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『羅府ぎぎゅう音頭』の著者、佐藤健一先生を訪ねて - その2

その1>>

初めての佐藤先生とのインタビューが終わったあと、私は羅府に足を運びその内容を藤田さんに報告しました。藤田さんは、先生とのつながりをつくることが出来たことをとても喜び、LTRの撮影もかねディレクターの陳さんを伴って日本を訪問することを決めました。

藤田さんと陳さんは11月の下旬に日本を訪問しました。ふたりの第一の目的はもちろん、先生に会うことでした。私は急いで4日間のスケジュールを組み、あらためて先生から話を聞くことになりました。今回のわたしの役割は日程の調整や現地でのサポートが主で、インタビューを藤田さんが行い、その様子を陳さんが撮影するという形で行いました。

最初の2日間は、佐藤先生の経歴や生い立ち、加州毎日新聞社のことなど、先生の話を中心に質問をしました。そして、3日目に、わたしが藤田さんをヘルプするかたちで、先生の藤井氏に対する考えなどついてお話をうかがいました。

藤井整の魅力

パイプを吸うことが人生の楽しみと言う佐藤先生。先生のコレクションの一つ、パイプ葉のケースを陳さんへプレゼントしました。(写真提供:ジェフリー・ジー・陳さん)

藤田さんが、どのような理由で藤井整に興味を持つようになったのかを伺うと、藤井氏の日系社会への多大な貢献のみならず、藤井氏の人柄そのものに惹かれたと佐藤先生はおっしゃっていました。

当時、藤井氏は日系社会におけるアイドル的な存在でもありました。彼が亡くなった直後に発行された『羅府新報』の記事によると、彼は日系社会における「元老」的な存在として評価されていました。それと同時に、藤井整は老若男女を惹きつける「特殊な魅力」の持ち主とありました。藤井氏は、素晴らしい外見を持っていただけでなく、弁がすこぶる立っていたことでも知られており、それが一般的に彼の魅力となっていたようです。

しかし、佐藤先生にとっての藤井氏の魅力は、それだけではありませんでした。藤井氏の日系社会における貢献とそれをなしとげた彼の姿勢に惹かれたそうです。排日土地法という当時の人種差別的アメリカ社会の法律に対して、頑固たる決意を持って挑み、アメリカの日系人たちのために戦ったその信念と姿勢に強く惹かれたとのことです。

先生はもちろんのこと、わたしや藤田さんも、調べれば調べるほど、藤井整氏のこのような魅力に取りつかれてしまったのです。現在のアメリカ社会における日系社会の不動たる地位は、藤井氏の多大なる貢献なくしては語れないとわたしは思います。

藤井整は日系社会の白洲次郎だ!

また、先生は、藤井整の人物像を語るにあたり、戦後のある日本人のエピソードについて語ってくれました。

その日本人は、GHQ占領下にある日本で、昭和天皇からのクリスマス・プレゼントをマッカーサー本人に直接手渡しにいきました。しかし、マッカーサーが天皇陛下からのプレゼントを丁寧に扱わなかったので、彼を「一蹴」したというのです。また、その彼は「日本は敗戦したが、アメリカやアメリカ人の奴隷になったわけではない」とマッカーサーを恫喝し、日本の立場を護った人物としても知られています。その人物は、白洲次郎という戦後の日本復興を支えた要人の一人です。

先生がこの話をしたのは、戦後の白洲次郎の行為に、困難な時代に日系社会のため、自らの尊厳を保ち戦った藤井整の姿を見たからです。上記の言葉がしめすように、白洲次郎は、敗戦直後という大変困難な状況においても、日本人の尊厳を忘れず国のために奔走した人です。一方、藤井整は、戦後まもなく、まだ日系人に対する激しい差別のあるアメリカで、外人土地法を葬るための法廷闘争をし、数年にわたる法廷闘争を経て、1952年、長年日系一世を苦しめてきた悪法を葬ることに成功しました。

わたしはこの話を聞き、戦後という大変困難な時代に、日本人としての尊厳を護るために奔走した日本人がいたことと、アメリカ社会で日系社会の建て直しに奔走した人物がいたということは、「奇跡」に近いことかもしれないと、改めて藤井氏に尊敬の念をいだきました。同時に、佐藤先生のように、日系人の功績を残すためにたくさんのエネルギーを費やした日本人がいたことを、日系人の皆様にも知ってほしいと思いました。

藤井整の形見

そして最終日、朝食を食べ終わると、突然先生から電話がかかってきました。藤田さんに是非見せたいものがあると言うのです。まだ時間が少しあったので、わたしたちは近くのショッピングモールのレストランで先生と会うことにしました。

先生は使い古した綿で出来た袋を片手に、わたしたちの前にあらわれました。そして、「ここで見せると警察沙汰になるから、すぐにレストランに入ろう、そこでこれを見せるよ」と言うのです。

レストランでオーダーを済ませ、先生は袋にはいっていたものを取りだしました。なんとそれは、とても古いナイフでした。ナイフの柄の部分は鹿の角でできていました。おそらく、このようなナイフは、今では世界中どこでも作られていないと思います。

これは「藤井整の形見」で、丸谷さんから譲りうけたものだそうです。

先生は、その形見のナイフが藤井家でどのように使われていたか話してくれました。藤井家においては、藤井整の妻であったマツヨさんによってさまざまな料理がつくられていました。彼女は和洋中のさまざまな料理に精通していたので、「加州毎日」では料理に関する記事をたびたび投稿していました。「加州毎日」によって紹介されたさまざまな料理が彼女の手によって、そしてこのナイフによってつくられたのです。そのことをおもうと、このさびたナイフにも数十年つづいた加州毎日の「生き証人」のひとつになるのではとおもい、わたしは感慨深い気持ちを感じました。

わたしたちは、この藤井整の形見ともいうべき大事なナイフを、わざわざ持ってきて見せてくれた佐藤先生への感謝の気持ちでいっぱいになりました。3日間に及ぶインタビューで、私たちの藤井氏にたいする尊敬の念を、佐藤先生も感じてくださったのだと、わたしは思います。

* * *

藤井整の生涯を描いた映画『リトル・トーキョー・レポーター』の制作は、着々と進んでいるとのことです。皆様の支援のおかげで、今春には公開できるとのことです。30分ほどのショートドキュメンタリーですが、皆さんも是非ごらんになってください。

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