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おばあさんの手紙 ~日系人強制収容所での子どもと本~

第二章「集合所」という強制収容所: 1942年春から秋にかけて (3)

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2. 自分の手の届くところから、できることから

子どものまわりの大人たちは、気がついた所から、必要がある所から、どんどん自分でできることを始めます。こんな環境でも、できるだけ住みやすくしようと自発的に動き始める様子には、一世、二世の不屈の、そして前向きのエネルギーが感じられます。時は春。自然のリズムとも呼応します。図書館設立もこのように始まったのですが、その話はもう少し後で。ここでは、雨の多いピュアラップでの例を二つ。 

ジム・アクツは食堂の仕事をしていました。ある日、お皿に残ったパンを包んでいる人に気づき、話をきくと、病気で来られなかった母親に持って帰るとのこと。それを聞いて、ジムは「そうだ、お年寄りや病気の人は、歩いて食堂に来て、何時間も外で並んで待つのは大変なんだ」と気づき、そういう方に食事を届けるトレイ・サービスを始めます。このサービスは、すぐに病院と隔離病棟までにも広がりました。ジムは「ただ必要があったので、しただけです」と語っています。1

雨が降る度に、道はどろどろのぬかるみになり、足をとられます。キャンプ中、舗装したところなんてないのですから。モニカ・ソネは、自伝の中で「人食いぬかるみが海原のようにひろがっていた」と形容しています。普通の靴をはいてシャワーに行くと、帰りには天使のような羽が必要になると、キャンプ内新聞でも揶揄しています。そこで脚光をあびるようになったのが、トヨノスケ・フジカド。一世の方でしょうか。自分のバラックの一隅をミニ下駄工房にして、廃材を使い、お金はいっさい受け取らず、頼まれるままに、大きいのや、小さいのや、形も高さも様々な特注下駄を、700足以上も作りました。3

短期間の仮収容所なので、戦時民間人管理局は、収容者の学校や余暇の過ごし方までは考えてはいませんでした。しかし、一日中何もすることのない生活は退屈で、モラルの低下が問題になってきます。そこで、急遽、各収容所に、教育部とレクリエーション部を作り、実際の計画と運営は収容されている日系人の担当です。教育部は学校、保育園の計画を急ぎ、先生を募集しはじめます。レクリエーション部では、瞬く間に、野球、バスケットボール、ソフトボール、すもうから編み物、工芸、囲碁将棋などの活動が始まりました。 


3. 学校

まだ机も教科書もないうちから、学校も始まりました。今回の写真は、マンザナーで二世の大学生がボランティアで先生をし、子どもたちに規律のある生活をと、学校を始めた時のものです。何もないけれど、きれいに掃除された教室の床に、窓からはいる自然光が映り、すがすがしい印象をうけませんか。子どもたちのことを思う人がいて、学びたい子どもたちがいて、学べる空間があって、刻々とかわる光の軌跡があって、ここだけは満ち足りた時間が流れているようです。7月1日、政府の写真家ドロシア・ラングの撮影です。

できたばかりの学校 (写真:ドロシア・ラング、アメリカ国立公文書記録管理局: Densho ID: denshopd-i151-00368)

タンフォラン仮収容所で、ヨシコ・ウチダの姉ケイコは、保育園をつくるのを任されます。ケイコはミルズ・カレッジで児童発達学を修め、保育士の資格をもっていました。しかし、卒業後も資格を生かす仕事には恵まれません。ケイコだけでなく大多数の二世が同じ経験をしています。人種偏見のため仕事がなかったのです。大学で航空工学を修めた卒業生が野菜を売っていた時代です。建築家のミノル・ヤマサキをご存知ですか? ニューヨークのワールド・トレード・センターを設計した、アメリカでは20世紀を代表する建築家の一人です。彼はワシントン大学で建築を勉強したのですが、卒業当時仕事がなく、ある店の下働きをしていて、時々ヘンリーのお父さんの店にも配達に来ていました。幸い、強制立ち退きが始まる前にニューヨークの建築事務所に勤めることになり、立ち退きは免れています。仮収容所で、ケイコははじめて自分の本来やるべき仕事に恵まれたのです。後にヨシコは仮収容所内小学校の先生になるのですが、その前にすこしケイコの保育園を手伝っていました。その時の気になるエピソードです。

……子どもたちがおままごとをするときはいつも、家庭でやっているように料理したりテーブルに食器を並べたりしないで、架空の食堂で食事をするために、行列をつくって並ぶのが常であった。子どもにとって家庭という観念が、いかに急速に変化してしまったかを目にするのは、悲しいことであった。4

サラミと学校を運んでくる先生

「闇を照らす一本のろうそくは、昼間の百本のろうそくよりも有り難い。多くの日系人にとって収容所時代、戦時下にうけた親切は、大きい小さいに関わらず、消えかけた希望の火を再び燃え立たせ、人生の一番暗かった時に、人間は愛し、信頼するに足る存在だと、再び、確信させてくれた。その火は今日も燃え続けている」と、収容者だった人々からの推薦で、心に残る人々の話を集めた本の中で、すてきな先生姉妹に出会いました。

エリザベス・ハムバーガー先生とキャサリン・ハムバーガー先生で、どちらも昼間はストックトン高校で教えていますが、夜な夜な、ストックトン仮収容所に通っていました。ほとんど毎晩のことですから、門番の兵士とも顔なじみ。多分、その門番はこのお二人のことを「どちらも、妊娠中か、すごくふとっている人」と思っていたことでしょう。実は、お腹のまわりに差し入れのサラミとか、持ち込み禁止の食べ物を巻いていたのです。

ストックトン高校の日系の学生が仮収容所に送られたのは学期がおわる一ヶ月前で、このままでは今学期の単位が取れなくなって、次の学年に上がれなくなります。そこで、姉妹は考えました。「政府が学校から生徒を取り上げるんだったら、私たちは学校を生徒に持って行こう」と。同じ仮収容所に入っている大学生を先生にして、ストックトン高校の学生に勉強を教えてもらい、その単位を学校当局に認めさせる計画です。毎晩のように収容所に行っていたのは、にわかに先生になった大学生に教え方を伝授したり、ストックトン高校の他の先生がその日、クラスで配ったプリントを渡したりしていたのです。5

卒業式

一人だけの卒業式

丸めてボール紙の筒にいれられた私の卒業証書は、私の小屋で、タンフォラン仮収容所の郵便屋さんから手渡された。6

これが、2週間違いでカリフォルニア大学バークレー校の卒業式に出席する機会を奪われた、ヨシコの一人だけの卒業式でした。


十三の空の椅子

ベインブリッジ高校の二つの卒業式の様子を、野球試合の話をしてくれたメアリー・ウッドワードに続けてもらいましょう。

…… みんなと卒業式をむかえるはずだった日系人学生は13名で、卒業生の4分の1です。そう、4分の1になりますね。みんな学生のリーダーでした。バスケットボールチームのスターだったり、生徒会の指導者だったり …… 数多くの非常に秀でた学生たちで、ベインブリッジ高校に完全にとけ込んでいました。…… 学校側は状況が状況だけに大目にみた科目もあったかとは思うけど、13名が卒業に必要な勉強を終えたことを確認して、教育委員長とデニス校長が卒業式で読み上げるスピーチの原稿を添えて、13名の卒業証書を手渡してもらえるようにマンザナーに送ったんです。だから、マンザナーでベインブリッジ高校の卒業式を執り行うことができましたし、島の卒業式では、演壇に13の空の椅子が並べられました。7

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注釈:

1. Jim Akutsu, interview by Art Hansen, June 9 & 12, 1997, Densho Visual History Collection, Densho.

 ジムはトレイ・サービスをはじめるにあたり、日々のキャンプ内の活動を取り締まる日系アメリカ人市民同盟(JACL)に許可を取りに行きましたが、JACLは当座解決しなくてはいけない案件がありすぎたのか、無視されます。「老人や病気の人に食べさせるのは、重要なことだ。いますぐに取りかかるべきだ」と考えたジムはJACLの頭越しに所長の許可を得て、ボランティアの高校生を募ってスタートしました。

2. Sone, Monica. Nisei Daughter. Seattle: University of Washington Press, 1953.
モニカ自身も赤い下駄を作ってもらいました。 お父さんに懇願して、お父さんの友達の友達経由で下駄を作る大工さんにお願いしてもらって。多分、フジカドさんだったのでしょう。モニカは「下駄は、シャワーにそのまま入れるし、三インチ(七・五センチ)の高さがあるのでぬかるみも大丈夫だし、なんといってもストッキングをはく必要がないので助かった」と明かしています。

3. Camp Harmony News-Letter, June 17, 1942. 

4. ヨシコ・ウチダ著、波多野和夫訳「荒野に追われた人々———戦時下日系米人家族の記録」岩波書店 1985

ヨシコたちが仮収容所について一週間程した時に、FBIに拘束されていたお父さんが仮釈放され、一緒に住めるようになりました。ヨシコは、父親の比較的早めの仮釈放につながった3つの理由を、戦争の始まる2年前に三井物産を定年退職していたこと、地域での奉仕活動、お父さんの人柄や行動に関する知人たちからの宣誓口述書の効果としています。

5. Seigel, Shizue. In Good Conscience: Supporting Japanese Americans During the Internment. San Mateo: AACP, Inc., 2006.

6. 前掲「荒野に追われた人々———戦時下日系米人家族の記録」

7. Mary Woodward, interview by Debra Gindeland, 8/3/2007, Bainbridge Island Japanese American Community Collection, Densho. 

 

* 子ども文庫の会による季刊誌「子どもと本」第134号(2013年7月)からの転載です。

 

© 2013 Yuri Brockett

assembly center camps children pre-school school Tanforan World War II

Sobre esta série

東京にある、子ども文庫の会の青木祥子さんから、今から10年か20年前に日本の新聞に掲載された日系の方の手紙のことをお聞きしました。その方は、第二次世界大戦中アメリカの日系人強制収容所で過ごされたのですが、「収容所に本をもってきてくださった図書館員の方のことが忘れられない」とあったそうです。この手紙に背中を押されるように調べ始めた、収容所での子どもの生活と収容所のなかでの本とのかかわりをお届けします。

* 子ども文庫の会による季刊誌「子どもと本」第133号~137号(2013年4月~2014年4月)からの転載です。