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https://www.discovernikkei.org/pt/journal/2009/5/28/mitui-colmena/

三井波夫氏講演「コルメナの移住について」 (後編)

>>前編

そうこうするうちに、日米戦争が1941年に始まりました。その戦争がラ・コルメナの我々にどういう影響があったかというと、パラグアイは日本に宣 戦布告までは行かなかったが、国交を断絶した。その為、日本語学校の校長先生や日本から派遣されていた診療所の先生、管理事務所の高級職員等が、当時中立 国だったスペイン大使館を通しどんどん帰って行った。従って生活が苦しかった移住地ですが、更に陸の孤島になってしまい、誰に頼ろうとも頼れない、親から 追い出された乳飲み子みたいな状態になってしまいました。

また、何故かパラグアイが、終戦前に日本に宣戦布告して我々は敵国人になり、いっぺんにラ・コルメナ管理事務所の表玄関に捕虜収容所の看板が掲げら れ、干渉官が乗り込んできました。日本語学校の建物と教材は全部没収、日本人青年団も自治体など全部の団体組織が解体された。行動も規制される捕虜収容所 なので、外務省の許可無しに3人以上が集まると罰則だし、祝いや酒を飲むのもダメ。

入植2年目に9家族が脱耕したと言いましたが、そのあおりや植民者大会でまた脱耕が再燃し、われ先にと主にアルゼンチンに転住して行った。ところが この宣戦布告で捕虜になった為、逃げることも出来ず、干渉の中、細々と生活していました。当時、拓務省の主治医として診療所に派遣されていた田中秀雄ドク ターだけがラジオを持つことを許され、日米戦争開始時からずっと毎朝、日本の短波を受信し、内容を張り紙に書き出してくれた。皆は、終戦間際になっても日 本の東洋艦隊は健在だから、そのうち連合艦隊になったら日本は絶対勝つと思い、日本が負けるなんて誰も思わなかった。だから皆、戦勝後、日本に帰りたいと 思っていました。

当時移住者には永住を目的に来た人はおらず、お金を稼いだら日本へ帰ろうと、100人のうち100人がそう思っていました。ところが、皆、毎朝張り 紙で見て、まだ大丈夫、まだ大丈夫と言っていたが、段々戦況が悪くなりどこまでもつのか、硫黄島の玉砕や沖縄の玉砕、最後にはとうとう8月15日の天皇陛 下の終戦勅語です。それでもう日本は負けたのです。

元々「出稼ぎに来て金がたまったら、日本に帰るんだ」という人たちで、開拓事務所に土地代を払う者はバカにされた。「お前、ここで死ぬつもりかっ て」、「日本へ帰るのに土地代なんか払う奴が、あるかと」(笑)。だが敗戦でそれが一転して「もう日本にも帰れない」と、土地代も払わなくちゃならないと なった。しかし、終戦になっても、すぐには干渉官制度は解除されず、制度が終わったのは終戦から5年か、6年経ってからです。

我々は敵国人ではあったが、当時、コルメナ小学校校長として就任されたアグスチーナ・ミランダさんという人が、とても日本人贔屓で、政府と交渉して くれました。我々の生命財産に問題は無かったし、むしろアグスチーナさんが学校や青年団体を作ってもいいように交渉してくれた。1945年に戦争が終わ り、その翌年、当時どこへも出れず、うちにこもっていた青年達に、これでは移住地の将来が不安だからとアグスチーナさんが団体を作ることを計画してくれた んです。

ただ干渉政策が済んでないから、右翼的に聞こえる日本人会的なものは控えようと、まずは体育協会を作ったんです。体育協会は、他に団体が無いから演芸会や、いろんな娯楽活動もやりました。

戦争が終わって、再び移住地を去る人が現れるようになり、講和条約ができる1951年頃までには、移住者の半数以上が移住地を出て行きました。 1948年頃、どんどん移住者が転住していく中で、将来をどうするべきか、コルメナは消滅するのか存続できるのか、その岐路に立った。生か死か、二つに一 つ、頑張ろうというので有志が立ち上がって、農業協同組合を作り、自分達で作った物は自分達で売ろうと頑張ったわけです。その頃、朝鮮動乱と言って、南北 朝鮮の戦争が始まったので、工業製品が無くなったせいか、入植してからずっと作っていた綿がすごく高騰しました。綿の好景気で一文無しの農協が何とか息を 吹き返して、残った組合員もやっと息がつけるようになったのですね。

コルメナに入植して非常に苦しい生活をしたが、何とか息をつけるようになったのは20年後。その頃、皆さんご存知の通り1955年にチャベス移住が 始まり、続いてラパス、それにアマンバイとかピラポ、イグアスと次々に日本人の移住者が来ました。コルメナは沈滞というか、消沈というか、どうしようもな いという諦めみたいなものがあったが、日本から来た新しい人は非常に元気が良いので、我々コルメナも一つ頑張らなきゃいかんと考えるようになりました。新 しい同胞がパラグアイに入植してきたのは、私達や子供達の為に、非常に良い刺激になりました。

コルメナの苦労は、戦争での日本からの縁切りが一番です。あと二つあげるとすれば、その一つは1946年、つまり終戦翌年あたりに、体の長さが 10cm以上12cmくらいの大きなバッタが大群で襲ってきたこと。それはほんとに、見ないと信じられないが、あたりが暗くなるくらいの大群になって、幅 が4kmから5km、長さが10km以上の大群で移動してくるわけです。「そら、バッタが来たぞ!!!」って。バッタが空からどんどん、どんどん降ってき て、家の周りにある青いものはみんな喰っちまった。バッタが木に止まり、その木の枝が夜中にバリバリって折れる音が聞こえるくらいバッタが群がり止まるの ですね。その上、困ったのは、そのバッタが地上に降りて産卵するのですが、このバッタを殺すのに棒で叩いて殺しても間に合わない。石油の火炎放射器で焼き 殺したり、畑に穴や溝を作ってそこに集めては石油で焼き殺すんですね。

しかし量が量だから簡単には終わらない。また産卵を終えたバッタが隣の畑に移動し始めるのですが、最後にはもうお手上げだというので、石油代を払え ない人も出てくる。隣の人は「おまえがそんなこと言ったって、おまえのとこからバッタがうちの畑に来るんだ、どうするんだ!」(一同笑)。もう大変な騒 ぎ。バッタ騒ぎは46年に始まって途中内乱があったりして、確か50年頃まで続いたかな?それが当時の一番の天災・災難ですね。

もう一つの災難は、バッタが来た翌年の47年。パラグアイは経済的にも問題があり、政情が不安で、大きな政党が赤党と青党という二つに分かれました ことです。北部のコンセプシオンで青党が軍の一部を抱き込んで、反乱を起こし、政府軍をやっつけろと内乱が始まったのです。それがアスンシオンに飛び火し て、アスンシオンから全国へ飛び火し、全国でとにかく鉄砲の撃合いですよ。移住者も自警団みたいなのを作ったり、「夜おかしな者が団体で通ったら政府駐屯 所にすぐ知らせろ」というお達しが政府から出たり、「移住地の入口や出口に座り込んで、変なのが来ないかおまえら監視しろ」とか。「家に反乱軍が来て、家 の中を壊されるかもしれないから、戸締りを厳重にせよ」とか。戸締りたって外だか内だかわからないようなあばら小屋に、戸締りのしようもない(笑)。

また、政府軍にも芋とか食料を供出しました。馬も供出させられたが、決まった人だけが供出したらその人が耕作も植付けもできないということで、いろ いろ話し合って皆に平均に負担が行くように工夫もしました。このような暮らしが2月から8月まで6ヶ月程続いたんです。これが国外転出に油をかけ、「パラ グアイは何と言ったって駄目だ、アルゼンチンに行く!」そう言って移住者の半分以上は転出しましたね。そんな中、農協を作って何とか立直りを賭け、新しい 日本からの移住者が来てくれそうだと、少し元気づいたわけです。

一方、コルメナの日系社会では1946年に初めて作られた体育協会の幹部のほとんどが壮年。私はちょうどその頃、青年期の真っ最中でしたが、「お前 ら右向け、左向け」と、その通りに動かないと、怒ってガツンとやられたもんです。それで自分達で新しいものを作って自分達でやろう、体育協会は我慢できな いと、青年独自の運動を起こしたんです。その結果、青年団ができ、それから農協ができた。当時、青年団は男子青年と女子青年と別々に行動していました が・・・。

パラグアイの国自体も、ストロエスネル大統領が出て政治が非常に安定し、パラグアイの経済も上昇気流に乗りました。その後、農協が音頭をとって、婦 人達も少し外に出る機会を作らなければと農協婦人部も作られました。1986年、パラグアイ日本人移住50周年記念式典が行われ、ラ・コルメナでも記念慰 霊祭があり、常陸宮殿下が来られました。移住50周年記念碑をどこへ建てるか話し合われましたが、ラ・コルメナの記念事業でもあるからと、この文化協会の 前に50周年記念碑が建てられました。その時、婦人の方々皆でまかないをしようと、農協婦人部を文化協会婦人部に切り替え、婦人の方全員でまかないをした わけです。

そろそろ結論に入りますが、ご存知の通り、ラ・コルメナ以後、戦後あちこちの新しい移住地へ、日本からの移住者が入植し、現在へ続いているわけで す。では、「ラ・コルメナ移住は何であったか」というと、まず挙げられるのは試験移民に合格(成功?)したということですか。100家族の試験移住に合格 (成功?)した、その結果、新しく日本移民の受入れが認められ、、、1960年には、、、向こう30年間で8万5000人を受け入れるという移住協定がで きました。たまたま、日本の経済成長と所得倍増計画にぶつかり、新しく移住した数は少ないですが、8万5000人の移住受入れ協定は現在も有効で、廃止さ れていないですよ。

また、私達も少しはお国の為に役立ったかと思う。植民者大会で小関領事が「平和の戦士として頑張って下さい」と言われたが、この要望にも一応、応え ることができた。いろいろありましたけど、この村で、ラ・コルメナで、日本人が何とか頑張って、パイオニアの役目を果たすことができたかなと…。

私も16歳でパラグアイに来たんですが、パラグアイに着いた時は本当に落胆したんですけど、、、、永住覚悟で、なんでこんなとこへ連れて来たと。でもね、まあ結局はいいとこへ来たと思っています(笑)。

それにつけても一番思い出すのは、そう、私が一番深く関わったのは、後継者の育成、つまり将来を担う日系人の在り方です。それに一番関心が強いし、 また期待もしています。その人間作りの教育現場で一生懸命やっておられる先生方に、一言言わせて頂けるとするなら、人作りが一番大切だということですね。 読み書きはもちろん大事ですけれど、それに合わせて子供達にはアイデンティティを意識させてほしい。日系であることを誇れる三世・四世に育ててほしい。祖 国日本を離れ、遠くこのパラグアイに来ているのだから。先生方にも頑張って頂きたい、ほんとにそれを切にお願いしたいと思います。

じゃこれで、終わらせて頂きます。(一同拍手)

[*この講演は、2008年11月7日、ラ・コルメナ日本語学校で開催された、全国日本語教師研修会に際し行われたものを書き起こしたものです。]

* 本稿は、パラグアイ日本人会連合会(ディスカバー・ニッケイの協賛団体)が協賛団体の活動のひとつとして、当サイトへ寄稿したものです。

© 2009 Namio Mitsui

About the Author

Nasceu na província de Nagano. Em 1938, aos 16 anos, foi levado pelos pais para La Colmena, primeiro assentamento japonês no Paraguai. Após a Segunda Guerra Mundial, ele e seus amigos trabalharam para introduzir frutas como uvas, ameixas, pêssegos, mangas e poncans em La Colmena, uma área de assentamento de onde agricultores partiram para a Argentina e o Brasil. Ela se desenvolveu a ponto de ser chamada de a ``aldeia das frutas''. Nesse período, ocupou cargos como presidente da cooperativa agrícola distrital e presidente da associação cultural, e posteriormente ocupou cargos importantes, como presidente da Federação Paraguaia de Clubes de Idosos, e hoje leva uma vida tranquila.

(Atualizado em maio de 2009)

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