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海を渡った日本の教育

第11回 北パラナ地方(2)

サンパウロ州境のカンバラからはじまった日系移民の北パラナへの入植は、同地方の開発とともに1930年代に広がりを見せ、日系教育もそれにしたがって拡大していった。ブラジル日系教育の統括機関であるサンパウロ日本人学校父兄会が1936年にブラジル日本人教育普及会改組され、会長に元外交官の古谷重綱が就任した。この普及会は、ブラジル国内に第1から第6支部を創設したが、第3支部に北パラナのカンバラ区、ロンドリーナ区、トレス・バラス区が入っている(ブラジル日本人教育普及會, 1937, p.47)。

トレス・バラスは、ロンドリーナの東隣に位置し、1932年に開発がはじまった。サンパウロ州のバストスやチエテと同じく、ブラ拓(有限責任ブラジル拓植組合=Sociedade Colonizadora do Brasil Limitada)によって、3万500ヘクタールの土地が購入され分譲された。ブラ拓は、日本人自作農育成のため、各移住地に病院、製材所、精米所、農業試験場、倉庫などのインフラを整備したが、中でも立派な学校を所有している(あるいは計画されている)ことは、移民たちにとって大きな魅力であった。その中心となる市街地は、移住地の発展を祈って朝日になぞらえ「アサヒ」と命名されたが、のちに日本語名を付すことへの考慮から、ブラジルの樹木名をとって「アサイ」としたという1。現在のアサイ市である。

このトレス・バラス移住地では、開拓二年目の1933年には家族数も漸増し、3月に市街地に敷地を選定して学校建設に着手、翌1934年4月に落成した。これが中央小学校(アサヒランジア小学校)で、この地区の最初の日系教育機関となった。ついで入植者の激増とともに、ペローバ区、バルサモ区、フィゲーラ区、パルミッタール区、セボロン区、アルトパウダリオ区、ロゼーラ区、アモレーラ区、カビウーナ区と、移住地内各区に日系小学校が開設され、1941年には、ジャンガーダ区、タンボリ区にも小学校が落成し、全部で12校を数えた(トレス・バラス青年連盟, 1960, p.134)。

囀(さえずり)や 校舎と言うも 丸木小屋 (坂本美代子) (トレス・バラス移住地五十年史編纂委員会, 1982, p.15)

これは当時のこの地方の学校のことを詠んだ俳句で、開拓初期のブラジル日系移住地の学校の様子をよく表している。

2009年の12月にアサイを訪れた筆者は、中央小学校やパルミッタール小学校で学んだ7人の人びとに集まってもらった。かつての小学生たちも、今は80代の、しかしいずれも元気なお年寄りたちである。ポルトガル語で挨拶し始めると、YS氏(1930年生)が笑って、「僕らはみんな日本語の方が得意なんですよ」と言ってお話がはじまった(写真11-1)。

「1934年頃には、辻本正行先生だった。」
「森川先生もいたね」
「渡辺先生はブラーボ(筆者注:怒りっぽい)だった」

などと、当時の先生評ひとしきり話が進んだ。

トレス・バラスの小学校に学んだ皆さん(2009年12月、筆者撮影)

学校時代でいちばん思い出に残っていることは?とたずねると、

「授業が始まる前は、ラジオ体操をしたり、陸上の練習をしたり…」
「タツー(アルマジロ)を捕まえて教室で食べたこともあったね。あの時は臭くて、ずっと鼻をつまんでいた」
「収穫の終わる10月頃、運動会があったね。賞品に帳面をもらってうれしかったよ」

などと話に花が咲く。いちばん年長のHHさん(1925年生)とHUさん(1926年生)が修学旅行のことを語ってくださった。

「ジャタイジーニョから薪を炊く汽車に乗って、サンパウロとサントスへ行きました。一等車だったのね。そう、もううれしくて…女の子はみんなサイヤ(スカート)が青で、上が白の制服。男の子はエスコテイロ(ボーイスカウト)みたいな制服着てね。5年生ばかり、24人で行きました。オウリーニョスで乗り換えて、サンパウロまで汽車で二日かかった」
「サントスでね。大阪商船のりおでじゃねいろ丸を見た。船の中でヨロイ・カブトを見せてもらった。楽しかったねえ」と、思い出話はつきない。

こうして、土地が肥沃で、新開地だった北パラナは鉄道路線や道路がのびるにつれ、どんどん開発されていった。このような北パラナの開発に日本資本も目をつけることになる。

野村農場は、戦前に日本の野村財閥(野村合名株式会社)によって買収された1200アルケールの農場で、カンバラの南西部に位置する。開発当初の農場の主作物はコーヒーで、1928年2月から栽培に着手、120万本のコーヒー植え付けを計画していた。また、コーヒー以外にも適作物を求め、小麦の試験栽培も行っている。1937年には、小麦の自給自作を計画していたフェルナンド・コスタ農相がリオから視察に来るほどだった(五十嵐, 2005, p.21)。

カンバラに遠征したバンデイランテス地区陸上チーム(野村農場小学校を含む)(1938年頃、SUさん提供)

1935年に野村農場に入植し、同農場の日本人会副会長を務めていた小田五郎兵衛は次のように記している。

当時、同農場では日本人廿五、六家族が在住し、日本人会を結成、日語学校を経営していた。(中略)当時のブラジル教育事情を見ると、町には三年制の小学校位はあったが、遠方の植民地などにはブラジル語学校はなかった。カンバラには正規の学校があった。従って日本人が子弟の教育という場合は、内容の良否は問わず、日語学校に頼る以外になかったのである(小田, 1988, pp.14-16)。

「野村農場にはね、子どもは少なかったけど、立派な学校があったのよ」と言うのは、この農場で生まれ育ち、農場内の小学校で学んだSUさん(1928年生)。「私は陸上の高跳びの選手だったの。(農場には)立派なカンポ(競技場、広場)まであったのよ」と、少女時代を語る。30年代後半には、北パラナの各学校や地域間のスポーツ交流もさかんになり、SUさんはカンバラに遠征した時の写真を見せてくださった。戦前の運動会や野球、相撲の集合写真は多いが、この写真はSUさんが棒を跳び越える瞬間をとらえた珍しいもので、スポーツ少女の面目躍如たるものだ(写真11-2)。

野村農場小学校時代のSUさん。走り高跳びの選手だった(1938年頃、SUさん提供)

ただ、これらの日系教育機関の日本語学校としての時代は、そう長くは続かなかった。何度もふれているが、ブラジルではヴァルガス政権下の「新国家体制」の確立とともに、1938年12月には、ブラジル全土の外国語学校に対して閉鎖が命じられる(ブラジル日本移民70年史編纂委員会, 1980, p.75)。この頃には、トレス・バラス中央小学校は教師数7名、児童数240名に達していた。この中央小学校に他の7校を合せると、児童数は673名に達していたのである(トレス・バラス青年連盟, 1960, p.135)。この頃になると多くの日系教育機関は日本語・ポルトガル語の二部制をとっており、外国語学校閉鎖命令イコール学校そのものの閉鎖ではなかったが、前回述べたロンドリーナ中央区小学校同様、インフラを整え、教員・生徒が拡充された矢先に日本語での教育が禁止される皮肉な例は枚挙にいとまがない。

そして、1941年12月に太平洋戦争の勃発である。1942年には、ブラジルの日系社会にとって決定的な出来事が訪れる。先の小田氏は北パラナにおける「日本との国交断絶」「日語教育の中止」という出来事を次のように記している。少し長いが、当時の様子をよく伝えているので引用する。

四二年一月、ブラジルのリオ・デ・ジャネイロに於いて南北米救守同盟会議の結果、ブラジルは一月二十八日に日本と国交断絶を宣言する。ここに於いて我々日本人は、ブラジルの敵国人となったわけである。

国交断絶宣言と同時に、日語教育関係者はサンパウロの総領事館に集合を命ぜられ、時の川越総領事から次の様な内容の訓示があった。

今回の事件で我々は帰国せざるを得なくなった。後に残った日本人諸君は、先ず第一に日語教育団体を解散してほしい、現に最早、文教普及会2は解散した。次に日語学校も一時、閉鎖していただきたい。尚、邦人間には多少の問題が起こるかも知れないが、いかなる場合にも、隠忍自重して良く家業に励んでもらいたい。絶対に軽率な行動に出られない事を望む」

私は帰郷すると直ちに、この事を各植民地に伝達しなければならなかった。以前であれば、日本人会々長の集会を開き、伝達すれば事足りたが、この時はすでに日本人の集会は禁じられていた。当惑していた時、バンデイランテス町の竹本氏が、当時にしては珍しく中古車を持っておられ、それを提供してくださったので、氏と二人で三日間に亘り各植民地を廻って、総領事の訓示を伝達した(小田, 1988, pp.19)。

こうして、ブラジルの日本語教育は、ブラジルを去っていく日本政府当局者からも終止符を打たれてしまう。北パラナの各日系教育機関では、この後も、サンパウロ同様に少人数での隠れての授業や巡回教授によって、細々と日本語教育が継続されていたらしい。チズカ・ヤマザキ監督の映画「ガイジン2」はロンドリーナが舞台だが、お祭りの準備を装って子どもたちを集め、官憲から隠れて日本語の授業をする学校の様子が描かれている。

戦争による「五ヵ年の空白」期を経て、1940年代末から50年代前半にかけて、北パラナのあちこちで日本語教育が復活した。トレス・バラスでは、1947年にはいちはやく児童愛護会が結成され、それが1949年9月にトレス・バラス教育会に発展する。翌1950年9月には、ロンドリーナ教育研究会が発足し、北パラナ各地で個別に復活した日本語教育の連絡や研究活動を開始した。1958年には、パラナ州全体の日本語教育の連絡・交流組織であるパラナ教育連合会が発足している(パラナ教育連合会, 1988, p.32)。この後もさまざまな紆余曲折を経ることになるが、現在この地方は、ブラジルあるいは世界でも有数の日本語教育の中心地であり、日系文化の発信源となっているのである(写真11-4)。

ロンドリーナ市内のトミ・ナカガワ記念広場。鳥居や笠戸丸をイメージしたモニュメントがある(2009年12月、筆者撮影)

注釈
1. ポルトガル語では、「朝日」(asahi)も、樹木の「アサイー」(açaí)もほぼ同じ発音。ただし、現在のアサイ市はAssaiと表記。
2. ブラジル日本人教育普及会の後身。

参考文献
五十嵐俊夫(2005)「パラナ州の日本人」パラナ日本移民百周年への道程刊行委員会編『パラナ日本移民百周年への道程』パラナ日伯文化連合会pp.13-30

小田五郎兵衛(1988)「日本語教育の回顧談」パラナ教育連合会編(1988)『ひとすじの道』パラナ教育連合会pp.14-20

トレス・バラス移住地五十年史編纂委員会編(1982)『トレス・バラス移住地五十年史』トレス・バラス移住地五十年史編纂委員会

トレス・バラス青年連盟編(1960)『トレス・バラス移住地:開拓二十五周年記念』トレス・バラス青年連盟

パラナ教育連合会編(1988)『ひとすじの道』パラナ教育連合会

ブラジル日本移民70年史編纂委員会(1980)『ブラジル日本移民70年史』ブラジル日本文化協会

ブラジル日本人教育普及會編(1937)『黎明』第1巻1号, ブラジル日本人教育普及會

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© 2010 Sachio Negawa

Brazil education Parana

Sobre esta série

ブラジリア大学の根川幸男氏によるディスカバー日系コラム第2弾。「日本文化」の海外展開、特に中南米での事例として、世界最大の日系社会を有するブラジルの戦前・戦中期 から現在にいたる日本的教育文化の流れと実態をレポート。