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リトル・トーキョー・レポーター 異色のコラボがもたらした映画作品

編注:ディスカバーニッケイは、個人や団体などの様々な意見を紹介しています。ここで紹介するエッセイは、作者の意見を反映したもので、ディスカバーニッケイまたは全米日系人博物館の意見を反映したものではありません。ディスカバーニッケイでは、コミュニティにある様々な見解を紹介するために、このようなエッセイも紹介しています。


今年9月におこなわれた『リトル・トーキョー・レポーター』の試写会が成功したことは、わたしにとっても、大変うれしいことでした。この作品が幅広い人々から支持を得ることができた理由は、自分たちの人権を確立するために、不正義に立ちむかうことの大切さを伝えているからです。その大切さは、現在の日系社会にも受けつがれています。この映画を観てくださった人々のなかには、藤井整が生涯をかけて繰りひろげてきた、日系人の人権を確立させるための闘いの姿に、自らの体験を重ねあわせた人々がいたことと思います。

『リトル・トーキョー・レポーター』の魅力は、藤井整の人生にスポットライトをあてたことのみならず、この作品の制作にかかわった人たちにもあります。

監督は20代の中国系アメリカ人の好青年、エグゼクティブ・プロデューサーは70代の日系三世の女性、そしてふたりを全面的に支えた百戦錬磨の日系三世のハリウッド俳優。まさに、異色のコラボレーションによって生まれた作品なのです。今回は、この映画をつくるにあたって、最も重要な役割を果たした3人について書きます。

1. 藤田文子さん ― セカンド・ライフとしての歴史研究から映画制作へ

今から12年前、藤田さんは30年以上にわたってつとめてきた薬剤師の仕事をリタイアしました。退職後の人生設計の一環として、日系アメリカ人の歴史研究をはじめました。

薬剤師という仕事柄、彼女は第2次世界大戦前の日系社会における医療従事者の歴史、とりわけ羅府の東1番街にあった日本人病院の歴史に強い興味を示しました。

当時の加州の日系社会は、外人土地法のもと、その経済活動の多くが厳しく制限されていました。日系人が病院をつくるためには、さまざまな法律上のハードルを越えなければならなかったため、苦労の連続でした。そのような状況のなか、南加大学時代からの盟友であるJ・マリオン・ライト弁護士とともに、日系人の人権を確立させるために立ち上がったのが藤井整でした。

藤田さんは、不正義をちらつかせるアメリカ社会に挑む藤井整の魅力にしだいに惹かれていったといいます。それはまるで、恋に落ちたような感覚でもあったそうです。そして、藤井整を映像にしたいという思いが、彼女の心に浮かび上がっていきました。3年前、彼女があるアジア大洋州系アメリカ人を対象とした映像作品を発表する映画祭に参加し、中国系三世の好青年ジェフェリー・ジー・陳さんに出会ったことで、その思いは実現へと動きはじめました。

2. ジェフェリー・ジー・陳さん ― 処女作『リトル・トーキョー・レポーター』への強い情熱

陳さんが藤田さんに初めて出会った頃、彼はバークレーの加州大学を卒業したばかりでした。いくつかの短編の自作のドキュメンタリーをつくったことはあったのですが、映画制作の経験はなく、映画をつくる機会をうかがっていました。彼が映画祭に足を運び、藤田さんに出会ったことは、のちのキャリアにかかわる大きなチャンスでした。藤田さんから藤井整の映画をつくる計画を聞いた彼は、監督として映画づくりにかかわることを、彼女に約束しました。

『リトル・トーキョー・レポーター』の制作においては、事前の調査、脚本を書くこと、そして、撮影のための段取りといった重要な作業のほとんどを、彼が担当しました。初めて行うことも多く、映画をつくるためのイロハを、彼は『リトル・トーキョー・レポーター』を通して学んだといっても過言ではありません。

映画づくりは順調に進んでいるかに見えました。ところが、映画の脚本ができて、ようやく撮影の段階にはいろうとしたとき、ひとつの問題が起こりました。脚本の内容に不満を持った人々が、陳さんに対して激しいバッシングを始めたのです。

賭博やギャングなどといった不道徳な行為をした人々の姿が映画のなかで描かれていることが、バッシングの原因でした。陳さんを激しく非難した人々は、この映画をとおして、日系人にたいするイメージが悪くなることをひどく恐れたのです。もちろん陳さんには、他意など全くなく、過去の歴史を真摯に受けとめたうえで、このような人々の姿を描きました。しかしながら、一度はじまった彼へのバッシングはなかなか収まりませんでした。陳さんは、一時は体重がおよそ10キロ前後減ってしまうほど、精神的にもかなり追い詰められてしまい、制作意欲が激しくそがれてしまったときもあったそうです。

このような個人攻撃が続いた背景には、陳さんが中国系であることが関係していると、わたしは考えます。日系社会において、陳さんは、いわゆる「他者」です。「他者」が「自分たち(日系人)の歴史」を語ることに、抵抗感を感じた人々がいたのです。このような事情は、日系社会のみならず、アジア大洋州系の社会においては、よくみられる現象です。このような社会においては、「自分たち」と「他者」の垣根がとても高くつくられていることから、はたからみると、とても排他的な社会であるとおもわれがちです。このような事情は、日本社会においても、あてはまるものです。(編注:日系社会の多くは、企画当初から、この映画が中国系アメリカ人監督によるものであることを知った上で、多大なサポートを行っていました。しかし、脚本に、藤井整氏や当時のコミュニティに関する記述に扇情的記述が含まれたことにたいし、コミュニティの数人から心配の声があがりました。)

藤田さんも、必死になって陳さんをかばいました。また、陳さんの周囲にいた、アジア大洋州系の若い映画制作者たちも、積極的に彼を擁護すると同時に、彼をバッシングした人々にたいする批判をしました。時間がたつにつれて、コミュニティの人々も、少しずつこの映画に理解を示してくれ、陳さんへのバッシングは消えていきました。このような個人攻撃が、コミュニティのなかで行われたという事実は、非常に遺憾なことです。しかし、多くの人たちが支えてくれたおかげで、陳さんは、この映画を完成させることができました。なかでも、ハリウッド俳優クリス・タシマさんの存在は、陳さんにとって大きな励みとなりました。

3. クリス・タシマさん ― 一世を演じることの意味

映画づくりの経験をほとんど持たない二人を、全面的にフォローしたのが、『ビザと美徳』で監督と主演(杉原千畝役)を兼ねて大活躍したクリスタシマさんです。タシマさんは、この作品で名誉ある「オスカー」を手にしたことから、現在はアジア大洋州系社会を代表する売れっ子スターのひとりとして知られています。

この映画で藤井整の役を演じたタシマさんは、ことあるごとに、陳さんや藤田さんに、映画づくりのコツなり、その技術を教えました。特に、陳さんには、映画製作に必要なさまざまな技法や、今後のキャリアにおいて重要なことを丁寧に教えたとのことです。彼は、普段はとても落ち着いた物静かな人物ですが、陳さんと一緒にいるときには、積極的にコミュニケーションをとることがしばしばありました。

また、タシマさんは、映画づくりにおいて最も大きな問題であった制作費の確保にも、さまざまな協力をしてくれました。その費用を確保するための、家族や親戚を呼び、特別の夕食会を行なったこともありました。

タシマさんが、ここまでこの映画に熱意を持って参加したその背景には、日系一世の役を演じることへの、特別な思いがあげられます。彼自身、藤井整の役は、生涯忘れることのできない仕事になったと言います。裸一貫で日本からアメリカに渡り、その後さまざまな苦労をへて日系社会の繁栄の礎(いしずえ)を築いた一世を演じることは、日系三世であるタシマさんにとって、自らのルーツやアイデンティティを再認識することのできる役だからです。一世の役を演じる機会がもてたことにたいして、「とても誇りに思う」と、たびたび藤田さんに言っていたそうです。もしかしたら、藤田さんや陳さん以上に、この映画制作に意欲的に取り組んでいたのは、タシマさんだったのかもしれません。

試写を終えて,リラックスする映画制作チーム。左から,ジェフェリー・ジー・陳さん,クリス・タシマさん,藤田文子さん,尾崎英二郎さん(提供 藤田文子さん)

まったく異なるバックグラウンドをもつこの3人が、ひとつの目的を達成するために協力をし、努力をして、必死になって完成させたのが、『リトル・トーキョー・リポーター』です。元薬剤師と今回が処女作の映画監督という、誰もが考えたことのないタッグ。そして、そのふたりを暖かいまなざしで支えた、名人のなかの名人。過去に例のないトリオではありますが、この3人であったからこそ、『リトル・トーキョー・レポーター』がこの世に生を受けたのだと思います。

映画制作にかかわった、それぞれの3人にとって、『リトル・トーキョー・レポーター』は、おのおのの人生やキャリアにおける、ひとつのエポックとなりました。藤田さんにとっては、彼女のセカンドライフにおける一大事といえる今回の映画制作。試写の結果がとてもよかったことから、彼女は長編での映画制作への路を模索しています。そして陳さんは、今後は大学院に進学して、タシマさんと同様に、映画制作のためのキャリアを積み重ねていくとのことです。今回の映画が、藤田さん、陳さん、タシマさんの人生へどのような影響を与えたのか、3人の今後の活躍にとても期待しています。また、歴史を研究をする立場のものとして、わたしはこのような映画が日系アメリカ人のを伝えるの貢献してくれることも期待しています。

© 2012 Takamichi Go

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