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日系アメリカ文学雑誌研究: 日本語雑誌を中心に

望郷の総合雑誌 - 『ポストン文藝』 その4/8

その3>>

発行部数を完全に把握することはできないが、44年7月号が600部、1年後の45年7月号が1,000部という記録がある。多くの熱心な読者をもつ『鉄柵』でも発行部数は800部であったから、『ポストン文藝』の発行部数はかなり多い。制作費はWRAからの援助金のほか、所内のキャンティーン(売店)で20セント、外部へは送料を含めて25セントで販売された。「編集後記」には寄付金への謝辞が掲載されているので、熱心な支持者からの寄付もあったと思われる。

ポストンはトゥーリレイクとは異なり、志願兵となる者、再定住のため収容所を去る者など人びとがつねに移動した。ポストン文芸協会の人びともひとりまたひとりと去って行くが、『ポストン文藝』はこれら外部へ出た人からの寄稿によって支えられ、継続することができた。また、雑誌をもたなかったマンザナー収容所の人びとに作品発表の場を提供している。したがって掲載されたものは、ポストン収容所にとどまらず広く他の収容所や外部からの投稿記事を含んでいた。

『ポストン文藝』を支えた「ポストン歌会」は1945年8月26日に最後の歌会を開き、その3年にわたる活動の幕を閉じた。ポストンに残留したメンバーはわずか6名になっていた。『ポストン文藝』は戦争が終わった翌月その役目を終えて、9月号を最後に終刊となった。

3.『ポストン文藝』の内容

この雑誌は前述の通り、『若人』『怒濤』『鉄柵』などは異なった気軽に読める総合雑誌で、内容は多様である。身近なテーマの短編小説、侠客などを主人公とした大衆小説、随筆、日本の歴史、人物、文化の紹介、日本や英国の文学論、舞踊公演の解説や短評、詩、短歌、俳句、川柳、漫画まで掲載され、写真やカットも添えられている。

松原信雄は「巻頭言」のほか、44年8月号から短編小説や随筆を書いている。「流れゆく水」(44年8月号)、「幼き恋」(終刊号)はともに呼び寄せ青年の初恋から結婚にいたるまでのさまざまなできごとを書いた短編である。

和歌山の海辺の小学校高等科時代の初恋、恋人を争ったかつての級友との収容所での再会、すでに人妻となっている昔の恋人との収容所における再会など、彼の経験をふまえて書いたものであろう。いずれも初恋は実らないのだが、再会の後も子供もいる現在の家庭を大切にするという結末になっているところに松原の真面目な性格が表れている。随筆「ユートピア」(44年11月号)では子供との楽しい生活を、「静かな生活」(44年12月号)では妻に見守られて書物に親しむ生活を書いている。そのほか「保寿屯雑記」(45年2月号)、「塩湖市会議随行記」(45年4月号)などの収容所閉鎖に関する議論、4月末に行なわれた文芸協会主宰の山歩きの報告「山行記」および「山は呼ぶ」(45年5月号)がある。また収容所体験にもとづいた啓蒙記事「僕の雑記帳」が45年7月号から9月号まで連載されている。松原は小学校高等科までの教育しか受けていなかったが、ものごとを真面目に考え、それを文章できちんと表現する技術をもっている。彼は学校教育でなく読書によって多くの教養を身につけた努力家である。

有田百は戦前、カリフォルニア州サン・ファン・バティスタで日本語学校を経営し、自らも教えていた。戦争勃発の直後、ほかの日本語学校関係者と同様にFBI逮捕されてサンタフェ抑留所に拘束された後、ポストンへ送られた。彼は44年4月からほぼ毎号に書いているが、教育者らしく「教育管見」(44年7、8月号)、「家庭と児童」(45年2月号)など教育をテーマとした啓蒙的な記事が多い。「家庭と児童」では、収容所では健全な家庭生活を営むことができないため子供たちの教育がおろそかになり、日本人の長所が失われていくことを案じている。メスホールで食事をとると家庭の団欒が失われ、きちんとしたしつけをするのが難しい状態で、親にとっては深刻な問題であった。

有田の小説「太平洋」(44年12月号)は、真面目でゴルフに打ち込み妻を顧みない夫に不満を抱いた妻に若い恋人ができるが、夫は世間体を気にして妻を許さず、離婚するつもりで妻子を連れ、アメリカ生活を清算して帰国する。夫は日本へ着いて神々しい富士山を仰いだとき、新たな気分になって妻を許すことができ、ふたたび家族で生活をやり直そうと決心するというストーリーである。「白百合」(45年6、7月号)は女子大卒の才媛が年下の若者の熱心な求婚をしりぞけて、独身のまま日系人の子弟の教育に専念するという小説で、いずれも教訓的である。彼の作品からはいつも教育者の顔がのぞいている。松原、有田の作品は修身の教科書のようで、社会から脱落して行く人物は登場しない。たとえ一時は誤った考えに取りつかれても、最後には必ず正しい方向へ向かうというパターンである。松原、有田は「日本人はこうあるべき」という模範的な生き方を示そうとしたために、小説のおもしろさが失われてしまった。

一世の芳川積三は前述の2人とは異なるタイプの娯楽小説を書いている。「二世の悲恋」(44年9月号~11月号)は、二世の若者と恋におちた白人の娘が、日本人をジャップと蔑む親や周囲の理解を得られずついに自殺をするというストーリーで、戦前の日本語新聞にはこのような悲劇がいくつか報道されている。「開拓者」(45年1月号)は、第1次大戦前後に鉄道工事現場で働いていた日本人労働者が、親切な白人監督を燃えさかる山火事から救助する話である。「一世の気概」(44年7月号)も同様で、これら2編はパイオニアとしての一世がいかに勤勉で真面目、雇い主に忠実であったか強調する作品である。「佐渡甚三郎」(45年2月~3月号)は、浪曲などで有名な侠客清水次郎長の子分であった佐渡が渡米して日系社会で大親分になるという話。「松岡全権と博奕広」は、のちの外交官松岡洋右(まつおか・ようすけ)がオレゴン大学留学中に知り合った「広」と呼ばれる一世の博徒と、全権大使として渡米した際に再会する話である。芳川は文章や会話の入れ方もたくみで、義理人情をちりばめておもしろく読ませる技術をもっている。

その5>>

* 篠田左多江・山本岩夫共編著 『日系アメリカ文学雑誌研究ー日本語雑誌を中心にー』 (不二出版、1998年)からの転載。

© 1998 Fuji Shippan

issei Japanese literature kibei nisei Poston World War II

Sobre esta série

日系日本語雑誌の多くは、戦中・戦後の混乱期に失われ、後継者が日本語を理解できずに廃棄されてしまいました。このコラムでは、名前のみで実物が見つからなかったため幻の雑誌といわれた『收穫』をはじめ、日本語雑誌であるがゆえに、アメリカ側の記録から欠落してしまった収容所の雑誌、戦後移住者も加わった文芸 誌など、日系アメリカ文学雑誌集成に収められた雑誌の解題を紹介します。

これらすべての貴重な文芸雑誌は図書館などにまとめて収蔵されているものではなく、個人所有のものをたずね歩いて拝借したもので、多くの日系文芸人のご協力のもとに完成しました。

*篠田左多江・山本岩夫 『日系アメリカ文学雑誌研究ー日本語雑誌を中心にー』 (不二出版、1998年)からの転載。