木に梯子をかけて、その上にのぼって両手を使ってあっという間に腰にさげた袋に収穫していく様子を見て、すごいな、と感心したのを覚えています」


季節労働者と共に収穫作業

「忙しい時は14時間労働でした」と、研修生時代を語る西尾さん

短期実習が終わった後は、オレゴン州ポートランド近郊の木いちごとブロッコリーを栽培する農場で本格的な研修が始まった。

「私の同期の研修生は98人でした。それぞれの専攻によって配属先が決まります。畜産だと主にネブラスカ、畑作はアイダホ、柑橘類はアリゾナ、花はカリフォルニアやワシントン、野菜はオレゴンやワシントンなど、収穫物によって地域もおのずと決まってきます。野菜を希望した私は、ブロッコリーと木いちごを栽培する藤本ファームという、日系人が経営する農場に配属されました。ボスも奥さんも日系人、二人とも日本語を話せるので助かりましたね。農場の広さは木いちごが50エーカー、ブロッコリーが20エーカーでした。畑には常時、フォアマンが2人、メキシカンが7、8人、研修生は私だけでしたが、少しだけ先輩と時期が重なっていました。木いちごの収穫時期を迎える夏になると、一斉に季節労働者が集まって来て、総勢60人ほどで収穫を行うのです。朝は6時から畑に出て、夜は6時頃いったん終了、その後夕飯を食べてから、再び2時間ほど働きました。忙しい時は14時間労働でした」

研修生の主な仕事は、トラクターで畑の状況をチェックすること、木いちごの収穫が終わったらパッキングをしてジャム会社のスマッカーズに、またブロッコリーはチェーンストアの集荷場や市場に搬入することだった。仕事はきつくなかったか、ホームシックにはならなかったかを聞くと、「いや、日本が恋しくなるということはありませんでした」と即答した。「体力には自信がありました。ただ、研修が終わってもその後の仕事が決まっているわけではないので、どうしようかと悩んではいました。ボスの奥さんが『アメリカでやりたいんだったら(受け入れを)考えてもいい』とは言ってくれました。しかし、その時はそこまで決断できませんでした」

一人で思い悩んでいた頃、西尾さんの将来が変わる出来事が起こった。「私の先輩が、夕方、友達の所に遊びに行くからと私を誘ってくれました。でも私は聖書の勉強会に行くことになっていたので断ったのです」

勉強会から戻って寝ていた深夜、ボスから起こされた。先輩がカーブを曲がり損ねて車を大木に激突させ、車は大破、自身も肩や足を骨折する重傷を負ったことを知らされた。

「助手席の方が大木に強く衝突したことを聞き、私がもし助手席に乗っていたら確実に命はなかっただろうと思います。この時はまだクリスチャンではありませんでしたが、神様が私を助けてくださったと思います」

こうして、事故を回避して、2年間の研修期間を無事に終えた西尾さんは1977年6月に日本に帰国した。そして、大学の教授に紹介された佐賀県の園芸連を通して、農協に野菜の技術指導員として就職した。4年半、同農協では約100戸の野菜専業農家の技術指導に当たった。その時に出会ったのが、後輩に当たる、果樹の技術員の大海(おうみ)さんだった。海外での勉強を希望していた大海さんに西尾さんは、自分が参加した派米協会の研修制度を推薦した。そして、そのことが、西尾さんのカリフォルニアでの日本野菜作りにつながる契機を作ることになる。


日本食ブームで野菜の需要高騰

農協の後輩、大海さんが派遣研修先のカリフォルニアから連絡をよこし、西尾さんにこう言った。「アメリカで農業をしてくれる人を探している知り合いがいます。西尾さん、どうですか?」。1980年代頭の日本はバブルに湧いており、日系企業が続々とアメリカに進出していた。大海さんが西尾さんに持ち込んだ話は、カリフォルニアで事業を手掛ける日本人投資家が住宅地用に購入した海の近くの土地がカリフォルニアコースタルコミッション(カリフォルニア州沿岸部の土地に関する規制)の規定で家が建てられないことになったため、そこで農業をしてくれる人を探しているというものだった。

西尾さんは、土地のオーナーである日本人投資家と東京で面談した後、現地を視察するため、1カ月間休みをもらい、1981年2月にカリフォルニアに渡った。

「土地があったのは、北サンディエゴのカールズバッドでした。土地を見て、さらに日本食レストランなども視察しました。当時は日系企業進出の影響で、日本食ブームが到来していました。そこで日本の野菜の需要があるとわかり、その土地で日本の野菜を育てよう、やりましょうと返事をして、いったん日本に帰りました。その後、農協の仕事を片付けるために忙しくしていた時、また投資家から連絡が入り、何と、あの土地に家が建てられるようになったので、この話はなかったことにしてください、と言われたのです。残念ですが、仕方ありません」

こうして、一度はアメリカでの農業をあきらめたものの、転機は再び訪れた。2月の渡米時に出会ったカルコーストナーサリーのオーナー、杉野さんが今度は名乗りをあげ、「私と一緒にやりませんか」とオファーしてきたのだ。杉野さんがカーネーションを栽培していた土地で、同じくカールズバッド、広さは5エーカーだった。

西尾さんは1982年4月に渡米、すぐにキュウリ作りに取りかかった。「市場を下見した時にわかったのは、需要が多いにもかかわらず、日本のキュウリを栽培する農家は2件。しかも小規模でした。需要があるのに、どうしてもっと日本のキュウリを作らないのかと店の担当者に聞けば、気候や土地が合わないのでは、という返事。そんなことはない、キュウリの栽培に特別な土壌がいるわけではありません。実際に育て始めたら驚くほどよく(キュウリが)できました。ロサンゼルスのホールセラーにサンプルを見せると、そこで話がまとまりました。日本のように面倒なことはなく、アメリカでは品質が良く価格が適正であれば、すぐにOKですよ。市場に卸すだけでなく、直接、日系スーパーのヤオハン(現在のミツワ)にも売り始めました。当時のヤオハンは、アメリカ国内に次々と店を開けていて、凄い勢いでした。さらにニジヤ、マルカイにも卸し始めました」

やがて、納品先からのリクエストに応える形で、茄子、シシトウ、ピーマン、トマト、コカブなど作物の種類を増やしていった。

「すると土地が足りなくなりました。そこでカールズバッドから内陸にある、このヴィスタの土地を買いました。移転をきっかけに独立し、現在のグリーンパラダイスファームを立ち上げました」。1987年のことだった。土地の広さは19エーカー。さらに2013年に近隣の8エーカーを買い足した。

農園内に建つグリーンハウスは13棟


後継者育成が今後の課題

作物は前述の物以外に、東京ネギの需要が多いことを受け、手広く栽培している。「農業は経営者が年々リタイヤされたり、亡くなられたりして、やる人が減っています」

西尾さんの子どもは2人。長女ミナさんはハーバードの大学院を卒業して建築家に、長男ケントさんも今のところ農業を継ぐ気持ちはなさそうだと言う。西尾さんもまた後継者問題を抱えている。

そして、西尾さんの農園には、現在、メキシカンの労働者が27人、日本からの研修生が1人働いている。「これまで20人をこえる研修生を受け入れてきました。ほとんどの研修生が真面目な働きぶりで、今の若者にしては珍しいなあ、という印象です。アメリカに残る研修生?いや、皆、日本に帰国し、家の農業を継いだり、農業法人で働いたりしています」。 研修生は農場内にあるトレーラーに寝泊まりする。祝日には、西尾さんや現地労働者と全員一緒に食事をするのが慣習になっている。

「後継者探しが課題」と語る西尾さん  

かつて自身も研修生だった西尾さん、今、日本からアメリカに農業を学びに来る若者たちに何を教えたいかを聞いた。「仕事に一生懸命に取り組むということを覚えてほしいと望んでいます。技術は別にして、仕事をする姿勢をしっかり身につけてほしいですね」

そして、その姿勢こそ、真摯に農業に取り組む西尾さんの姿から学べるはずだ。「ともかく、いい品質の品物にすることを何よりも心がけています。近代的な農法と言うよりも、クラシカルな手法で堆肥を作り、ミネラルや栄養分豊富な野菜にしようと日夜努力しています。また安定した品質と同時に、供給量も安定したものにしなければなりません。毎週火曜と金曜は日系のスーパーに配達、月曜と火曜、木曜はホールセラーに配達します。事前に注文を取る方式で、その量を考えながら常に畑の作物の生産量を調節しています」

私たち消費者が何気なくアメリカで口にしている日本食は、西尾さんが育てる日本野菜があって初めて本格的なものになる。その感謝の念を新たにすると共に、私たちの食生活の安定のためにも、日本野菜作りの後継者が育つことを願って止まない。西尾さんは現在66歳、あと10年は現役で経営を続けることが希望だ。

日本からの研修生、加藤航(わたる)さんと。加藤さんは宮崎県出身の21歳。

© 2016 Keiko Fukuda

Agricultural Training Program agriculture farmer fukuoka Green Paradise Farm hood river orange county oregon Sadaharu Nishio southern california Vista