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日系アメリカ文学雑誌研究: 日本語雑誌を中心に

詩歌とエッセイの文芸誌『ハートマウンテン文藝』 -その3/5

その2>>

3. 『ハートマウンテン文藝』の創刊とその後の経過

1943年12月8日付けの『ハートマウンテン・センチネル』(日本語版)で『ハートマウンテン文藝』の創刊が1944年1月と予告されている。しかし1943年12月18日付けの同紙の記事から判断して、1943年12月20日に創刊されたものと推測される。最終号となった1944年9月号を含め、全部で6号発行された。6月号と8月号は発行されず、また7月号(1944年8月2日発行)については、今回入手できなかった。

この雑誌は高柳沙水から指導を受けながら、岩室吉秋と大久保忠栄(おおくぼ・ただしげ)が編集者となって創刊された。岩室吉秋は演芸会でマンドリン・バンドを率いて活躍する(岡田文枝の短歌、4月号)、文化・文学に強い関心を示す帰米二世である。また大久保忠栄は東京で生まれ、慶応普通部を中退して渡米し、洗濯屋に勤めながらサンフランシスコの文芸協会会員として、1930年代に日系新聞『新世界朝日新聞』や文芸誌『收穫』で活躍していた若い一世である。これら二人の編集者のうち、創刊号の編集作業は岩室吉秋が中心となって進めたようである(高柳沙水「選後の記」、創刊号)。

『ハートマウンテン文藝』の編集室は『ハートマウンテン・センチネル』の日本語版編集部内におかれ、印刷に必要な道具はすべてその日本語版編集部から借用した。

この文芸誌創刊の目的は、創刊号に掲載された「発刊の辞」の中で明らかにされている。執筆者の氏名は記されていないが、岩室吉秋と推測される。まず収容所生活の現状について、現在の世界的動乱の中に人間の「物質至上を謳歌した生活様式」の崩壊を我々は目撃し体験してきたが、受動的な収容所生活を送るなかでこの貴重な試練を軽視し、「世界思潮」の急速な変化に無関心になりがちである、と分析する。そして、「茲に文芸機関紙の発刊を見るに至った事は広くは無味乾燥なセンターの日常生活に文芸情緒のうるほひを与へ、文芸同人間に於ては思想の統一、芸術情緒の涵養、創作への精進を促進し、自ら省ては人生の意義を見出し、所謂知識人としての教養と人格を養成するに意義ある事と思ふ」と述べ、「仮死的状態から脱して新時代に対処する強健な精神と、遠大なる英気を養ひ、智識を広く百般に求めたい」としている。つまり、編集者が掲げるこの雑誌の目的は、無味乾燥な収容所生活に文学的潤いを与えるとともに、生活における物質至上主義を克服し、戦後の新しい時代を生きていくために、文学愛好者たちが力を合わせて自己研鑽に励むことを促し、その場を提供することなのである。日本語を用いてアメリカで創作活動に関わってきた人たちが程度の差はあれ、常に意識せざるを得なかった日本文化や日本文化への言及はここでは見られない。

『ハートマウンテン文藝』創刊のもう一つの目的に、この雑誌を中心として収容所内の文学愛好者たちが結集するハートマウンテン文芸協会を設立することであった(創刊号「編輯後記」)。しかし、まもなく編集者はこの構想が時期尚早であることを認め(2月号「編輯後記」)、結局、ハートマウンテン文芸協会の設立は実現されなかった。

『ハートマウンテン文藝』は詩歌とエッセイを基本とする文芸誌である。しかし雑誌の性格づけについて編集方針に混乱が窺われる1943年12月8日付けの『ハートマウンテン・センチネル』(日本語版)では「短詩型文学誌」であると予告されていたが、創刊号の「編輯後記」では「総合文芸誌」とあり、募集する原稿の種類として学術論文、随筆、自由詩、短歌、俳句、川柳、短編小説、小品を挙げている。総合文芸誌を意図していることは明白である。また、同じ創刊号で高柳沙水が「ハートマウンテン文藝の総合誌」と書いている。しかし4月号、5月号に記載された英語のタイトルはHeart Mountain Essay and Poetry Bookletとなっており、雑誌の内容をみれば、この英語のタイトルがこの文芸誌の性格をよく表現していることが理解できる。ただエッセイと詩歌を比較した場合、詩歌の方が完成度、充実度において優っているので、「エッセイと詩歌」ではなく「詩歌とエッセイ」とした方が適切である。

この雑誌の方針に関して特に我々の関心を引くのは募集原稿に、明確な内容上の制限を設けていることである。それは、学術論文の項に付された「時事問題ヲ除ク」という但し書きである。収容所内では出版物はすべてWRAの検閲を受けていたので、当局との摩擦を避けるため、摩擦を引き起こす可能性のある、時事問題を論じた原稿は受け付けないとする編集者の自己規制といえる。したがって当局および合衆国への批判的な見解を含む論文や評論がこの雑誌に掲載されることがなくなるとともに、他のジャンルの作品の投稿者にもそのような自己規制を意識させたと考えられる。

各号を概観すると、創刊号は短歌と俳句が大きな部分を占めていることが特徴的である。44ページのこの小さな文芸誌に27名の短歌が108首、23名の俳句が99句収められている。また川柳も12名の60句が載せられている。

寄稿者として高柳沙水、常石芝青、阿世賀紫海(俳句)、千崎如幻(せんざき・にょげん)(随筆)など、よく知られた人たちが名を連ねている。なかでも高柳沙水と常石芝青はそれぞれ短歌、俳句の選者を務めていて、この雑誌の強力な支援者であったことが再確認できる。(ただし、後に俳句の選者は藤岡細江に代っている)。編集者の岩室吉秋は好秋という名も用いて、詩や随筆など合わせて5点の作品を載せており、収容所で初めて文芸誌発行に賭ける彼の奮闘ぶりが示されている。創刊号は好評で、新年早々、増刷された。

2月号と3月号の編集責任者は岩室吉秋である。内容は創刊号とほぼ同じであるが、2月号にはじめて2編の文芸評論が掲載された。3月号では川柳の作品が非常に多く発表されるとともに、川柳の大御所・黒川剣突への追悼文が載せられていることが注意を引く。心嶺短歌会の会員であった松本吉太郎が戦時帰国日米人交換地から2・3月号に短歌を寄せ、評判となった評伝「華州の山奥に淋しく眠る日本最初の英語の先生」が3月号から始まっている。

4月号から編集者は大久保忠栄だけとなった。岩室吉秋がシカゴへ転住することになったからである。この号では随筆特集が組まれている。執筆者の4人は共に「ハートマウンテン文藝歌壇」に作品を発表している、短歌の愛好者たちである。他にも随筆や評論などがあるので、雑誌全体として散文の比重が今までよりも大きくなっている。グラナダ収容所から送られた俳句や転住先のシカゴの戦時風景を描く随筆、エステル・イシゴの詩と画も掲載されている。

5月号では高柳沙水が「歌壇」欄の歌以外に、初めて自分の作品を寄せている(「彩雲居抄」)。また、「藤岡細江女史還暦祝賀」の特別記事と祝賀句が載せられ、短歌と俳句はこれまで以上の充実を見せている。川柳も今までになく多くの作品が見られる。珍しく「小品」として若い女性の作品3編が収録されている。これら以外に「セイロンとはどんな国か」や「経済価値の意義に就いて」があり、随筆・評論の数は多い。

9月号の特徴は「センター2周年記念の頁」を設けていることである。そこには随筆と掌編とともに初めて短歌が掲載されている。大久保忠栄が作成した収容所開設以来の年表は『ハートマウンテン・センチネル』(英語版、1944年8月13日)のものよりもはるかに詳しく、所内の動きと生活を知る上で有益である。ただ、1年分しかないのが惜しまれる。9月号をもって『ハートマウンテン文藝』が終ったのは、大久保忠栄がシカゴへ去ったためである。

その4>>

* 篠田左多江・山本岩夫共編著 『日系アメリカ文学雑誌研究ー日本語雑誌を中心にー』 (不二出版、1998年)からの転載。

© 1998 Fuji Shippan

heart mountain Heart Mountain Bungei Japanese Japanese literature

About this series

日系日本語雑誌の多くは、戦中・戦後の混乱期に失われ、後継者が日本語を理解できずに廃棄されてしまいました。このコラムでは、名前のみで実物が見つからなかったため幻の雑誌といわれた『收穫』をはじめ、日本語雑誌であるがゆえに、アメリカ側の記録から欠落してしまった収容所の雑誌、戦後移住者も加わった文芸 誌など、日系アメリカ文学雑誌集成に収められた雑誌の解題を紹介します。

これらすべての貴重な文芸雑誌は図書館などにまとめて収蔵されているものではなく、個人所有のものをたずね歩いて拝借したもので、多くの日系文芸人のご協力のもとに完成しました。

*篠田左多江・山本岩夫 『日系アメリカ文学雑誌研究ー日本語雑誌を中心にー』 (不二出版、1998年)からの転載。