Escolha o seu idioma de preferência para tirar o máximo proveito das páginas do nosso Jornal:
English 日本語 Español Português

Fizemos muitas melhoras nas seções do nosso Jornal. Por favor, envie-nos a sua opinião ao escrever para editor@DiscoverNikkei.org!

「米國日系人百年史」を読み直す~パイオニアたちの記録をたどって

第12回 アイダホ州の日系人

日本人は鉄道労働から

東がモンタナ州、西がワシントン州とオレゴン州に接するアイダホ州は、西部開拓によって鉱山業からはじまりその後鉄道業が盛んになった地域である。また、高原地帯は一大農業地帯でもあった。

「百年史」によれば、アイダホ州の日本人の歴史は、まず鉄道労働からはじまったことが詳しくわかる。

アイダホ州に日本人が最初に足を踏み入れたのは、1891(明治24)年で、当時UP(ユニオン・パシフィック)鉄道の一部として建設中のオレゴン・ショートライン鉄道のハンチングトン=グレンジャー間に、はじめて日本人労働者がナンパに送りこまれたときである。

ところが、これよりも以前に日本人の影はあったという。それは女性だった。

「一八八五年ごろより一八九〇年代にかけ、繊弱を駆って幾百哩の山野を越え、日本人の片影さえ見ぬ山中部に入り、紅燈の巷に立て籠り盛んに白人や支那人労働者を相手にした日本人醜業婦が多数にのぼっていた」という。この女性たちがどこからきたのか、百年史には書かれていない。


王侯のような、元締め田中忠七  

日本人の鉄道労働者は、元締めとなる日本人が鉄道会社と契約を交わして、送り込まれていたが、こうした労働斡旋業の元祖である有名な人物として、田中忠七がいた。彼については、生々しい記述がまたある。

「…田中忠七が、最初レミントンと呼ぶ鉄道会社労働監督と契約を結んだ端緒すらが、売春を業とした田中の妻が、レミントン監督の妾になったことから渡りがついたという経緯から見ても、初期移住時代の様相が察知できるというものである。かかる経緯で端緒が開かれたアイダホ州日本人の鉄道工事就働は、その後田中の本部もナンパからポカテロに移され、田中は約三百人の日本人労働者に号令、人夫を使役して庭園に池を掘らし、豪奢ぶりは王侯にも匹敵するといわれ、また病院を設立したが、これが後日ポカテロで日本人傷病者のため多大な貢献をなした日本病院の前身であった」

この地での日本人と農業についてのかかわりは、「ワイオミング州ロックスプリングに本部を持つ鉄道ボス西山元の説得で、アイダホ製糖会社が動いた」ことがきっかけだった。

これによって、1903年にサンフランシスコの日本勧業社(安孫子久太郎社長)によって、百数十人の日本人労働者が派遣された。こうした日本人のなかには現地に居つき、農業に従事し、日系人農園の基礎をつくったものがいた。


日系人会館建設 

日本人の農業組合も各地で結成されていった。また排日に対抗するための組織的な運動も行われた。1923年以降、近隣の諸州で日本人の土地所有権を認めず借地権も制限する排日土地法が実施されていたなかで、アイダホ州だけが孤軍奮闘していた。しかし、最終的には土地所有権闘争を断念した結果、借地権を確保することに成功した。

アイダホ州の日本人は1900年に1291人、1920年には1569人だったのが、1940年には1191人と減少傾向を示した。しかし1960年には2254人となっている。戦後に増加したのは、戦争による他地方からの立退き者や転住者が多数入り込んで居ついたためだという。

百年史では、東アイダホ地方、南部アイダホ州と愛央地方に分かれて説明している。アイダホ州は漢字で「愛州」と表記され、オレゴン州が「央州」と表記されることから、愛央地方とは、アイダホ州西南部とオレゴン州の一部をさす。

この愛央地方では、1938年12月に日系人会館ができた。その数年前、「1933年、オワヒ貯水池の完成で砂糖会社工場がナンパ、ネサにも建設されたのを機に日本人の砂糖大根耕作者も増加し、レタス耕作も始まり、アニオン、ポテト、セロリ、レタス、東部輸送も多量にのぼっていた」

「一方家庭的にも二世が成長し、人種的偏見に捉われぬ立派な後継者を育てる為当時の有識者が度々熟議の上、一大青年会館が建設された。これが現在の愛央日系人会館である」

完成後は盛大な落成式が行われたが、百年史のこの欄の筆者は、おもしろい感想を漏らしている。

「斯如く苦心惨たんを経て建築されたホールは、偏に一世たちが青年男女可愛さの発露にほかならぬが、時とともに感謝の念は薄らぎつつある」

一世たちが次世代のために建てたという日系人会館(「百年史」より)


剥製技術を買われた日本人
 

アイダホ州で活躍してきた一世たちが数多く紹介されている。一例を挙げよう。

「農業 堀清太郎(新潟県)」氏である。

堀氏は、1883年に新潟県北蒲原郡新発田市で、溝口藩家老の家系に生まれ98年にハワイに契約移民として渡ったが、1906年にサンフランシスコに移動。日本勧業社の斡旋でアイダホ州アイダホホールス砂糖大根園に労働者として入り、その後農園を経営しこの地のポテト耕作のパイオニア組のひとりとなった。

土地を所有しながら、一方で日本人特有の手先の器用さを生かし、この地のドイツ人から剥製技術を習得すると、アメリカ人の間で有名になった。技術を買われて「猛獣狩りにアフリカまでも同行したことがあるなどその優秀技術で米人斯界に不朽の名を残した」

ここでも、日本人はさまざまな技術と知恵で生き抜いてきた。

 (注:引用はできる限り原文のまま行いましたが、一部修正しています。また、地名については「百年史」にある表し方を基本としました。現在では人権上などで使われない表記も、当時の表現をそのまま生かした点があることをご了承ください。)


* 次回は「ワシントン州の日系人」です。

 

© 2014 Ryusuke Kawai

idaho issei railroad United States

Sobre esta série

1960年代はじめ、全米を取材して日系社会のルーツである初期の日本人移民の足跡をまとめた大著「米國日系人百年史」(新日米新聞社)が発刊された。いまふたたび本書を読み直し、一世たちがどこから、何のためにアメリカに来て、何をしたのかを振り返る。全31回。