Descubra Nikkei

https://www.discovernikkei.org/pt/journal/2008/12/5/nihon-no-kyouiku/

第2回 大正小学校 (1)

坂の多いサンパウロの中心部に、ブラジルの日本人にとって特別な坂がある。

      「おいジャポネース(日本人)、気をつけなよ。この辺りはドロボーばっかりだよ」

 

地図3-1 クリックして拡大

汗をふきふきその急坂を上り下りしていると、中年の男が声をかけて通り過ぎていった。昼間でもこの辺りは物騒である。「こんなところで日本人がウロウロしていると危ないよ」と、親切で言ってくれているのはわかるが、私はよっぽどその男の背中に、声をかけ返そうかと思った。

    「この辺りは昔ジャポネース(日本人)ばかりだったんだよ…」

そう、このコンデ・デ・サルゼーダスの坂は日本人にとっては特別な坂なのだ(写真2-1)。サルゼーダス伯爵のお屋敷のあったこの通りには、100 年前に日本人が住み始めた。雨が降れば今でも通りが川となり、坂の下はすぐ水に浸かってしまう。日本人移民が住んだのはポロンと呼ばれるじめじめした半地 下の住居だった。それでも、ここに来れば、日本語で話す相手がおり、うどんが食える。坂下のグランドで野球の試合が行われることもあった。この坂道を中心 に「コンデ界隈」と呼ばれたこの付近は、ブラジルでもっとも早く日本人街として栄えたところだったのだ(地図3-1, 地図3-2参照)。

地図3-2 クリックして拡大

ブラジル最初の日系教育機関(「教育機関」と呼ぶには、あまりにも素朴な姿であったが)とされる大正小学校も、1915年にこのコンデ界隈の中心コンデ・ デ・サルゼーダス通りの坂下に創設された。その頃のブラジル日系人口は1万5000人余。コンデ界隈には、耕地を飛び出した日本人が職を求めて集まってき ていた。同校は、当時叩き大工だった菅譲二宅に下宿していた宮崎信造、橋本重太郎、西本徳右衛門(あるいは徳左衛門)、藤井吉之助の4名の発起により、コ ンデ・デ・サルゼーダス通り38番のイタリア人エドワルド・マルチェリ氏宅の階下に寺子屋式日本語学校として始められた(写真2-2)。同年の10月7日 のことである(パウリスタ新聞, 1975/09/30)1

草創期の大正小学校は、何度か廃校の危機をくぐらねばならないほど、生徒数も少なく、経営基盤もあやふやであった。鈴木(1941)は、初期の同校の状況を次のように描写している。

    大正小学校の位置はコンデの坂を降って行くと右側で、木村清八の向側の引込んだ平屋建の一間を借りたものであった。生徒数は最初が三人、それから 五人となり、七人となった。月謝が月三ミルであった。室の借賃が二十ミルレースであったから、生徒数が七人に増加した時でも、漸く室代を支払ふに過ぎな かった(p.214)。

日雇い大工や家政婦などその日暮らしのコンデの住民たちが、学校の経営を支えていた。その後、同校はコンデ・デ・サルゼーダス通りで何度か場所をか えながら、1919年にはやっとサンパウロ市の公認私立学校となった。翌年には後援会が結成され、コンデ界隈の日本人街の発展とともに、生徒はようやく増 えていった。

大正小学校初代校長となった宮崎信造は、コンデの住民と苦楽をともにし、草創期の同校を献身的に支えた人物である(写真3-3)。福岡県の出身で、 日本で中学教師の後、東京外語スペイン語科を経て、笠戸丸以前の内田定槌公使の料理人として明治40年にブラジルに渡航した。半田(1970)によると、 「ずんぐりして丈夫そうな体格、武士は食わねど高楊枝式に、いつも着ふるした黒っぽい洋服に、油じみた中折れ帽をきちんとかぶっていた」そうで、「明治時 代の漢学の先生みたいな風格」があったという。厳格で時々生徒たちに雷を落としていたという逸話も伝わっている。当時校舎の隣に住んでいたという芳賀貞一 (元弁護士)は、「時々、学校から生徒を叱りつける、宮崎先生のブラーボな声が僕の部屋まで聞こえてきたものです」と証言している(パウリスタ新聞, 1975/10/02)。反面、「本当に子供が好きで(中略)、長い歳月一日のごとく教鞭をとっていた」という。1924年6月、胃癌のため死去。死ぬま で独身だった。宮崎の死後、吉原千畝が校長として赴任している(前掲パウリスタ新聞)。

宮崎とともにコンデ時代の大正小学校で忘れてはならないのは、最初のポルトガル語教師ドナ・アントニア・サントスである。先の芳賀は、「肌の黒い女 性で、厳しいが優しく、本当に子どもたちの世話を焼いてくれました」と母を懐かしむような表情で筆者に語っている。芳賀の一級上で、ブラジル日系人最初の 連邦議員となった田村幸重は、コンデ時代の同校に学んだ数少ない生き残りの一人である。

田村とドナ・アントニアの師弟関係は、ブラジルで創作された浪曲「田村幸重の少年時代」(1962)に歌われている。この曲は街頭のパステス2売りから連邦議員に登りつめた田村の出世物語である。その歌詞を分析することは本稿の目的ではないが、この浪曲から、田村に仮託された日系移民二世の理想的パーソナリティを見て取ることができる3。 すなわち、田村少年が街で悪ガキどもが「黒ん坊」の靴磨きをいじめるところに出くわし、それを止めようとするが、逆に自分の学校の「黒ん坊」の先生(=ド ナ・アントニア先生)を侮辱され、その悪ガキどもを投げ飛ばすシーンがある。ここには、「曲がったことが嫌い」で「負けず嫌い」な田村の性格が強調され、 それは「僕は日本人だから」とその理由づけがなされる。また、白人らしき強者で多数派の人種差別主義者への反感とともに、黒人にも差別感を持たない正義感 あふれる少年としての田村が描かれている。田村の担任の先生であるドナ・アントニアは、「黒ん坊の先生、世界で一番やさしい立派な先生」と歌われ、街でケ ンカをして帰ってきた田村を厳しく叱るシーンも描かれている。

田村は、大正小学校を卒業後、苦学してサンパウロ大学法学部を卒業。弁護士となり、1948年にサンパウロ市議に当選。州議を経て、1954年つい に連邦議員となり、大正小学校出の出世頭とされた。ドナ・アントニアが亡くなった時、追悼演説をしたのは田村だった(パウリスタ新聞, 1975/10/02)。

大正小学校創立の頃に話を戻そう。この頃、サンパウロ州各地に植民地と呼ばれる日系人の集団地が開かれていったが、同時にいくつかの日系小学校も開 設されている。1916年にコチア小学校(サンパウロ市近郊コチア)、1917年には、桂小学校(サンパウロ州レジストロ)、アグア・リンパ小学校(同州 ビリグイ)などが創立され、20年代になると急速に増加した。移民の同化政策を推進するヴァルガス政権発足の1930年代に至ると、公認・非公認あわせ て、その総数は200校を数えるようになる。

1927年にサンパウロ総領事であった赤松祐之の肝いりで在伯教育普及会が日系諸学校の連絡機関として設立された。この普及会は、1929年には在サンパウロ日本人学校父兄会に改組され、日系子弟教育の中心機関として、ブラジル日系教育機関の学校経営に関与していく。

大正小学校は、1928年10月、父兄会の協力と総領事館の全面的支援により、現在ブラジル日本文化協会ビルのあるサン・ジョアキン通りに移転し た。移転といっても、同じリベルダーデ地区内の歩いて10分ほどの距離である(地図2-1参照)。新たに購入した新校舎は、階下に8教室、職員室、二階は 教育父兄会の寄宿舎を備えていた(パウリスタ新聞, 1975/10/03)。1932年からは、日本の外務省を通じて師範学校を卒業した複数の教師が派遣されるようになり、授業や課外活動も充実する。創立 当初と比べると隔世の感があった。

「一生に一度、火熨斗のかかった折り目のあるズボンをはきたい」と親たちが願い、子どもたちは裸足で坂道を走り回っていたコンデの日本人街。その初期に産声をあげた大正小学校は、紆余曲折を経ながらも発展していき、やがて「コロニア一の学校」として成長していくのである。

次回に続く >>

注釈
1. 同校の創設を1915年10月7日とするのは通説である。『ブラジル日本移民・日系社会史年表』改訂増補版(以下『年表』と略す)によると、 1913~14年頃、田頭甚四郎という人物がコンデ・デ・サルゼーダス通りに私塾を開いていた。1915年にこの塾を宮崎がゆずりうけ、大正小学校と名の るようになる(サンパウロ人文科学研究所, 1996, p.36)。これに対し、笠戸丸以前の日本人移民の一人であった鈴木南樹(1941)は、大正3年(1914)には宮崎がすでに同所で子供たちを教えてい たと証言している(p.212)。後に述べるように、日系コミュニティ最大の教育機関となる同校も、その実際の創設年代となると特定が難しい状況である。

2.油揚げの皮に肉や野菜を詰めたブラジルでもっともポピュラーな軽食の一つ。

3.細川(2008)は、この浪曲の内容を詳しく分析し、親孝行、勤勉、人種平等、キリスト教信仰の四つの教訓を含んでいるとする(p.439)。

参考文献

サンパウロ人文科学研究所編(1996)『ブラジル日本移民・日系社会史年表』(改訂増補版)サンパウロ人文科学研究所編

鈴木南樹(1941)『埋もれ行く拓人の足跡』私家版

天中軒満月(1963)「田村幸重少年時代」(浪曲)

半田知雄(1970)『移民の生活の歴史-ブラジル日系人の歩んだ道-』サンパウロ人文科学研究所

細川周平(2008)『遠きにありてつくるもの-日系ブラジル人の思い・ことば・芸能-』みすず書房

「大正小学校、その“歩み”」①~⑫『パウリスタ新聞』6649~6663号(1975/09/30~10/18)

*本稿の無断転載・複製を禁じます。引用の際はお知らせください。editor@discovernikkei.org

© 2008 Sachio Negawa

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Sobre esta série

Segunda coluna Descubra Nikkei de Yukio Negawa, da Universidade de Brasília. Como exemplo da expansão ultramarina da "cultura japonesa", particularmente na América Central e do Sul, este livro relata o fluxo e a realidade da cultura educacional japonesa no Brasil, que tem a maior comunidade nipo-americana do mundo, desde o período pré-guerra. e períodos de meio da guerra até o presente.

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About the Author

Sachio Negawa é professor-assistente dos departamentos de Tradução e Línguas Estrangeiras da Universidade de Brasília. Mora no Brasil desde 1996. É especialista em História da Imigração e Estudos Comparativos entre Culturas. Tem-se dedicado com afinco ao estudo das instituições de ensino nas comunidades japonesa e asiática em geral.

Atualizado em março de 2007

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