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日系アメリカ文学雑誌研究: 日本語雑誌を中心に

アメリカ東海岸唯一の文芸誌『NY文藝』―その2/9

その1>>

2.『NY文藝』の創刊とその後の経過

『NY文藝』は1955年に創刊され、1975年の第11号をもって終刊となった。創刊および発行の継続に中心的な役割を果たしたのが、編集兼発行人を務めたあべよしお(阿部芳雄)(第1-5号)と秋谷一郎(第6-11号)である。共に戦後、ニューヨークに再定住した帰米二世であり、『NY文藝』の創刊時、あべは44歳、秋谷は46歳であった。この同人誌の創刊とその後の経過を、秋谷一郎「十二年の足跡」(『NY文藝』第10号」)をも参考にしながら、簡単に辿っていきたい。

前章で『NY文藝』創刊への動きとして日系人文芸懇親会に触れたが、この同人誌が生まれる直接的な基盤となったのは『北米新報』の文芸欄である。芳賀武が創刊したこの日系新聞は最初から日系文学の振興に強い熱意を示していた。創刊号(1945年11月15日付け)に「在米小説大募集」という社告を載せ、「本紙は創刊と共に在米同胞の『文芸復興』を計るを以て一つの奉仕とし度いと思ひます」と述べて「短編小説」を募集している。その目的は「アメリカ移民五十年の生活には血のにじむ様な現実が余りにも多く含まれて居ます。我々は之れを文芸とし一先づパールハーバーに依って日系人第一期の歴史の幕を閉ぢたのを記念し、以て『より良き将来』へ出発せんとする同胞の参考に供したいと思ひます」であった。1951年に貴田愛作が『北米新報』を引き継いだが、この日系文学への支援の姿勢は変わらなかった。

1950年、芳賀があべよしおに『北米新報』の文芸欄の担当を依頼してから、この文芸欄が充実してきた。あべは読者の創作意欲を高めるために、作品の掲載だけではなく、日系文学に関する座談会の開催や新年号の賞品付き作品募集など様々な積極的方策を打ち出した。読者の反応も良好だった。「日本文学のルネッサンス時代」(秋谷一郎「十二年の足跡」)の様相を帯びてきたのである。「北米新報・春季文芸特別付録」(『北米新報』1950年4月13日号)に載った座談会には、アメリカにおける日系文学の歴史とその評価および課題について論じられており、それはまた文学に寄せる出席者たちの期待と意欲を伝えるものとなっている。

このように『北米新報』の文芸欄を中心に文学活動が盛り上がり、1953年頃からこの新聞に投稿する人たちの間で会合が持たれるようになった。そして1954年に『NY文藝』という同人組織が生まれ、1955年に『NY文藝』が創刊されたのである。

『NY文藝』が生まれるまでの動きを見ると、芳賀武、あべよしお、秋谷一郎、貴田愛作が重要な役割を果たしているが、これらの人々の間には共通する一つの特徴点がある。それは社会主義への確信あるいは期待であり、反ファシズム・反軍国主義の姿勢である。これらの人たちが戦時中、連合軍やアメリカ政府の情報機関で働いたのはこのような立場からであった。

『NY文藝』の創刊号は1955年5月に発行された。同人はあべよしお(『北米新報』勤務。以下、当時の職業などを示す)、秋谷一郎(家具工)、花江マリオ(麻利男)(本名は荒井碧)(領事)、前川柳平(白人家庭の家事労働)、西茂樹(時計商)、田中儀一(船員)、田実節(川本裕二の妻の父。職業は不明)の7名である。創刊に当たって、発行は年1回、発行部数は500部とし、あべを編集兼発行人とすること、費用の関係で雑誌の作製はすべて日本で行なうこと、会費は年間5ドルとすること、投稿作品も受け付けることなどが決められた。

通常、同人誌の創刊号に掲載される、いわゆる「創刊の辞」がこの創刊号では見られない。しかし、あべが「編集後記」の中で創刊の目的に触れている。少し長いが引用しておきたい。

「日本からの訪問者が在米日本人はオカシナ日本語をしやべっているという。こちらの生活を考えたら、オカシクはなく、むしろアワレを、それよりも尚、イキドオリを感じずにはいられないだろう。英語に押される、英語でなければ、片言であっても、渡ってゆけない社会なのだから。それでいて日本人が寄れば、日本語出なければどうしても通じないつながりをわれわれは持っている。その日本語は、環境に支配された、地方弁的な、アメリカ日本語であっても。こうした中へNY文芸を送り出すことに、われわれは民族的なホコリを感じる。国粋につながるものでなく、民族を背景とした人間としてのホコリを。移民文学といわれた昔の異郷と望郷趣味にひたるものでなく日本の血を享けた人間がアメリカで人生を開拓していっている、そして民族の言葉を守っていっている、という新しい意味での文学を」。

ここであべが目指す文学は新しい移民文学である。それは英語の世界で生きる日本人としてその民族性と言語を大切にする文学であり、アメリカにおける日本人の、疎外感に捕らわれながらも切り開いてきた人生を描く文学である。インターナショナリズムを強調せず、「国粋」を拒否しながらも「民族」を強く主張している点が興味深い。

『NY文藝』同人ピクニック(1959年頃)(秋谷氏提供)

その3>>

* 篠田左多江・山本岩夫共編著 『日系アメリカ文学雑誌研究ー日本語雑誌を中心にー』 (不二出版、1998年)からの転載。

© 1998 Fuji Shippan

Japanese literature new york NY bungei postwar

Sobre esta série

日系日本語雑誌の多くは、戦中・戦後の混乱期に失われ、後継者が日本語を理解できずに廃棄されてしまいました。このコラムでは、名前のみで実物が見つからなかったため幻の雑誌といわれた『收穫』をはじめ、日本語雑誌であるがゆえに、アメリカ側の記録から欠落してしまった収容所の雑誌、戦後移住者も加わった文芸 誌など、日系アメリカ文学雑誌集成に収められた雑誌の解題を紹介します。

これらすべての貴重な文芸雑誌は図書館などにまとめて収蔵されているものではなく、個人所有のものをたずね歩いて拝借したもので、多くの日系文芸人のご協力のもとに完成しました。

*篠田左多江・山本岩夫 『日系アメリカ文学雑誌研究ー日本語雑誌を中心にー』 (不二出版、1998年)からの転載。