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来日就学生物語 ~マイグレーション研究会メンバーによる移民研究~

第7回 望郷のハワイ -中島直人と『ハワイ物語』-

おそらく、中島直人という名前を知っている人はほとんどいないだろう。戦前のハワイ生まれの小説家である。この記事では、ぼほぼ無名だがしかしその経歴を調べ作品を読めば抜群に面白い、このマイナー作家を紹介し、その価値を説いてみたい。

1.中島直人とは誰か

32歳の中島直人(『日布時事』1936年12月26日)

まずは経歴から紹介しよう。中島直人は、1904年4月20日、ハワイ、オアフ島ワイパフ(Waipahu)に熊本県からハワイに移民した父母の子として生まれた。いわゆる2世である。パールシティ公立学校へ通う一方、日本語による補習学校ポールシチー本願寺学園に通い、卒業している。彼はその後ホノルルのカイウラニ・スクールへ進んだが、その直後に日本から呼び寄せた兄がハワイに不適応を起こして死去するという出来事が起こる。これを機に一家は父を残して帰国、中島が数えで14歳の時(1919)だった。その後、早稲田大学英文科に進むも中退。1928年、同人誌『一九二八』に「すゐぎゆう」を発表以来、ハワイ時代の追憶と回想を中心とする作品を書き、一定の知名度をえていく。1936年12月、念願の帰郷を果たすべく、短篇を集めて創作集『ハワイ物語』(砂子屋書房)を刊行し、渡航費とした。同年12月ハワイにもどり、一時、布哇中学校で教鞭をとっていた。ハワイの日系3世の女性と結婚、さらに米国本土へ渡り、1939年9月サンフランシスコより100キロメートルほど南下した町ギルロイ(Gilroy)の日本人学校ギルロイ学園の校長となったが、1940年12月13日、交通事故でうけた脳の損傷のために死去した。享年36歳である。

以上が、現在判明している中島の生涯である。その一生は、移動の連続といっていいだろう。熊本生まれでハワイ在住の両親のもとに生を受け、熊本へ帰り、東京へ上京し、その後再びハワイ、そしてカリフォルニアへ。彼の短い36年間は、まさに移転につぐ移転の歳月だったことだろう。

ただし、こうした移動の激しさ、というのは中島だけに特別だったわけではない。むしろ、彼も含む移民たちの太平洋を往還する活発な活動という、より幅広い歴史的社会的状況に眼を向けることこそ、彼の文学を理解するためには重要だ。米国生まれの2世たちの中には、学校教育を受けたり日本文化を学んだりするため、日本へ留学する者がいた。事情は少し異なるが、中島もまた、日本で教育を受けたハワイ移民2世だった。

2.移民の呼び声

中島に「「赤瓦」の人種」(『文学生活』1936年6月)というエッセイがある。この文章でいくつもの例を出して彼が確認するのは、日本とハワイの間を移動し、その移動がもたらした矛盾と違和によって引き裂かれた人々の苦しみである。絵を描きたかったという中島の兄も、ハワイの農園労働の生活に耐えられず精神に失調を来して鉄道へ飛び込んで死んだのだという。このエッセイの最も痛切な部分は、次の箇所である。

「私は始めて如何に私がハワイに於て幸福であつたかといふことを知つた。私が悲しいときは、まるで自分の母親の懐ろへ泣いて飛び込むやうに自分の故里のことを考へ、いよいよ悲しいときはいつそのこと帰らうと決心したが、しかしさう決心すると、決まつてその度にあの優しい「母親」は、まるで私を叱るかのやうに、ぢつとこちらを見つめてゐる。そして云つてるやうだつた。「お前は旅をしろ、旅をしろ」と。

爾来十数年、私は一つの道を歩いて来た。そしてその道が最善な道であつたかどうかは私は知らぬ。ただ、道を歩きなんだか私を呼ぶ声が聞えるやうな気がする。と同時に私は今更らのやうにあたりを見廻すのだ。小説を書いてるといふことは白々しい現実の裏表で、所詮私にとつてノスタルジヤー郷愁を医やす一つの手段に過ぎないのかも知れない。又、いささか運命論者めいて考へると、小説を書いてゐるといふ私自身の姿は、実はいひ換へると絵を描きたくて死んだ兄が抱いてゐた郷愁を日本とハワイにおきかへただけで仕事そのものはそつくりそのまま受け継いでゐるといふことになるかも知れぬ。」

中島が幻視する「一つの道」の上には、厳しい移動の犠牲になった者たちの姿が重なっていた。その道を歩く彼を呼びとめた「声」が、なにを語ったのかは私にはわからない。ただ確実なのは、彼がもっているといった「ノスタルジヤー郷愁」は、通常考えられるような甘美なものではなかったということだ。それはより凄絶な、もっと苦しみに満ちた感情だったろう。

中島はあるアンケートに答えて「日本へ帰つて来たばつかりに小説を書くやうな運命になつた」といっている(『鷭』1934年4月)。これは単に地理的に移動したということだけを言っているのではないだろう。移動にともない、中島が、そして周囲の同様の移民たちが直面せざるをえなかった多くの困難を、彼は語り出さずにはいられなかったのかもしれない。母なるハワイに「旅をしろ」とうながされて向かった「一つの道」の途上で彼を呼んだ「声」とは、もしかしたら彼ら移民たちの呼び声だったのかもしれない。小説を書くことは、その声に応えるために彼が選んだ、一つの方法だった。

3.『ハワイ物語』

『ハワイ物語』表紙

中島の代表的な著作は、その唯一出版された書籍『ハワイ物語』である。川端康成の序文が付されたこの本には、「ワイアワ駅」「ハワイの二少年とキャンプ」「ミス・ホカノの鞭」「キビ火事」「すゐぎゆう」「胡椒」「森の学校」「キヤンプの幻想」「カナカ」「布哇生れの感情」の10作品が収められている。

この書物は、実は文学史的にはその出版をめぐるドタバタ劇の方が著名なのだが、紹介する余裕はないためそちらについては、浅見淵『昭和文壇側面史』などを参照していただこう。ここでは、一作品だけ、内容を紹介しておきたい。『ハワイ物語』巻頭の短篇「ワイアワ駅」である。

物語は、ハワイのパブリックスクールに通う少年ナオトの日常のさまざまな点描をメインストーリーとしている。これに新しく日本から呼び寄せられた兄・茂が引き起こすハワイでの生活への不適応、その結果としての死去が、サブストーリーとして交差する。結末は、兄の事件の直後、事件の結果家族は父を残して両親の郷里に帰国するというものだ。

作中に面白い仕掛けがある。集落にある駅には、落書きがされているという。この乱雑な落書きは、移民たちのコミュニティのコミュニケーション装置であり、また記憶の堆積そのものでもあった。中島の小説は、この落書きを参照しながら、みずからのワイアワでの少年時代の、甘くそしてつらい出来事を重ね書きしていく。

その重ね書きの重層性のうちに、我々は彼が描きたかった移民たちの「声」を聞くことができるだろう。彼が母と呼んだハワイは、彼に旅をしろと命じ、そして彼はその旅の途上で聞こえたという声に導かれて小説を書いていた。その声がなんと言ったか彼は明らかにしていないが、それを解読するのは『ハワイ物語』を今読む、我々の仕事なのだと、私は考えている。

参考文献

日比嘉高「望郷のハワイ -二世作家中島直人の文学-」『文学研究論集』(筑波大学比較理論文学会)第27号、2009.2

© 2010 Yoshitaka Hibi

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Sobre esta série

関西居住の学徒が移民・移住に関わる諸問題を互いに協力しあって調査・研究しようとの目的で。2005年に結成された「マイグレーション研究会」。研究会メンバー有志による、「1930年代における来日留学生の体験:北米および東アジア出身留学生の比較から」をテーマとする共同研究の一端を、全9回にわたり紹介するコラムです。