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テキサスに夢をみた100年前の日本人: 米作ブームを機に野菜栽培、そして油田も ~その4/4

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メキシコ国境に描いた夢

100年以上前のアメリカへの日本移民、特に入植地を求めるような人たちの足跡を調べると、よりよい場所や機会を求めて地域や州を越えて大胆な移動をしていることが分かる。また、通信手段の乏しいなかで、情報交換もかなり行われていたようだ。

今日からすればこんな所へもチャンスを求めて入植したのかと思える場所がある。テキサス州のなかでは、メキシコ国境に沿って流れるリオグランデ川がメキシコ湾に注ぐあたり一帯は、地図上で見る限り国境にも近く意外な入植地だ。

しかし、土地は肥沃でサトウキビが早くから栽培された。20世紀の初めにはヒューストンから鉄道が伸び、灌漑設備ができると農地として注目されて野菜栽培が盛んになった。リオ・グランデ・ヴァレーあるいは単にヴァレーと呼ばれるこの一帯に、日本人もテキサス州内から、あるいは西海岸などからやって来た。また、最初にこの地に入った日本人はもともとメキシコにもいた人物だった。

このなかに、「ヤマトコロニー」と呼ばれた協同組合方式の農場があった。この時期、ヤマトコロニーと名付けられた日本人コロニーは全米で3つあった。カリフォルニア北部、南フロリダ、そしてこのメキシコ国境のテキサスである。

1919(大正8)年7人の日本人が、ブラウンズヴィルという町のサトウキビプランテーションだった土地約400エーカーを買い取った。そこには灌漑設備や風車など使われていた施設も含まれていた。ここで50人から100人の労働者を雇って豆類やジャガイモ、トマトを栽培した。

周囲からは注目された事業だった。しかし、第1次大戦後の不況の影響を受けたことや、土地の質がよくなかったこと、また組合内部の意見の相違などもあったようで、わずか3年目で解散を余儀なくされた。

事業にかかわったメンバーは、それぞれ独立したが、とくにコロニーリーダーの川畑実氏は、農産物の輸送や野菜・綿花栽培など農業を続けて成功、地域に教会を建てるなどし、コミュニティーからの信望も厚かった。

1890(明治23)年、鹿児島県出身の川畑氏は、1905年にサンフランシスコに入り、コロラド州デンバーなどを経て、ニューメキシコ州のサンタフェでレストラン経営をした後、テキサス州に南下した。1946年に亡くなったがいまも彼の親族は、テキサス州南西部で暮らしている。

そのうち、実氏の孫にあたるポール・サカイさん、ランディー・サカイさん兄弟は、自分たちのルーツや入植時のことなどに興味を持っていまも調べているという。連絡を取ったところ、サカイ兄弟と、ランディーさんの妻ベバリーさんと一緒に、かつてのヤマトコロニー跡を訪ねることになった。

同じ日系人のオオヤマ宅を訪ねて会談(左からランディーさん、1人置いてポールさん、ベバリーさん)

ヒューストン空港からメキシコ国境に近いハーリンゲン空港へ飛ぶ。メキシコ湾を間近に控え、街路には背の高いパームツリーが並び、亜熱帯の雰囲気を醸し出している。リオ・グランデ川と海に面したブラウンズヴィルの町までは空港から車で30分ほどだ。

蛇行するリオ・グランデ川に沿ってメキシコ国境が引かれ、そこには鉄の高いフェンスが人の行き来を阻むように延々と続いている。近づいてみると警備の車が巡回していた。もちろん、メキシコ側からアメリカ側への不法入国を防ぐための策だ。

「かつては、こちらからメキシコに入って買い物をしたり、遊んで帰ってくることもありましたが、最近では国境付近のメキシコは危ないので、行くこともなくなりました」と、ベバリーさんが言う。

ランディーさんのホンダに乗って、テキサスらしいBBQ(バーベキュー)レストランの看板をいくつか見ながら国道を南に進み、海に近づいたあたりで、農道のような道に入っていった。あたりは畑で、さらに舗装もされていない道を行くと、そこがかつてヤマトコロニーがあった場所だった。

だれ一人歩く人もなければ、車も走らない。畑に接した古いレンガ造りに見える建物は、サトウキビプランテーション時代に造られた年代物で、ヤマトコロニーでもこれらを使っていたらしい。作物を保管しておいたと思われる建屋や作業場のような空間、そして古い灌漑設備がそのまま残っていた。

かつてヤマトコロニーがあったところにはいまも古い建物が残る

「私たちもここを訪れるのは初めてです」と、言いながらランディーさんは、興味津々とばかりに車を降りて、周囲を歩いて写真を撮っていた。100年近く前に祖父がつくったコロニーの跡だけに、ポールさんも感慨深げだった。

コロニー跡の視察と前後して、いまもヴァレー地区に残る日系人の家族のお宅を、ランディーさんらと一緒に訪ねてみた。彼らのなかにはいまも農地を所有している人が多いようだが、3世、4世の代になって農業を営んでいる人はほとんどいない。

振り返れば、農業が1つの事業であり、また開拓者精神の実践でもあった時代。コロニーの跡をめぐると、広大なアメリカの自然を前に奮い立った、あの時代の男たちの胸の内が少しは分かるような気がした。

(敬称一部略)

協力:日系アメリカ人市民連盟ヒューストン支部(ゲーリー・ナカムラ会長)

 

* 本稿は、JBPress (Japan Business Press - 日本ビジネスプレス)(2013年9月3日掲載)からの転載です。

© 2013 Ryusuke Kawai, JB Press

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About the Author

Jornalista, escritor de não ficção. Nasceu na província de Kanagawa. Formou-se na Faculdade de Direito da Universidade Keio e trabalhou como repórter do Jornal Mainichi antes de se tornar independente. Seus livros incluem "Colônia Yamato: os homens que deixaram o 'Japão' na Flórida" (Junposha). Traduziu a obra monumental da literatura nipo-americana, ``No-No Boy'' (mesmo). A versão em inglês de "Yamato Colony" ganhou "o prêmio Harry T. e Harriette V. Moore de 2021 para o melhor livro sobre grupos étnicos ou questões sociais da Sociedade Histórica da Flórida".

(Atualizado em novembro de 2021)

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